天津乙女(鳥居栄子)の立志伝

宝塚歌劇団のトップスターで、日本舞踊の名手として活躍し、「宝塚の至宝」と評価された天津乙女(あまつ・おとめ=本名は鳥居栄子)の立志伝です。

天津乙女(鳥居栄子)の略歴
時代年齢略歴
明治38年(1905年)1歳天津乙女(鳥居栄子)が生まれる。
大正元年(1912年)8歳四谷第四尋常小学校へ入学。5年生の時に青山尋常小学校へ転校。
大正7年(1918年)14歳青山尋常小学校を卒業。宝塚少女歌劇団へ入団。同年10月に「馬の王様」「鼎法師」「お蚕祭」で初公演を行う。
大正9年(1920年)16歳妹の雲野かよ子(鳥居華子)が宝塚に入団。
大正10年(1921年)17歳東京で住んでいた鳥居家が一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越す。
昭和3年(1928年)24歳月組の組長に就任。
昭和5年(1930年)26歳日本舞踊・藤間流の名取りになり、「藤間乙女」の名前をもらう。
昭和8年(1933年)29歳宝塚に日本舞踊専科が設立され、月組組長から日本舞踊専科へ移る。
昭和13年(1938年)34歳ヨーロッパ遠征組の組長を務める。
昭和14年(1939年)35歳皇軍慰問団の分団長を務め、北京や上海を巡る。
昭和15年(1940年)36歳宝塚少女歌劇団が「宝塚歌劇団」へと改称し、引退問題が解決する。
昭和17年(1942年)38歳父・鳥居政吉が死去。妹の雲野かよ子(鳥居華子)が川口正と結婚し、宝塚を退団する。
昭和19年(1944年)40歳宝塚大劇場などが軍に接収される。日本移動演劇連盟に加盟し、移動演劇隊(移動隊)として戦意高揚や慰問に従事。
昭和23年(1948年)44歳宝塚に労働組合が設置され、副委員長に就任。同年、小林一三によって宝塚の理事へと引き上げられ、労働組合から抜ける。
昭和29年(1954年)50歳兵庫県文化賞を受賞する。
昭和30年(1955年)51歳第1回ハワイ公演に参加。
昭和32年(1957年)53歳第2回ハワイ公演に参加。
昭和33年(1958年)54歳紫綬褒章を受章する。
昭和34年(1959年)55歳カナダ・アメリカ公演に参加。
昭和51年(1976年)72歳勲四等宝冠章を受章する。
昭和55年(1980年)76歳宝塚に在籍したまま死去する。

天津乙女(鳥居栄子)の立志伝

天津乙女(鳥居栄子)の画像天津乙女(鳥居栄子)は、明治38年(1905年)10月9日に東京市神田区小川町一番地(東京都千代田区)で、鳥居政吉(水野政吉)の長女(2男4女)として生まれ、二コライ堂の鐘を聞きながら育った。

父・鳥居政吉も母・鳥居静(鳥居しず)も芝居好きで、天津乙女(鳥居栄子)は両親に抱かれて、よく、新富座で行われている劇団新派の芝居を見に観に行っていた。

母・鳥居静(鳥居しず)は男勝りで、子供にかまわず、父・鳥居政吉がよく子供の面倒を見ていたため、まわりの人から「鳥居家はお母さんがお父さんで、お父さんがお母さん」とよく言われた。

ところで、母方の祖父は早く亡くなり、母方の祖父が経営していた時計屋は後見人が継いでいたが、後見人は事業に手を出して失敗し、時計屋を畳むことになった。

また、父・鳥居政吉が四谷第四尋常小学校に勤めるようになったこともあり、一家は四谷へと引っ越した。

このため、天津乙女(鳥居栄子)は大正元年(1912年)に四谷第四尋常小学校へ入学したが、5年生からは青山尋常小学校へと転校した。

宝塚少女歌劇団への入団

天津乙女(鳥居栄子)は勉強が好きだったが、体が弱く病弱だったため、小学校を卒業後、師範学校へ進めなかった。

そこで、知り合いのジャーナリスト・結城礼一郎が心配して「宝塚は山あり、川あり、そして空気の澄んだ場所だ。そこで歌を歌っていればいいのだから受けてごらんなさい」と言って宝塚少女歌劇団の受験を勧めてくれた。

