秋田實(秋田実)の立志伝

「上方漫才の父」と呼ばれた漫才作者・秋田實(秋田実)の立志伝です。

秋田實(秋田実)の家系

秋田實(秋田実)の画像秋田實(秋田実)は、本名を林廣次と言い、明治38年(1905年)7月15日に大阪の玉造で、林佐一郎の次男(三人兄弟の末っ子)して生まれた。母は「林いし」である。

父方の祖父は、大阪城に勤める江戸幕府方(徳川方)の武士で、鳥羽・伏見の戦いで初陣を果たしたが、負け戦で、刀を担いで大阪へと逃げ帰り、明治維新後は帰商して、油売りとタバコ屋を始め、貧乏をした。

秋田實(秋田実)の父・林佐一郎は、明治10年(1877年)に生まれ、尋常高等小学校を出て大阪砲兵工廠の工員として勤務した。腕の良い鋳物(いもの)職人で、研究のためにアメリカへも派遣されたこともある。

その後、大阪砲兵工廠を辞めて民間の自動車会社へと移り、シリンダーの開発などに従事した。

秋田實(秋田実)の母「林いし」は、福井県の農家の長女に産まれて、和裁を得意として和裁塾を開いていた。非常に聡明で本や新聞を読むことが好きな人で、秋田實(秋田実)に大きな影響を与えた。

秋田實(秋田実)の生涯

秋田實(秋田実)は生まれた時から体が弱かった。

そして、秋田實(秋田実)が生まれた4日後に、2歳上の姉が死去したことから、「姉が代わりに死んでくれた」という意味で、秋田實(秋田実)は幼稚園くらいまでは服装も髪型も女の子の格好(女装)をさせられていた。

秋田實(秋田実)は体が弱かったので、布団で寝かされており、幼少期は祖母の話し相手になって、祖母から演芸の話などを聞いたが、祖母の目を盗んで自宅を抜け出し、近所の男の子と喧嘩をして泣かすことも多かった。

近所の子は、みんな秋田實(秋田実)を女の子だと思っていたので、秋田實(秋田実)が攻撃すると、みんな驚いて泣きながら逃げてしまうのである。

秋田實(秋田実)は、大正元年(1912年)に清堀小学校へ入ると、女の子の格好を止めて男の子の格好をしたが、体が弱いのは治っておらず、休みがちだった。

母「林いし」は、和裁が得意で、自宅の2階で和裁教室を開き、近所の子に和裁を教える一方で、秋田實(秋田実)の遊び相手になったり、勉強を教えたりした。

その後、秋田實(秋田実)は、小学4年生頃から普通に学校へ通えるようになった。体育が得意で、走るのも早かった。

さて、秋田實(秋田実)が生まれた玉造には玉造稲荷神社があり、玉造は非常に演芸の盛んな町で、祖母も父も演芸が好きだった。

母「林いし」は休みの日に演芸を見に行くと、見てきたことを裁縫の生徒に話した。また、母「林いし」は本を読むのが好きで、本の話もした。

母「林いし」は、非常に記憶力が良く、話し上手だったといい、秋田實(秋田実)も母「林いし」からよく話を聞いた。

一方、父・林佐一郎も演芸好きで、月に2度の勘定日には、夕食が終わると、家族を連れて寄席や活動写真を見に行き、帰りにうどん屋に立ち寄って、「きつねうどん」の出前を注文し、自宅で「きつねうどん」を食べるのが定番だった。

秋田實(秋田実)は、1杯5銭の「きつねうどん」が何よりの、ご馳走だったのだという。

こうして、秋田實(秋田実)は、両親の影響で演芸好きになり、両親に黙って1人で演芸を見に行き、母「林いし」に怒られた事もあった。

学生時代と左翼活動

秋田實(秋田実)が小学6年生のとき、一家で、油屋と煙草屋を経営している父方の祖父の家に移った。

父方の祖父は、鳥羽・伏見の戦いで初陣を果たした昔気質の人で、次男に学問など必要ないと言い、秋田實(秋田実)を働かせようとしたが、母「林いし」が必死に抵抗して父方の祖父を説き伏せ、秋田實(秋田実)を中学へと進学させた。

