2代目・渋谷天外の立志伝

浪花千栄子の夫だった2代目・渋谷天外(しぶや-てんがい)の立志伝です。

2代目・渋谷天外の立志伝

2代目・渋谷天外2代目・渋谷天外(本名は渋谷一雄)は、明治39年(1906年)6月7日に京都の祇園で、初代・渋谷天外の長男として生まれた。

(注釈:混乱するので、「2代目」を省略し、初代を「父親」と表記する。)

母親は、祇園の芸者を相手する髪結いだが、松竹の差し金があったようで、生後3ヶ月の渋谷天外を手放して鳥取県の実家へと戻り、裕福な家庭の人と結婚した。

父親は母親と別れた後、祇園の仕立物をする女性・北村ウノの元に移り、渋谷天外は6歳ごろまで北村ウノに養育されたが、その後、大阪の新地の茶屋の女将さんの元で育った。

このため、渋谷天外は北村ウノを母親だと思っていたが、6歳ごろに北村ウノは母親ではないと教えられた。

さて、父親は、「鶴家団治」を名乗っていたが、「渋谷天外」と改名して、中島楽翁(曾我廼家箱王)と共に、明治41年に喜劇団「楽天会」を旗揚げし、全国的な喜劇俳優となっていた。

さて、当時は役者の子供が進学するなどとは考えもしない時代だったが、父親は無学だったことを恥と思っていたので、渋谷天外を東京・蔵前の知人に預け、蔵前の工業高校へ進学さようと考えていた。

そこで、父親は渋谷天外を東京公演に連れて行くのだが、「楽天会」の子役が急病で舞台に出られなくなってしまう。

当時の東京で大阪弁の話せる子供を見つけるのは不可能だったので、渋谷天外が代役として舞台に上げられた。

こうして、渋谷天外は、8歳の時に東京の明治座で初舞台を踏み、見事に子役をこなすと、大人が御菓子をくれたり、綺麗な芸者が褒めてくれたりしたので、「役者てなかなかええもんやなァ」と思い、進学を止めて、以降は「楽天会」の子役として活躍するのだった。

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父の死

デビューから2年後、渋谷天外が10歳の時に父親が死んだので、役者を辞めて進学を希望したが、芝居茶屋「岡嶋(岡島)」などの支援者が集まって話し合い、渋谷天外に役者を続けさせた。

しかし、「曾我廼家兄弟劇」をしのぐほどの人気を誇っていた「楽天会」も、看板役者だった父親が死ぬと人気が低迷した。

看板役者だった父親の威光がなくなると、劇団員から親戚まで、一気に手のひらを返し、渋谷天外は辛い辛い子役生活を送った。

そして、もう1人の看板役者だった中島楽翁が大正9年9月に死ぬと、「楽天会」は低迷の一途をたどった。

渋谷天外は「楽天会」を離れて、半年ほど浅草で過ごし、「楽天会」へと戻るが、「楽天会」は大正11年(1922年)9月に巡業先の九州で解散してしまうのだった。

迷走

渋谷天外は16歳になっていた。子役としては中途半端な年である。小学校も出ていないので、いまさら学問を志すという事もできない。

役者を辞めて親戚が営む店で働いてみたが、長続きはしない。

そこで、父親のファンだった株の仲買人・絵野幸次郎に頼んで、働かせて貰おうと思い、絵野幸次郎の自宅を訪れたのだが、2時間ほど待たされたので、居眠りをしてしまった。

すると、絵野幸次郎は「自分の一生のことを頼みにきて昼寝をするような人間は、北浜にはいない。積みの役者が分相応だ。帰れ」と激怒し、紙包みを叩きつけた。

この包み紙には10円札が3枚入っていた。昼寝を叱って追い返したのは、なんとか役者として成功して欲しいという親心だったのだろう。

作家デビュー

進路の決まらない渋谷天外は、喜劇役者・曾我廼家十郎の見舞いに行って近況を報告すると、曾我廼家十郎は脚本を書くように勧めた。

渋谷天外は小学校も出ていなかったので、脚本など書く自信は無かったが、曾我廼家十郎は「学問は学校だけやあらへん。小さい時から喜劇の世界に住んできたお前や。耳学問や目学問はしてるやろ」と言い、今までの経験を生かして脚本を書くように助言した。