ちょうど、天津乙女(鳥居栄子)が小学校を卒業した大正7年(1918年)の5月に、玄支社の企画で、宝塚少女歌劇団が東京で初公演を果たすことになっており、結城礼一郎は東京公演を企画した玄支社の主幹だったのである。

こうして、天津乙女(鳥居栄子)は、結城礼一郎の紹介で宝塚少女歌劇団の舞台を観て、初めて宝塚少女歌劇の存在を知り、宝塚少女歌劇を受ける事にした。

採用試験は1日前に終わっていたが、天津乙女(鳥居栄子)は結城礼一郎の口利きで宝塚少女歌劇団の面接を受ける事が出来き、1人で採用試験を受けた。

宝塚少女歌劇団は、阪急の小林一三によって大正2年(1913年)に創設された。東京採用というのは、宝塚少女歌劇団が関西なまりになるのを避けるために始まった試みで、今回が初めてだった。

こうして、東京組の第1弾として天津乙女(本名は鳥居栄子)・初瀬音羽子(本名は村田八重)・関守千鳥(本名は澤靜子)・久方静子(本名は調査中)の4人が採用された。

芸名の由来

芸名の「天津乙女(あまつ・おとめ)」は、小林一三が小倉百人一首の「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」から名付けた。

宝塚の初舞台

こうして、天津乙女(鳥居栄子)は家族と離れて兵庫県宝塚市へと移り、大正7年(1918年)6月21日に宝塚少女歌劇団に入団した。東京組は4人だったので、入団式など無かった。

既に関西組の有明月子・和田久了が先行して入団しており、東京組の天津乙女(鳥居栄子)らも有明月子(本名は横沢夏子)・和田久了(本名は調査中)と合流して、計6人でレッスンを開始した。

このころ、宝塚少女歌劇団は、50人程度の少人数だったので、天津乙女(鳥居栄子)は何も習っていないのに、コーラスが足りないと言われ、入団直後の7月公演「七夕踊」でコーラスボックスに入れられて出演した。

そして、入団から2ヶ月で基礎練習が終わり、入団3ヶ月目の大正7年9月から初舞台の稽古が始まった。

天津乙女(鳥居栄子)の初公演は「馬の王様」「鼎法師」「お蚕祭」の3作で、教えられたとおりに踊っただけのに、上級生から「あの子は踊りを習っていたのに違いない」と言われた。

一家揃って宝塚へ引っ越す

天津乙女(鳥居栄子)は勉強が好きだったので、普通の学校で勉強したいと思っており、何時も「家に帰りたい。家に帰りたい」と駄々をこねて泣いていた。

そのたびに両親が東京から宥めにやってきたのだが、両親が来た頃には、駄々をこねていたのが嘘のように、機嫌を直してケロッとしていた。

しばらくすると、両親が公演の合間、合間に東京へ連れて帰ろうとするのだが、今度は天津乙女(鳥居栄子)は東京へ帰るのを嫌がるようになっていた。

そんなやりとりを知った阪急グループの総帥で宝塚音楽歌劇学校の校長・小林一三が、「そう、度々、東京と大阪を往復していては旄費もばかにならない。いっそのこと、家族全部が移っては」と勧めてくれた。

その後、妹の雲野かよ子(鳥居華子)が、天津乙女(鳥居栄子)の反対を押し切り、大正9年(1920年)10月に宝塚に入った。

このころ、父・鳥居政吉は株屋に転向していたのだが、株屋が倒産していたこともあり、次女の雲野かよ子(鳥居華子)が宝塚に入った事を切っ掛けに、小林一三の誘いを受け、大正10年(1921年)に一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越し、阪急電鉄に入社し、阪急マーケット(阪急百貨店)で働き始めた。

ちょうど、天津乙女(鳥居栄子)は3年間の寄宿生活も終わり、再び家族と暮らすことになった。

こうして、鳥居一家は兵庫県宝塚市へと引っ越したので、大正12年9月1日に発生した関東大震災を免れた。全て小林一三のおかげだと感謝している。

宝塚の火災

さて、宝塚少女歌劇団は、大正10年(1921年)から生徒が2部に別れ、昼は第1部の公会堂劇場、夜は第2部のパラダイス劇場という2部上演になり、大正10年10月に第1部を「月組」、第2部を「星組」と改称した。