こうして、秋田實(秋田実)は母親のおかげで、大正7年(1918年)に旧制今宮中学へと進学し、1年先輩の藤沢桓夫と出会う。

素手でボムボールを打つ「ハンド・ピンポン」をしていたとき、秋田實(秋田実)も藤沢桓夫も左利きだったことから意気投合したのだ。

大正13年(1924年)に旧制大阪高校に入学し、生涯の友となる長沖一や上道直夫と出会い、1年留年した藤沢桓夫とも同級生となる。そして、藤沢桓夫の影響で、秋田實(秋田実)と長沖一は文学に傾倒していった。

また、秋田實(秋田実)は、旧制大阪高校時代に、演芸ファンになる一方で、左翼に興味を示し、ペンネーム「林熊王」で、小説「夢と白粉」「借と貸」を発表し、「大阪高校社研」を再建した。

さて、秋田實(秋田実)は、教師になりたかったのだが、教師の枠が埋まっていたため、東京帝国大学(東京大学)へ進学する。

旧制高校から東京帝国大学へは、基本的に無試験で進学できるのだが、第1志望の学科が定員オーバーになり、試験が必要になったので、試験を避けるため、文学部支那哲学科へと進んだ。

こうして、昭和3年(1928年)に東京帝国大学文学部支那哲学科へ入学すると、本郷の学生寮「長栄館」に下宿し、長沖一と一緒に同じ部屋で貧乏生活を送る。

また、秋田實(秋田実)は東京帝国大学に入学すると同時に、「新人会」に入って、左翼活動に加わり、左翼雑誌に作品を発表したり、左翼雑誌の編集に加わるなどした。

エンタツ・アチャコとの出会い

昭和6年から、秋田實(秋田実)は、東京帝国大学に在学しながら、様々なペンネームを使用して、「オール読物」「婦人公論」などに、会話型の雑文(ユーモア・コント)を書いていた。

そのようななか、大阪朝日新聞文芸部の白石凡は、吉本興業の漫才コンビ「エンタツ・チャコ」を見て驚き、「エンタツ・チャコ」に良い漫才作家が付けば、面白い漫才になると考えた。

こうして、白石凡の仲介により、秋田實(秋田実)は昭和6年の秋に「エンタツ・チャコ」と会った。

太鼓持ちの花菱アチャコは「ご高名はかねがね伺っています」と挨拶したのだが、インテリの横山エンタツは年下の秋田實(秋田実)を「先生」と呼んだので、秋田實(秋田実)は先生と呼ばれるような悪い事はした覚えは無いと驚いた。

そのとき、秋田實(秋田実)は冗談を言ったりしたが、横山エンタツは微動だにせず、漫才について語った。

それから1週間後、横山エンタツが秋田實(秋田実)の自宅に尋ねてきて、漫才について熱く語り、2人は意気投合した。

このころ、漫才は「万歳」「萬歳」と書き、下品で卑猥で低俗な芸で、三流の扱いを受けており、面白かったが、家族で一緒に見られるような内容では無かった。

このため、横山エンタツは漫才師でありながら、低俗な漫才を嫌い、芸人とは付き合わず、家族にも「漫才師」という職業を秘密にしており、新しい漫才の路線を模索していた。

一方、秋田實(秋田実)は低俗で下品な漫才が好きだったのだが、家族連れで入れるような雰囲気ではなかったので、漫才好きの母親と一緒に寄席を観て笑えるようになれば良いと考えていた。

そこで、秋田實(秋田実)と横山エンタツは、家族で楽しめる「無邪気な笑い」という漫才を目指す事で、意気投合したのである。

こうして、秋田實(秋田実)は「エンタツ・アチャコ」の漫才の台本を手がけるようになり、「エンタツ・アチャコ」に「無邪気な笑い」という要素が加わった。

以降、秋田實(秋田実)は、東京帝国大学に在籍しながら、東京と大阪を往復して、漫才の台本を手がけ、「エンタツ・アチャコ」の舞台を見て、舞台が終わると、3人で会議を開き、客の反応が悪かった部分を変更した。