そこで、渋谷天外は処女作「私は時計であります」を書いて持って行くと、曾我廼家十郎はそれを読んで「わからん、わからん」と言っていたが、大正11年12月に神戸の聚楽館で「私は時計であります」を上演してくれた。

上演期間は2日間で、脚本も3分の2は曾我廼家十郎に直されていたが、渋谷天外を役者の道へ引き戻すには十分な感動だった。

その後、渋谷天外は曾我廼家十郎の指導を受けながら脚本を書いていると、松竹の多田福太郎の目にとまり、「志皆廼家淡海一座」の旗揚げに参加しないかと誘われた。

渋谷天外は、脚本7割・役者3割という条件を出して「志皆廼家淡海一座」に入ったが、「志皆廼家淡海一座」には「楽天会」の残党が居り、良い役は回して貰えなかったので、本格的に脚本を勉強するようになった。

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女形事件

渋谷天外は女形(女装)をやらされるのが嫌だった。

そのようななか、曾我廼家五九郎が女形(女装)を排除したオール女優で成功したので、渋谷天外は座長の志皆廼家淡海に、女優に切り替えるべきだと進言すると、志皆廼家淡海は女優の採用するようになった。

女形を女優に切り替えるということは、女形にとっては失業を意味するので、女形連中は怒って渋谷天外を袋叩きにした。

すると、渋谷天外は楽屋で「オカマに尻をどつかれたんやてな」とからかわれるようになってしまった。

松竹家庭劇の旗揚げ

大正14年12月に曾我廼家十郎が死去すると、「喜劇王」と呼ばれた曾我廼家五郎が喜劇界を独走した。

曾我廼家五郎は松竹の役者であったが、松竹は独走状態をよしとせず、曾我廼家五郎のライバルを作るため、曾我廼家十吾と渋谷天外を支援して、昭和3年9月に「松竹家庭劇」を旗揚げさせた。

渋谷天外は脚本家がメーンで、役者はサブだったので、役者の時は本名の渋谷一雄を使っていたのだが、曾我廼家十吾はそれを許さず、役者としてビシビシと鍛え、渋谷天外は役者として成長すると、昭和4年1月に「2代目・渋谷天外」を襲名した。

一方、松竹の舞台に立っていた女優・浪花千栄子(南口キクノ)は、喜劇が嫌いだったが、女優が足りないということで、助っ人として、「松竹家庭劇」の舞台に立つようになり、昭和5年に正式に「松竹家庭劇」に配属された。

浪花千栄子と結婚

浪花千栄子は8歳の時から、道頓堀の仕出し料理屋「浪花料理」で「おちょやん(女中見習い)」として働いていた。

渋谷天外は、「浪花料理」の向かいにある芝居茶屋「岡島」に居候していたので、浪花千栄子とは幼なじみだった。

そして、浪花千栄子は女優になっても給料が安いので、芝居茶屋「岡島」に住み込みで働きながら女優を続けており、渋谷天外と「岡島」で同居していたのである。

渋谷天外は女性関係が多いので、浪花千栄子がデートする女性をセッティングしており、マネージャー的な事をしていたのだが、何がどう間違ったのか、2人は結婚する。

詳しい経緯は分らないのだが、朝鮮巡業が切っ掛けで、昭和5年(1930年)12月22日に結婚した(結婚した時期には異説もあり)。渋谷天外が24歳、浪花千栄子が23歳のことである。

その後、2人は「岡島」の許可を得て、「岡島」を出て借家で同居を開始した。

ある日、曾我廼家十吾が尋ねてきたのだが、2人は同居している事を「松竹家庭劇」には秘密にしていたので、浪花千栄子は慌ててトイレに隠れた。

しかし、曾我廼家十吾は2人が同居している事を知っていたので、「ちょっとトイレを貸してくれ」と言った。

浪花千栄子は観念してトイレから出てくると、渋谷天外は「実は兄貴・・・」と言い、同棲している事を打ち明けた。

すると、曾我廼家十吾が「それなら正式に結婚するべきだ」と言ったので、昭和14年12月22日に入籍した。

しかし、渋谷天外の女遊びは結婚しても治らなかったので、浪花千栄子は苦労することになる。

また、渋谷天外は脚本を書いていたが、キャスティングを決める程の権力は無いため、浪花千栄子は「脚本家の妻が良い役を取っては示しが付かない」ということで、みんなが嫌がる役を押しつけられ、女優としても不遇の時代を迎えるのだった。