大正12年(1923年)1月22日に公会堂劇場やパラダイス劇場や校舎が焼けてしまったが、小林一三が「直ぐに立ててやる」と言ってくれ、大正12年3月20日に宝塚中劇場を建ててくれた。

さらに大正13年(1924年)には「雪組」が新設され、宝塚大劇場も開場した。宝塚大劇場は4000人を収容する大きな会場で、天津乙女(鳥居栄子)らにとって大きな課題は「どうやって声を届かせるか」であった。

天津乙女(鳥居栄子)は武庫川の河川敷で発声の特訓を行ったが、それでも、少し宝塚大劇場に声を吸い取られたので、苦労した。

しかし、このときの特訓のおかげで、マイクを使わなくても、劇場の隅々まで声を行き渡させる事が出来るようなった。

天津乙女(鳥居栄子)の結婚と引退

昭和3年(1928年)8月に初瀬音羽子が引退したので、天津乙女(鳥居栄子)は月組の組長になり、仲の良い門田芦子(内山仲子)が副組長になった。

やがて、天津乙女(鳥居栄子)は、義太夫の坂東のしほ先生の息子との縁談が進み、引退することが決まった。

坂東のしほ先生が天津乙女(鳥居栄子)を娘のように可愛がっており、坂東のしほ先生から申し入れた縁談だった。

天津乙女(鳥居栄子)は子供の頃ら口答えをしたことがなく、親の言うとおりにするのが当たり前だと思っていたし、「少女歌劇」なので10年で辞めようと思っていたこともあり、縁談を承知した。

縁談は両親と小林一三の間で進み、天津乙女(鳥居栄子)の引退興行も始まったのだが、引退興行の半ばに来ると、雑誌「歌劇」の丸尾長顕らが中心となって、引退反対の署名運動を開始した。

また、小林一三も色々と調べて、嫁がせない方が良いということになり、天津乙女(鳥居栄子)の縁談は破談となった。

「親の言いつけ通りにするものだと決心しておきながら、心が進まなかったのかもしれない」

縁談が破談となって一番、ホッとしたのは、当人の天津乙女(鳥居栄子)だった。

そして、天津乙女(鳥居栄子)は宝塚に残留する事が決まり、引退興行は一転して「引退引き留め興行」となり、千秋楽まで続いた。

こうして宝塚に残った天津乙女(鳥居栄子)は、歌舞伎の舞踊に精を出すことになり、小林一三から助教授に任命された。しかし、助教授と言っても名目だけで、生徒に教える事は無かった。

藤間流の名取りになる

天津乙女(鳥居栄子)は最初に宝塚の棋茂都陸平に日本舞踊を習い、棋茂都陸平が松竹楽劇部へ移ってからは、若柳流、花柳流、阪束流の先生に師事し、関東大震災後は藤間小勘に日本舞踊を習っていた。