このころ、秋田實(秋田実)は万歳の台本に自分の名前を出していないが、「エンタツ・アチャコ」の代表作「早慶戦」も秋田實(秋田実)の作である。

秋田實(秋田実)は「(漫才は卑猥だったので)いくら大阪的でもラジオの電波にのせて日本全国の家庭で聴かせるわけにはいかない。そこで、私は当時、盛んだった6大学リーグ戦のうちの早慶戦のことなんかをシャべクリ漫才にしたんです」と語っている。

そうした一方で、秋田實(秋田実)は雑誌「人物評論」などに雑文を書いており、昭和9年1月の「婦人公論」に「モダン万歳・恋愛禁止法」を掲載した。

「モダン万歳・恋愛禁止法」は、当時問題となっていた「治安維持法」を揶揄したAB会話型のユーモア・コントで、これが好評を得た。

秋田實(秋田実)は雑文を仕事とは思っておらず、小遣い稼ぎ程度に思っていたので、その都度、違うペンネームを使用していたが、「モダン万歳・恋愛禁止法」の好評を切っ掛けに、編集者が意識してペンネームを秋田實(秋田実)に統一した。

その後、秋田實(秋田実)は、左翼活動に挫折をしたり、兄の死去で大阪の両親が2人だけになっていたこもあり、昭和9年(1934年)9月の室戸台風を切っ掛けに、大阪の実家へと戻り、大阪で活動を続けた。

母「林いし」は非常に喜ぶと共に、秋田實(秋田実)が漫才の台本を書くというので驚いた。

そして、母「林いし」は漫才の台本ができるのを楽しみにして、台本が出来上がると本読みに加わり、台本の評価したり、アドバイスを送ったりした。

吉本興業に入社

昭和7年10月、吉本興業の林正之助が、吉本興業の東京支社で舞台監督をしていた橋本鉄彦(橋本鐡彦)を、参謀として大阪に呼び寄せ、吉本興業に入社させた。

そして、昭和8年(1933年)1月、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の提案により、吉本興業に「文藝部」「宣伝部」「映画部」の三部門を発足し、橋本鉄彦(橋本鐡彦)が三部門を統括した。

そして、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」を観て、もはや万歳ではないと思い、文芸部から発行する「吉本演芸通信」で、「万歳」の表記を「漫才」に変更する事を発表した。

さらに、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は「エンタツ・アチャコ」のネタ「早慶戦」を観て漫才の台本の必要性を感じ、朝日新聞の一コマ漫画に面白い解説を書いていた秋田實(秋田実)に目を付けてスカウトした。

秋田實(秋田実)は既に「エンタツ・アチャコ」に漫才の台本を書いていたが、自分の名前を出していなかったので、橋本鉄彦(橋本鐡彦)はそのことを知らなかったのだろう。

秋田實(秋田実)は断ったが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は諦めきれずに、藤沢桓夫や毎日新聞の山口廣一らの協力を得て、秋田實(秋田実)に会い、なんとか口説き落として吉本興業に招いた。

すると、秋田實(秋田実)は、文藝春秋で小説を書こうとしている東京の長沖一の面倒も見て欲しいと言うので、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は長沖一に会い、吉本興業に招いた。

さらに、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、京都帝国大学出身の吉田留三郎も招いて、吉本興業の頭脳部分を作り上げた。

なお、秋田實(秋田実)が吉本興業に入社したのは、昭和9年とされるが、昭和10年という説もある。

漫才作者として

秋田實(秋田実)は昭和10年(1935年)1月にラジオ用の漫才「家族天気図」を書き、これ以降、精力的に漫才の台本を書き始める。

また、全ての漫才師の要望に応えるのは難しいことから、秋田實(秋田実)ら漫才作家が書いた漫才の台本を平等に配布するため、漫才師全員で、どのネタを誰がやるかを決める「台本のセリ」を開始した。

そうした一方で、昭和10年8月には、本名「林廣次」で、吉本興業演芸部が出版する雑誌「ヨシモト」の編集長を務めた。

ところで、野球ネタ「早慶戦」で絶大なる人気を誇った漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は、呆気なく解散し、「横山エンタツ・杉浦エノスケ」と「花菱アチャコ・千歳家今男」に分裂していた。