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曾我廼家十吾との対立

昭和6年9月に「松竹家庭劇」は解散した。解散の理由は、渋谷天外が曾我廼家十吾と対立したためだと言われるが、曾我廼家十吾が気に入らない新派を追い出すためのクーデーターだったとも言われる。

曾我廼家十吾のクーデーターは成功し、松竹が間に入って渋谷天外と曾我廼家十吾が再び手を結び、昭和7年5月に第2次「松竹家庭劇」として発足した。

このころから、渋谷天外は「松竹家庭劇を立て直す」という意味を込めて、「舘直志(たておし)」というペンネームを使い始めたという。

しかし、第2次「松竹家庭劇」は、おばあさん役を得意とする曾我廼家十吾に主導権を握られており、渋谷天外は忍耐の時代を迎えた。

「松竹家庭劇」は昭和11年に東京進出を果たし、昭和13年からは定期的に東京でも公演するようになった。

渋谷天外は精力的に新作を書いていたが、昭和16年に憲兵隊に呼ばれ、脚本の「腹がへっては戦ができぬ」という台詞が気に入らないと注意された。

渋谷天外は、喜劇は格言を多く使うのだと釈明して、その場を逃げ切ったが、筆を折り、それ以降、戦争が終わるまで新作を書かず、旧作に手を入れるのみにとどめた。

そして、昭和23年2月の大阪大空襲で根城としていた中座が焼けると、「松竹家庭劇」は慰問興行に活動の場を求めた。

すいーと・ほーむ

戦後の昭和21年1月に渋谷天外と曾我廼家十吾は喧嘩をして口を利かなくなり、同年3月にすき焼きを食べていた時に大喧嘩に発展し、曾我廼家五郎が「兄弟付き合い早めや」と啖呵を切った。

そこで、渋谷天外は昭和21年5月に妻の浪花千栄子を連れて、「松竹家庭劇」を退団し、劇団「すいーと・ほーむ」を立ち上げて、旅巡業に出た。

そのようななか、藤山甘美が昭和21年10月に満州から復員し、昭和21年11月に「すいーと・ほーむ」に合流した。

その後、曾我廼家十吾が病気になったため、「松竹家庭劇」は自然消滅。病気から復帰した曾我廼家十吾は曾我廼家五郎を助けるために「曾我廼家五郎劇」に入ったが、昭和23年11月に座長の曾我廼家五郎が死去してしまう。

四国の徳島県を巡業していた渋谷天外は、曾我廼家五郎が死んだという知らせを受けると、「すいーと・ほーむ」を解散して大阪へと舞い戻った。

すると、松竹が「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに「松竹家庭劇」と「すいーと・ほーむ」を加えて、昭和23年12月に劇団「松竹新喜劇」を旗揚したのだった。

松竹新喜劇

「松竹新喜劇」は当初こそ、客は入ったが、芝居が古いので、直ぐに飽きられ、赤字続きとなった。

松竹の重役・藤井清治は責任を感じて「松竹新喜劇」の解散を進言したが、松竹の会長・白井松次郎は「成功させれば必ず取り返せるじゃないか。これは、取り返せる劇団です。あんたの責任にはしません。私が責任を負いますから、心配なしに続けなさい」と言い、続けさせた。

「松竹新喜劇」が成功したのは、白井松次郎の忍耐の賜だと言っても過言ではない。

「松竹新喜劇」は、「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに「松竹家庭劇」と「すいーと・ほーむ」を加えたので、女形と女優が共存していた。