藤間小勘は最初の弟子の中から名取りを選びたかったらしく、藤間小勘は天津乙女(鳥居栄子)に名取りを勧めた。

しかし、名取りを貰うと、他の流派を学ぶことが出来なくなるので、色々な師匠から踊りを学びたかった天津乙女(鳥居栄子)は、名取りを断っていた。

ところが、藤間小勘には、どうしても、天津乙女(鳥居栄子)を最初の名取りにしたかった理由があるったらしい。

結局、宝塚の理事長・吉岡重三郎を通じて、名取りの話が持ち込まれ、天津乙女(鳥居栄子)はとうとう、藤間小勘から名取りをもらう事にした。

こうして、昭和5年(1930年)10月5日に名取り式を行い、三世・藤問勘右衛門家元(松本幸四郎)から「藤間乙女」の名前をもらった。

一度は断っていた手前、名取りの名札は理事長・吉岡重三郎の部屋に置いていたが、3年ほどして「持って帰ってくれ」と言われたので、名札を引き取った。

そして、昭和8年(1933年)に宝塚に日本舞踊専科が設立されると、天津乙女(鳥居栄子)は月組の組長から、日本舞踊専科へと移った。

宝塚では、月組以外は日本舞踊の出し物が出せなくなっていたので、天津乙女(鳥居栄子)が他の組にも出られるようにという措置であった。

最盛期を迎える

昭和10年(1935年)1月25日の早朝に宝塚大劇場で火事があり、舞台と客席を焼失。三交代による突貫工事が行われ、4月1日に再建された。

天津乙女(鳥居栄子)は、昭和10年から昭和12年にかけてが円熟した時期だったと言っおり、新しい宝塚大劇場と共に最盛期を迎えた。

ヨーロッパ訪問

さて、昭和8年に国際連盟を脱退した日本は、国際社会からの孤立を防ぐため、ドイツ・イタリアに接近し、昭和11年11月に日本とドイツの間で日独防共協定を結んだ。

翌年の昭和12年にはイタリアが加わり、日独伊防共協定を結び、後の「日独伊三国同盟」の原型が出来た。

宝塚はこれを記念して芸術使節に任じられており、昭和13年(1938年)10月に船でヨーロッパへと向かった。天津乙女(鳥居栄子)はヨーロッパ遠征組の組長を務めた。

そして、ヨーロッパ遠征組は、ドイツ→ポーランド→イタリアで公演し、イタリアで正月を迎えた。

その後、フランスから帰国する予定だったのだが、急遽、日独伊の三国公演に参加することになり、ドイツのミュンヘンへと向かった。楽しみにしていたフランスのパリへ行けなくなり、ミュンヘンへで泣いた。

さらに、イタリアのナポリから帰国することになったので、パリへは行けなかった。

帰国の中、団長の小林米三から「帰国したら、もう一度、どこかへ行かないか」と誘われたが、天津乙女(鳥居栄子)はヨーロッパ遠征で恥ずかしい事ばかりだったので、「もう、よう行きません」と断った。

退団を思いとどまる

昭和14年3月にヨーロッパ遠征組が帰国すると、小夜福子を中心とする訪米芸術使節団が発表された。団長の小林米三が言っていたのは訪米芸術使節団のことだったようだ。

昭和14年5月にヨーロッパ遠征組の副組長を務めた奈良美也子(和田鐵子)が宝塚を退団。花形の葦原邦子も昭和14年に退団した。

天津乙女(鳥居栄子)は既に34歳になっており、「もう少女では無い」ので宝塚少女歌劇団に居るのはどうかと思ってい、、退団を考えていた。

しかし、ヨーロッパ遠征から帰国して直ぐに退団するのは義理が悪いと思い、宝塚に踏みとどまった。

その後、昭和15年(1940年)10月に宝塚少女歌劇団が「宝塚歌劇団」へと改名したので、年齢を考慮する必要がなくなり、退団する必要は無くなった。

さて、退団を踏みとどまった天津乙女(鳥居栄子)は、海外公演は断っていたので、訪米芸術使節団には参加しなかったが、昭和14年(1939年)8月に皇軍慰問団が結成され、その分団長を務め、上海や北京などを巡ることになった。

天津乙女(鳥居栄子)は子供の頃から物言わず(無口)な性格で、宝塚に入っても「喋らない人」で通っていたが、よく喋る草笛美子の影響か、この公演旅行中に突然、喋るようになり、これまでの分を取り戻すかの如く、喋るようになった。

父の死

昭和16年12月に日本が真珠湾攻撃を行い、日本も第二次世界大戦へと突入する。

さて、父・鳥居政吉(水野政吉)は小林一三の勧めを受けて兵庫県宝塚市へと引っ越し、阪急電鉄の阪急マーケット(阪急百貨店)で働いていたが、定年後は大好きな東京へと戻り、天ぷら屋を始めていた。

昭和17年(1942年)4月18日、天津乙女(鳥居栄子)は上京して、父・鳥居政吉と一緒に歌舞伎座で芝居を見ていたとき、東京が初めて空襲を受けた。世に言う「東京初空襲」である。

芝居は中断され、再上演ということになったが、父・鳥居政吉は東京発空襲のショックが祟り、昭和17年(1942年)8月11日に死去したため、再上演を見ることは出来なかった。

天津乙女(鳥居栄子)が第1回満州公演に出かける直前の事だった。

また、父が死んだ昭和17年(1942年)、妹の雲野かよ子(鳥居華子)が川口正と結婚し、宝塚を退団した。

戦時中

昭和19年(1944年)に入ると、戦況の悪化により、高級娯楽が相次いで禁止され、宝塚大劇場と東京宝塚劇場にも閉鎖命令が出て、昭和19年4月3日で練習も公演も打ち切られた。