しかし、「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が大きくなったため、吉本興業の林正之助は、舞台では別々のコンビを無ませたまま、映画や放送に限定して「エンタツ・アチャコ」を復活させた。

そして、吉本興業はPLC(東宝)と提携して、「エンタツ・アチャコ」の主演映画「呆れた連中」「これは失礼」「心臓が強い」「僕は誰た」を制作してヒットを飛ばす。この映画はいずれも秋田實(秋田実)の原作である。

石田房江と結婚

京都の酒屋・石田直次郎は、三女・石田房江の結婚相手を探しており、間に入った寺の住職が、秋田實(秋田実)を見合い相手に紹介した。

秋田實(秋田実)は友達に付き添って貰ったのだが、秋田實(秋田実)は頭はボサボサ、髭はボウボウで、友達の方は散髪もしてスーツをきて身なりを整えていたため、三女・石田房江は友達の方を見合い相手だと思った。

三女・石田房江は、頭がボサボサの方が見合い相手と知って驚いたうえ、作家なんて何をしている人か、よく分からなかったが、親が勧めてくれる人に悪い人は居ないだろうと思い、見合いで1度会っただけで、結婚を決めた。

さて、結婚式が近づいてきたが、秋田實(秋田実)は東京で「エンタツ・アチャコ」の主演映画「呆れた連中」を撮影に加わっており、忙しかった。

そこで、秋田實(秋田実)は「友達を代理人にして結婚式を挙げて、花嫁だけ東京へ送ってくれ」と頼んだが、母「林いし」が呆れて許さなかったので、仕事を中断して結婚質の前日に大阪へと戻り、結婚式を挙げた。

こうして、秋田實(秋田実)は昭和11年(1936年)4月に、京都の酒屋・石田直次郎の三女・石田房江と結婚すると、新婚旅行を兼ねて、東京へと戻り、再び映画「呆れた連中」の撮影に加わった。

そうした一方で、秋田實(秋田実)は、シロウトを集めて万歳師を育成するため、新人養成機関の設立を提唱して、昭和12年に「漫才学校」を設立し、その校長となった。

新興キネマ演芸部の引き抜き事件

昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発すると、吉本興業の林正之助は朝日新聞に戦地慰問団の派遣を持ちかけ、昭和13年(1938年)に爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」を結成して派遣した。

長沖一は、第2回「わらわし隊」に同行しているが、秋田實(秋田実)は「わらわし隊」には同行していない。

このようななか、昭和14年(1939年)に映画法が制定された影響で、映画の情勢時間が短縮されたり、外国映画の輸入が制限されたため、映画館では映画の代わりとして、アトラクションや演芸が重要となっていた。

このようななか、阪急グループの小林一三は、大阪の演芸界を独占する吉本興業の林正之助に、東京宝塚劇場の取締役への就任を要請した。

これを受けた林正之助は、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役を兼任し、吉本興業と東宝が関係を強めた。

松竹は演芸部門が貧弱だったので、吉本興業と東宝が関係強化に危機感を覚え、松竹系の新興キネマに「演芸部」を設立し、吉本興業の看板芸人を引き抜きにかかった。

そして、新興キネマ演芸部は、吉本興業の給料の5倍から10倍の給料を提示して、吉本興業から「ミスワカナ・玉松一郎」「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミスワカバ」「香島ラッキー・御園セブン」「あきれたほういず」を引き抜いた。

花菱アチャコも莫大な金を受け取って新興キネマへ移籍を決めていたが、吉本興業の林正之助に察知され、お金を返して移籍を断念した。

さて、新興キネマ演芸部の引き抜き事件は、京都府警・大阪府警が仲裁に乗りだして和解に至ったが、吉本興業と新興キネマ演芸部は演芸興行で激しく対立した。

そのようななか、吉本興業の秋田實(秋田実)は、昭和16年(1941年)に新興キネマ演芸部へと移り、総合企画部長へと就任する。

秋田實(秋田実)が新興キネマ演芸部へ移った理由は、新興キネマ演芸部に移った漫才の弟子の面倒を見るためだという。

なお、新興キネマ演芸部は、昭和17年(1942年)に新興キネマから独立し、「新興演芸部」となる。「新興演芸部」は、全て新作という方針で、精力的に新作漫才を公開した。