しかし、曾我廼家五郎劇系の女形が、赤字続きの劇団に見切りを付けて辞めていくと、「松竹新喜劇」は、にわかに活気づいた。

さらに、入場税が引き下げられた事もあり、「松竹新喜劇」の経営は軌道に乗り始めた。

そして、妻の浪花千栄子も「松竹新喜劇」の看板女優として人気が出始めた。

離婚の危機が訪れたのは、そんな矢先のことだった・・・。

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浪花千栄子と離婚

妻の浪花千栄子は献身的に夫に尽くしていたが、渋谷天外にはそれが重かった。

そんな渋谷天外の気持ちを受け止めたのが、「松竹新喜劇」の女優の九重京子(渋谷喜久栄)だった。

渋谷天外と浪花千栄子は、空襲で借家を焼け出され、松竹の寮に住んでいた。

そこへ、浪花千栄子の可愛がっていた弟子・九重京子(渋谷喜久栄)が足繁く遊びに来て、渋谷天外とお酒を飲むようになっていた。

九重京子は、そのまま泊まっていくこともあった。

渋谷天外が九重京子を愛人にしているという噂があったが、浪花千栄子は噂を信じていなかった。

しかし、浪花千栄子は2代目・渋谷天外と九重京子と不倫をしている現場を目撃してしまうのだった。

浪花千栄子は烈火の如く怒り、九重京子との不倫をなじると、渋谷天外は「外へいて、すばらしい本を書きたいさかいに、15日ほどやらしてんか」と言って家を出た。

それ以降、浪花千栄子と住む家には戻らなかった。

渋谷天外は直接、離婚を切り出せず、新聞で「浪花千栄子とは離婚した」と発表し、楽屋で会っても浪花千栄子とは口も利かなくなった。

そのようななか、昭和25年11月に九重京子(渋谷喜久栄)が長男・渋谷成男を出産する。

昭和25年12月26日に、日本画家・川上拙以を交えて最後の話し合いが行われたが、話し合いの途中で、渋谷天外は「これから天王寺の宿で、原稿を書かんならん」と言い、逃げてしまった。

結局、浪花千栄子は子供が居なかったので、渋谷天外を諦めて離婚し、昭和26年4月に「松竹新喜劇」を退団して、京都の長屋の2階でひっそりと隠れ住んだ。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。

京都で落ちぶれていた浪花千栄子は、花菱アチャコの相方に抜擢され、NHKラジオドラマ「アチャコ青春手帳」に出演して大当りし、ラジオドラマ・映画・舞台へと続々と出演して、大阪を代表する女優へと成長していくのだった。

曾我廼家十吾の退団

浪花千栄子の退団は「松竹新喜劇」にとって痛手だったが、直後の昭和26年11月に渋谷天外が脚本を手がけた「桂春団治」が大当し、「松竹新喜劇」は昭和27年に東京進出を果たした。

これにより、渋谷天外は文芸路線を強めたが、それは「アドリブ王」と呼ばれた曾我廼家十吾との溝を深めることになる。

曾我廼家十吾は、映画「たぬき」の撮影に対する不満を渋谷天外にぶつけ、映画界に入ると言い、昭和31年4月に「松竹新喜劇」を退団し、映画監督の松田定次に弟子入りして映画の勉強を始めるが、1本の映画も撮ることは無かった。

その一方で、曾我廼家十吾は、昭和32年8月に第3次「松竹家庭劇」を旗揚げしたが、曾我廼家十吾の芝居は時代遅れで、第3次「松竹家庭劇」は当たらなかった。

松竹の大谷竹次郎が仲裁に入り、渋谷天外と曾我廼家十吾は和解した。

そして、渋谷天外と松竹が第3次「松竹家庭劇」を支援したが、「松竹家庭劇」の低迷は続き、最後は曾我廼家十吾が座長の座を追われ、「松竹家庭劇」は昭和40年(1965年)7月に解散した。

松竹新喜劇の社長に就任

渋谷天外は、曾我廼家十吾が抜けた後、小説などを脚色して文芸路線を本格化する一方で、松竹との劇団運営の方針の違いから、昭和39年10月に松竹の子会社「株式会社松竹新喜劇」を設立して、松竹から独立させた。

社長は松竹の常務・香取伝が務め、渋谷天外は常務取締役に就任。松竹芸能の勝忠男が専務に就任した。

そのようななか、渋谷天外(59歳)は、舞台の脚本からテレビ・ラジオ・映画・エッセイまでこなしたうえ、妻に内緒で浮気にも励んでいたが、ついに疲労が祟り、昭和40年9月1日には京都の南座で公演中に脳出血を起こして倒れてしまったのである。

渋谷天外は幕間にトイレに行ったときに倒れたのだが、脳出血だと直感し、劇団員に色々と指示を出し、藤山寛美に後のことを任せた。5分ほど話をしているうちに、意識が遠のいたという。

