朝ドラ「おちょやん」天海一平(成田凌)のモデルの生涯

NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する天海一平(あまみ・いっぺい)のモデルの生涯を紹介します。

天海一平(成田凌)のモデルの生涯

天海一平(成田凌)のモデルとなる2代目・渋谷天外は、明治39年(1906年)6月7日に京都の祇園で、初代・渋谷天外の長男として生まれた。

父親は、中島楽翁(曾我廼家箱王)と共に、明治41年に喜劇団「楽天会」を旗揚げし、有名な喜劇俳優へと成長する。

当時は役者の子供が進学するなどと考えもしない時代だったが、父親は自分に学問がないことを恥じており、2代目・渋谷天外を東京の知人に預け、蔵前の工業高校へ進学させることにした。

そこで、2代目・渋谷天外を東京公演に連れて行くのだが、「楽天会」の子役が急病で出られなくなったため、代役として2代目・渋谷天外を舞台に上げた。

すると、みんが褒めるので、初代・渋谷天外は、すっかりとその気になってしまい、進学させるのを止め、2代目・渋谷天外を子役にしていまったのである。

こうして、2代目・渋谷天外は8歳で役者の道に入り、ボンボンとして可愛がられていたのだが、10歳の時に父親が死んでしまうと、周りの大人は手のひらを返したように冷たくなり、厳しい子役時代を過ごした。

しかし、看板役者の父親が死んで以降、「楽天会」は低迷を続け、16歳の時に「楽天会」は解散してしまうのだった。

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脚本家と役者

16歳と言えば、子役としては中途半端な年齢である。小学校にも行っていないので、今更、学問の道に進むことは出来ないし、役者を辞めて、親戚の店で働いてみたが、長続きしない。

そのようななか、喜劇役者・曾我廼家十郎の見舞いに行くと、曾我廼家十郎から脚本を書くように勧められて脚本を書いた。

すると、曾我廼家十郎が舞台で上演してくれたので、2代目・渋谷天外は脚本家を目指し、脚本7割・役者3割という条件で「志皆廼家淡海一座」に入った。

その後、曾我廼家十吾に誘われて、曾我廼家十吾と一緒に、昭和3年9月に「松竹家庭劇」を旗揚げした。

そして、曾我廼家十吾に役者として鍛えられ、昭和4年1月に「2代目・渋谷天外」を襲名するのだった。

浪花千栄子と結婚

松竹の女優・浪花千栄子は、助っ人として「松竹家庭劇」の舞台に立っており、昭和5年に正式に「松竹家庭劇」に配属された。

2代目・渋谷天外は、浪花千栄子とは幼なじみで、気心の知れた仲なのだが、朝鮮巡業を切っ掛けに浪花千栄子と結婚した。

しかし、2代目・渋谷天外も浪花千栄子も、役者としては忍耐の時期を過ごすのだった。

戦後

喜劇の方向性の違いから、度々、曾我廼家十吾と喧嘩をしていた2代目・渋谷天外は、曾我廼家十吾と決別し、昭和21年5月に妻の浪花千栄子を連れて、「松竹家庭劇」を退団し、劇団「すいーと・ほーむ」を立ち上げて、旅巡業に出た。

そのようななか、「日本の喜劇王」と呼ばれた曾我廼家五郎が、昭和23年11月に死去したため、松竹は「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに「松竹家庭劇」を加えて、昭和23年12月に劇団「松竹新喜劇」を旗揚した。

このとき、2代目・渋谷天外や妻・浪花千栄子も松竹に呼び戻され、「松竹新喜劇」の旗揚げに参加するのだった。

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浪花千栄子や曾我廼家十吾の退団

「松竹新喜劇」の座長は曾我廼家十吾だったが、実権は2代目・渋谷天外へと移ってきた。

そして、「松竹新喜劇」が起動に乗り始め、妻の浪花千栄子が、ようやく「松竹新喜劇」の看板女優として人気が出始めた矢先、浪花千栄子は「松竹新喜劇」が脱退するという事件が起きた。

原因は、2代目・渋谷天外と女優・九重京子(渋谷喜久栄)の不倫である。

浪花千栄子は再三にわたり2代目・渋谷天外の不倫を許してきたのだが、九重京子(渋谷喜久栄)は、浪花千栄子が可愛がっていた弟子だったので、流石の浪花千栄子も弟子との不倫を許さなかった。

しかし、九重京子(渋谷喜久栄)が長男・渋谷成男を出産したので、子供の居なかった浪花千栄子は2代目・渋谷天外と離婚して、「松竹新喜劇」を脱退したのである。

「松竹新喜劇」は看板女優の浪花千栄子を失って大きな痛手を負うが、2代目・渋谷天外が脚本を手がけた「桂春団治」が大当りさせた。

2代目・渋谷天外は「桂春団治」のヒットにより、原作を使った文芸路線を強めていくのだが、それはアドリブを得意とした曾我廼家十吾との溝を深めることになった。

やがて、曾我廼家十吾は映画の撮影を切っ掛けに不満を爆発させ、「松竹新喜劇」を辞めて、第3次「松竹家庭劇」を旗揚げするが、曾我廼家十吾の芝居はもう古く、最後は座長の座長の座を追われて、第3次「松竹家庭劇」は解散してしまうのだった。

松竹新喜劇と藤山寛美事件

曾我廼家十吾が退団したことにより、名実ともに「松竹新喜劇」のトップになった2代目・渋谷天外(64歳)は、喜劇の資料館と役者の養成機関を併設するという夢を実現させるため、松竹から独立して「(株)松竹新喜劇」を設立し、常務取締役に就任する。

そのようななか、激務に激務を重ねていた2代目・渋谷天外は、脳出血を起こして倒れて入院。復帰への願いを込めて「(株)松竹新喜劇」の社長に就任した。

一方、舞台の方は看板役者の藤山寛美に任せていたのだが、藤山寛美の借金問題と暴力団との交際が明るみに出たため、藤山寛美が会社をクビになってしまう。

藤山寛美の復帰を巡る混乱から、2代目・渋谷天外は会社組織を解散し、再び松竹の劇団「松竹新喜劇」へとして再出発させた。

これにより、藤山寛美が「松竹新喜劇」に復帰し、藤山寛美の活躍により、「松竹新喜劇」は盛り返したのだった、

晩年

2代目・渋谷天外は、体に麻痺を残しながらも、舞台に復帰するが、既に「松竹新喜劇」は藤山寛美の時代になっており、藤山寛美のアドリブが受けに受けていた。

2代目・渋谷天外は脚本を重視して、アドリブ重視の曾我廼家十吾の芝居を否定したが、今度は藤山寛美のアドリブによって、2代目・渋谷天外のストーリー重視の芝居が否定されたのである。

そして、藤山寛美が曾我廼家十吾を持ち上げており、曾我廼家十吾は、79歳の老体に鞭を打って、「松竹新喜劇」の舞台「アットン婆さん」に特別出演し、14年ぶりに曾我廼家十吾と渋谷天外のコンビが復活した。

その後も、曾我廼家十吾は、藤山甘美の要請で何度か「松竹新喜劇」の舞台に立つが、もはや限界として、ガリガリに痩せ細った上半身の写真を藤山甘美に送って現役から退き、昭和49年4月7日に急性肺炎で死去した。83歳だった。

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