戦後の演芸界とMZ研進会

秋田實(秋田実)は、満州映画研究会の演芸部(満州演芸)の責任者となり、昭和20年3月に満州(中国)へと渡った。

大勢の芸人が満州に渡っており、芸人を指揮して満州演芸団を組織するのが目的だったという。

しかし、昭和20年8月になっていくつかの劇団ができ、巡業を開始したところで、玉音放送が流れて終戦となった。

秋田實(秋田実)は最後の移送団として福岡県へと引きあげてきて、昭和21年11月に福井県で疎開している家族と合流した。

秋田實(秋田実)は引き揚げ船の中で、自分が育てたミスワカナがヒロポン中毒で死んだ事を知ってショックを受け、演芸には戻らず、第二の人生は学生時代から夢だった教師として生きて行こうと固く誓った。

このため、秋田實(秋田実)は、3週間ほど滞在した後、昭和21年11月末に京都にある妻の実家へと移り、雑誌に雑文を書きながら、教師になる準備を始めた。

このころ、戦争で全ての寄席を失った吉本興業の林正之助は、花菱アチャコを残して他の所属芸人を全て解雇して演芸を捨て、キャバレー「グランド京都」と映画館の経営で戦後の復興を始めていた。

吉本興業に見捨てられた漫才師の一部は地方巡業へと流れたが、大阪に残った若手漫才師は「MZ研進会」(MANZAI研進会の略)を組織した。

漫才道場時代の教え子・秋田Aスケが、京都の秋田實(秋田実)の元を訪れ、漫才の新ネタを書いて欲しいと頼むと、秋田實(秋田実)は「よっしゃ、よっしゃ」と引き受けてくれたが、いつまで経っても新ネタを書いてくれなかった。

このため、秋田實(秋田実)は、漫才師から「よっしゃの大将」と呼ばれていた。

秋田Aスケは「昔から書くと約束しても書かん人でしたけど、あの時は何度頼んでもダメでした」と話す。

結局、秋田Aスケは、秋田實(秋田実)の協力を諦め、志摩八郎を中心に「MZ研進会」を旗揚げし、秋田實(秋田実)の名前を勝手に使って、昭和24年の夏に「第1回MZ漫才大会」を開催した。

秋田Aスケによると、「新作漫才会を考えついたのは志摩さんと山崎正三さんという漫才師でした。それで、こんな会を作ったので協力してください、と秋田先生に頼みこんだわけです。その時はもう、大会は始まってましたけどね」ということである。

こうして、教師を目指していた秋田實(秋田実)は、事後承諾という形で秋田Aスケらに担ぎ上げられ、「MZ研進会」の相談役に就任し、再び演芸という世界に足を踏み入れたのだった。

横山エンタツと花菱アチャコ

昭和24年4月に、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)で公開番組「上方演芸会」が始まる。

秋田實(秋田実)は「上方演芸会」で漫才の台本を担当し、各地に散らばった漫才師を探し歩き、漫才師を大阪へと集めていく。

その一方で、秋田實(秋田実)は、長沖一らと共に演芸番組の構成や台本の仕事に携わるようになり、昭和25年9月には横山エンタツが出演するラジオの喜劇番組「気まぐれショーボート」を手がけた。横山エンタツの「気まぐれショーボート」は絶大なる人気を誇った。

そのようななか、「エンタツ・アチャコ」をラジオ番組で復帰させる声が高まるが、花菱アチャコは横山エンタツが既にラジオで活躍していたことから、横山エンタツの二番煎じになることを懸念し、ラジオ出演を拒んでいた。