渋谷天外は、一命を取り留めたものの、右半身不随となり、医師から「君の半身麻痺は治らない」と言われ、役者としても作家としても死刑宣告を受けた。

しかし、昭和40年に理学療法士が法制化されており、渋谷天外は最先端のリハビリを受け、復帰への期待を込めて、「松竹新喜劇」の社長に就任したのだった。

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藤山寛美の借金問題

渋谷天外が戦線を離脱している間に、看板役者・藤山寛美の借金問題が表面化した。借金取りが我が物顔で、楽屋に出入りするようになり、暴力団との交際も明らかとなった。

こうした借金問題から、藤山寛美はクビになり、昭和41年4月に「松竹新喜劇」を退団した。

「松竹新喜劇」の専務・勝忠男が藤山寛美をクビにしたのだが、渋谷天外が藤山寛美を追放したと騒がれた。

さて、社長の渋谷天外はリハビリ中で戦線を離脱しており、看板役者の藤山寛美を失った「松竹新喜劇」は客が入らなくなり、赤字に陥った。

さらに、「松竹新喜劇」の専務・勝忠男が、藤山寛美の復帰を巡り、渋谷天外や親会社の松竹と対立したため、辞職した。

こうした混乱から、渋谷天外は親会社の松竹と話し合い、「(株)松竹新喜劇」を解散して、松竹の劇団に戻し、昭和41年8月に松竹の劇団「松竹新喜劇」として再出発を切った。

そして、昭和41年11月に藤山寛美が「松竹新喜劇」に復帰すると、渋谷天外は藤山寛美の為に、病床で「親指小指」を書いた。

こうして、「松竹新喜劇」は、藤山寛美が復帰したことにより、一気に人気を盛り返したのだった。

晩年

リハビリを続けていた渋谷天外は、麻痺を残しながらも、昭和42年7月に劇団結成20周年公演の口上に出演して1年4ヶ月ぶりに舞台に立ち、昭和42年10月に舞台に復帰した。

しかし、既に「松竹新喜劇」は、藤山寛美時代に突入していた。

渋谷天外は曾我廼家十吾のアドリブ路線を否定したが、そのアドリブ路線を引き継いだ藤山寛美の芝居が大当りしていた。

そして、藤山寛美が渋谷天外を否定し、「アドリブ王」と呼ばれた曾我廼家十吾を持ち上げるようになっていた。

そのようななか、昭和45年5月、曾我廼家十吾は、79歳の老体に鞭を打って、「松竹新喜劇」の舞台「アットン婆さん」に特別出演し、14年ぶりに曾我廼家十吾と渋谷天外のコンビが復活した。

その後も、曾我廼家十吾は、藤山甘美の要請で何度か「松竹新喜劇」の舞台に立つが、もはや老体に鞭を打つのも不可能として、引退宣言代わりに、ガリガリに痩せ細った上半身の写真を藤山甘美に送って現役から退き、昭和49年4月7日に急性肺炎で死去した。83歳だった。

このようななか、渋谷天外(68歳)は、藤山寛美から贈られた車椅子に乗り、昭和49年5月に南座の舞台「親バカ子バカ」に出演する。これが最後の舞台となった。

昭和52年に勲四等旭日小綬章を受賞したが、昭和52年12月に旅行先のハワイで脳出血を起こし、その後遺症で声を失い、事実上の引退となった。

昭和57年10月に人間ドックで入院したが、消化器官から出血して危篤状態に陥る。奇跡的に回復したものの、昭和58年1月に脳内出血を起こして再び意識不明に陥り、昭和58年(1983年)3月18日に死去した。77歳だった。

備考

  1. 渋谷天外は「シブヤ・テンガイ」という読み方になっているが、本来の読み方は「シブタニ・テンガイ」である。
  2. 再婚しても女遊びは治らず、妻・九重京子(渋谷喜久栄)は「お金で解決できない女には手を出すな」「よそに子供だけは作るな」という条件を出していた。
  3. 藤山寛美を溺愛しており、藤山寛美を養子にして、3代目・渋谷天外を継がせようとしたが、実現しなかった。
  4. 実子は長男・渋谷成男と次男・渋谷喜作が居り、次男の渋谷喜作が「渋谷天笑」を経て、3代目・渋谷天外を襲名した。

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