しかし、NHKの佐々木英之助が花菱アチャコを口説き落とすことに成功したので、花菱アチャコは昭和27年1月から「アチャコ青春手帖」の放送を開始した。

「アチャコ青春手帖」は長沖一の脚本で、これ以降、長沖一が花菱アチャコの担当となり、秋田實(秋田実)は横山エンタツの担当になった。

さて、漫才時代は、横山エンタツが上だったが、喜劇になると、花菱アチャコの方が一枚も二枚も上で、花菱アチャコの番組はご長寿番組となり、花菱アチャコは吉本興業のナンバー1となり、長らく吉本興業のトップに君臨した。

横山エンタツも売れていたのだが、花菱アチャコのようなご長寿番組は無く、晩年は「藤木(花菱アチャコンの本名)は得をしよった」とボヤいた。

それを聞いた秋田實(秋田実)は、横山エンタツに申し訳なく思った。

小林一三との対立

秋田實(秋田実)は昭和の初めに秦豊吉と出会って仕事をしており、昭和12年に、秦豊吉の紹介で、阪急グループの総帥・小林一三と会っていた。

小林一三は漫才好きで、1月に1度は秋田實(秋田実)と何度も会って漫才の話をしており、秋田實(秋田実)は宝塚ショーの手伝いもしていた。

このため、小林一三は満州から帰国した秋田實(秋田実)に東京へ行って東宝の秦豊吉と仕事するように勧めたのだが、秋田實(秋田実)は教師を目指していたので断った。

小林一三はそれでも東宝へ誘ったのだが、秋田實(秋田実)は「先生(小林一三)と気軽に喋れなくなりますから」「教師になるので」と言って固辞すると、小林一三は「勝手にしたまえ」を怒り出した。

しかし、秋田實(秋田実)が「勝手にします」と言って帰ろうとすると、小林一三が「ちょっと待ちたまえ」と言い、包みをくれた。

表に出て包みを開けてみると、当時は高級品だった純綿の靴下が半ダース入っていた。秋田實(秋田実)は満州から引きあげてきたときの服装のままで、靴下もヨレヨレだったので、小林一三が気を遣ってくれたのだろう。

しかし、秋田實(秋田実)は、高級な純綿の靴下を履く気にはなれず、闇市で純綿の靴下を別の物に交換した。

さて、こうして小林一三の誘いを固辞した秋田實(秋田実)だったが、秋田Aスケらに担ぎ上げられて、「MZ研進会」の相談役に就任した。

それからしばらくすると、再び小林一三から要請を受けた。今度は「宝塚新芸座」を発足するというのである。

小林一三に共感した秋田實(秋田実)は、「Aスケ・Bスケ」「夢路いとし・喜味こいし」「ミスワカサ・島ひろし」「ミヤコ蝶々・南都雄二」を率いて、昭和25年11月に「宝塚新芸座」を創立し、昭和26年1月に旗揚げした。

小林一三は「採算が取れるまで3年でやってほしい。それがダメなら5年の猶予をやる」と言うと、秋田實(秋田実)は「3年で結構です」と答え、小林一三を大いに喜ばせた。

そして、昭和28年には宝塚新芸座の公演「漫才学校」が大ヒットし、昭和29年には公演に平行して、ABCラジオでバラエティ番組「漫才学校」も放送され、大ヒットした。

ABCラジオの「漫才学校」は昭和30年2月に聴取率57.5%を記録し、空前絶後の大ブームとなり、「漫才学校」で校長を務めたミヤコ蝶々はスターへの階段を駆け上がり、続くラジオ番組「夫婦善哉」で国民的スターの仲間入りをした。

しかし、秋田實(秋田実)は大阪で漫才の復権を目指すのに対し、小林一三は東京の方が成功しやすいと言い、東京進出を目指しており、2人は運営方針で対立する。

秋田實(秋田実)は「宝塚新芸座」を出ることにしたが、小林一三が外遊直前だったため、計画を中止して、「宝塚新芸座」へ戻った。

ところが、その後、「宝塚新芸座」から1組みを東京へ連れて行くという計画が判明したため、秋田實(秋田実)は「Aスケ・Bスケ」「夢路いとし・喜味こいし」「ミスワカサ・島ひろし」「ミヤコ蝶々・南都雄二」を率いて昭和31年に「上方演芸」を設立して、「宝塚新芸座」から独立した。

ミスワカナの追善興行

「上方演芸」の「上方喜劇」は評判が良かったので、松竹は、映画館にしていた道頓堀の角座を漫才の寄席にしようと考え、秋田實(秋田実)に要請していた。

しかし、秋田實(秋田実)は、客の支持を得られなければ、2度と道頓堀への進出は出来なくなるのではないかと考え、即答を避けた。

そこで、秋田實(秋田実)は、道頓堀の中座で、昭和33年(1958年)3月にミスワカナの13回忌追善興行として、「漫才顔見世大会」を開催することにした。

「漫才顔見世大会」は、秋田實(秋田実)の「上方演芸」と勝忠男の「新生プロ」の合同で開催され、「上方演芸」から「ミスワカサ・島ひろし」の他に「夢路いとし・喜味こいし」らも出演し、「漫才顔見世大会」は大成功を収めた。

この成功を受け、松竹は映画館だった道頓堀の角座を漫才の寄席にした。

また、秋田實(秋田実)は松竹に演芸会社の設立を要請したことにより、「上方演芸」と「新生プロ」が合併して、昭和33年(1958年)に松竹の子会社「松竹新演芸」(後の松竹芸能)が誕生した。

秋田實(秋田実)は会社を経営するという野心は無く、自分の仕事は「漫才の会社ができるまで」と考えており、身をひこうとしていたが、「会社を作っておいて、自分だけ逃げ出すのとちゃいますやろな」と言われたので、「松竹新演芸」の重役に留まり、台本の制作に力を入れた。

このとき、「夢路いとし・喜味こいし」が東宝系の「大宝芸能」に移籍し、「ミヤコ蝶々・南都雄二」も漫才から舞台へと活躍の場を変え、秋田實(秋田実)の元を離れていった。

さて、「上方演芸」は「新生プロ」と合併して「松竹新演芸」になったが、方針の違いから「上方演芸」と「新生プロ」は内部で対立した。

このため、秋田實(秋田実)は昭和43年(1968年)に藤井康民とともに「KAプロダクション」を設立して、「松竹新演芸」から独立した。

秋田實(秋田実)も昭和44年に松竹を退社し、昭和45年に「KAプロダクション」の経営に参加した。

漫才作者を育てる

戦後の秋田實(秋田実)は、ラジオやテレビを中心に数々の台本を手がけ、昭和30年に「NHK演芸台本研究会」を設立したが、昭和41年に「NHK演芸台本研究会」を発展的に解消し、「漫才作家くらぶ」を主宰していた。

昭和42年に「漫才作家くらぶ」は、日本興業や吉本興業と提携し、台本の提供をを始める。

そうした一方で、秋田實(秋田実)は、昭和45年に大阪芸術大学の非常勤講師となり、「芸能史」などを講義して、学生時代から目指していた「先生」の夢を実現し、昭和46年には大阪芸術大学芸術学部の教授になった。

しかし、テレビによるバラエティー番組時代の到来により、多くの漫才師が自分でネタを書き、笑いの質が落ちており、昭和45年(1970年)を境に寄席番組が次々と打ち切られた。

このようななか、横山エンタツが昭和46年に死去、花菱アチャコが昭和49年に死去、生涯の友・長沖一も昭和51年に死去するなど、戦後の漫才を支えてきた漫才師が次々に死去していき、漫才は低迷した。

しかも、昭和40年に「11PM」が始まったり、昭和44年には月亭可朝の「嘆きのボイン」が大流行したりしており、秋田實(秋田実)が目指した「無邪気な笑い」「家族で笑える演芸」とはほど遠い状態になっていた。

このため、秋田實(秋田実)は、「漫才は、このままやったら、あかんなあ」と危惧し、昭和50年(1975年)2月にシナリオ学校に大衆芸能科が新設されると、講師陣の先頭に立って指導し、昭和50年8月には名誉校長に就任した。

さらに、昭和50年8月に「昔の漫才レコードを聴く会」を開催し、同年10月には漫才作家と漫才師が実践する「笑の会」を開催した。

当時はCMのパロディーが流行していたが、秋田實(秋田実)は、下ネタとテレビCMのパロディーの2つを禁止し、漫才師のネタには非難せず、助言だけをして漫才師を育てた。

この「笑の会」には、「オール阪神・巨人」「B&B」「太平サブロー・シロー」「宮川大助・花子」など、次世代を担う漫才師が参加していた。

しかし、こうした努力とは裏腹に、漫才の低迷は続き、昭和52年8月には討論会「漫才はいま」を開いた。

そのようななか、秋田實(秋田実)は、昭和52年(1977年)9月13日に大阪市付属病院に入院し、昭和52年10月27日に大網腫瘍で死去した。享年73だった。

辞世の句は「渡り来て、うき世の橋を眺むれば、さても危うく、過ぎしものかな」「笑いを大切に、怒ってよくなるものは、猫の背中の曲線だけ」だった。

秋田實(秋田実)の死んだ翌年の昭和53年、弟子の漫才師や関係者らが、玉造稲荷神社に「秋田實笑魂碑」を建立した。

なお、秋田實(秋田実)は、昭和36年に大阪市民文化賞、昭和44年に紫綬褒章、昭和51年に勲四等瑞宝章を受けている。

秋田實(秋田実)の死後に漫才ブーム

秋田實(秋田実)は勝負事なら何でも知っており、中でも一番好きだったのが競馬で、競走馬「ニューサラトガ」などを所有していた事もあり、競馬を通じて放送作家・藤本義一と知り合っていた。

このため、秋田實(秋田実)は遺言で、藤本義一に「笑の会」を託していた。

藤本義一は何も相談を受けておらず、通夜の席で遺言を聞いて初めて知って驚いたが、これを引き受けると、会長を永久欠番として、「笑の会」の村長(相談役)に就任した。

秋田實(秋田実)は漫才を東京へ持って行く気は無かったが、村長になった藤本義一は芸術祭して賞を狙うため、東京進出を開始し、「笑の会」の東京公演を成功させた。

これが、大阪出身で東京在住のテレビプロデューサー澤田隆治の目に止り、日曜日のゴールデンタイム「花王名人劇場-激突!漫才新幹線」で「星セント・ルイス」「横山やすし・西川きよし」「B&B」が起用された。

放送前は「ゴールデンタイムに漫才師を使って、安くあげた」と馬鹿にされていたが、昭和55年1月に放送された第1回「激突!漫才新幹線」は、関西で27.2%の高視聴率を記録して、他局の度肝を抜いた。

このようななか、フジテレビのプロデューサー横澤彪は、ある企画がボツになり、企画の差し替えを迫られていたとき、3年前の漫才企画を発見する。

「花王名人劇場-激突!漫才新幹線」が高視聴率を記録していた事もあり、横澤彪は3年前の漫才企画を採用する。

横澤彪は当初から「THE MANZAI」というタイトルを考えていたのだが、制作陣が「東西漫才大会」を主張して譲らないので、流行していた映画のタイトルをもじって「飛べ!笑いの黙示録」というタイトルになった。

こうして、昭和55年4月に放送した「飛べ!笑いの黙示録」は、裏番組が「ドリフターズ」の特番だったにもかかわらず、15.3%という高視聴率を記録した。

これに気をよくした横澤彪は、2回目から「THE MANZAI」というタイトルに変更して放送した。

これで漫才が広まっていき、昭和55年に空前絶後の漫才ブームが到来したのであった。

備考

  1. 秋田實(秋田実)のペンネームは「秋は田が実る」から来ている。
  2. 秋田實(秋田実)は漫才作家ではなく「漫才作者」というスタンスで、数多くの漫才台本を手がけたが、漫才の台本形式ではなく、ネタのヒントを与え、漫才師自身が台本形式に仕上げていた。
  3. 秋田實(秋田実)は、「吉本興業」「宝塚」「松竹」という演芸3大資本を渡り歩き、漫才の育成や復権に奔走し、「漫才の父」と呼ばれている。
  4. 漫才や映画では「秋田実作」と紹介されるので、近所の子供から「みのさく」と呼ばれた。

なお、秋田實(秋田実)の関係者の立志伝につていは「わろてんか-吉本せいの立志伝-登場人物一覧」をご覧ください。

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