最期の宝塚を見るため、ファンが詰めかけ、駅から宝塚大劇場まで長蛇の列が出た。

宝塚は入場料が安かったので、天津乙女(鳥居栄子)は宝塚は高級娯楽ではないと思っていたが、閉鎖命令が出たため、驚くと共に戦況の悪化をヒシヒシと感じた。

さらに、宝塚大劇場は海軍に接収されて兵舎となり、東京宝塚劇場は陸軍に接収され軍事工場となった。

宝塚は生き残るため、逆瀬川のダウンスホールへピアノなどを運び込んで練習場所とし、日本移動演劇連盟に加盟し、移動演劇隊(移動隊)として慰問などを行った。

昭和20年8月15日、天津乙女(鳥居栄子)らは寄宿舎で練習をしてたとき、玉音放送を聞き、寄宿舎で終戦を迎えた。

天津乙女(鳥居栄子)が帰宅すると、母親とお手伝いの市に「なぜ一家そろって拝聴しなかったのか」と言って叱られた。母と市は、天津乙女(鳥居栄子)が家に居ないと機嫌が悪かった。

戦後

戦争が終われば劇場は返ってくると思っていたが、引き続きGHQに接収されてしまったため、終戦した年の10月から大阪・梅田の北野劇場で終戦後初の本公演を行った。

平行して返還交渉が行われており、昭和21年4月になって、ようやく宝塚大劇場が接収解除となり、返還された。

宝塚の理事になる

昭和22年(1947年)に労働基準法が制定された。労働基準法の制定を受け、昭和23年(1948年)に宝塚に労働組合が誕生した。そして、須藤五郎が労働組合の委員長に就任し、天津乙女(鳥居栄子)は副委員長に就任した。

戦前は夜中まで練習できたが、戦後は労働基準法の影響で、午後10時以降の稽古は禁止され、戦前・戦後で宝塚の制度も色々と変わっていた。

上級生は練習の事を主張したが、下級生は給料の事を主張してかみ合わず、不毛な議論が続いた。

こうした状況を見かねた小林一三は、昭和23年(1948年)に天津乙女(鳥居栄子)を宝塚の理事へと引き上げた。

天津乙女(鳥居栄子)は事情は分からないが、ただ「お前はもう組員ではないので、会合には出なくてよろしい」と言われて理事になった。生徒から理事になったのは、天津乙女(鳥居栄子)が初めてである。

天津乙女(鳥居栄子)が理事になってからも、宝塚の団員が相談に来くるので、「私は何も言えないのよ」と説明したが、団員にそういう事情を分かってもらえず、宝塚で「理事になって骨抜きにされた」と批判の声が出た。

しかし、天津乙女(鳥居栄子)は理事になって労働組合とは関われなくなったことで、練習に専念できるようになった。

天津乙女(鳥居栄子)の死去

宝塚では結婚して辞めていく団員が多いなか、天津乙女(鳥居栄子)は結婚せずに、生涯を宝塚に捧げた。

天津乙女(鳥居栄子)は宝塚の数々の舞台で活躍したほか、昭和30年(1955年)の第1回ハワイ公演、昭和32年の第2回ハワイ公演、昭和34年のカナダ・アメリカ公演に参加した。

そうした功績がたたえられ、昭和29年には兵庫県文化賞を受賞。昭和33年(1958年)には紫綬褒章を受章。昭和51年(1976年)には勲四等宝冠章を受章した。

そして、昭和55年(1980年)5月30日、天津乙女(鳥居栄子)は宝塚に在団したまま死去した。享年76。

あだ名

当時の宝塚はド田舎だったので、都会に住んでいた天津乙女(鳥居栄子)は、宝塚に入って、よく泣いていたため、「泣き虫」というあだ名が付いた。

5人組を結成

宝塚に入団して3年間は寄宿所で生活した。このとき、滝川末子・高砂松子・春日花子・住江岸子・天津乙女(鳥居栄子)で通称「5人組」という仲良しグループを結成し、芝居を見に行くのも、食べに行くのも何時も一緒だった。

宝塚の給料

天津乙女(鳥居栄子)の給料は両親に渡され、両親が宝塚少女歌劇団の団長にお金を預け、天津乙女(鳥居栄子)は団長からお金を受け取っていた。お小遣いは月に10円程だった。大正時代の10円は大金なので、金銭面で困るような事は無かった。

宙返りの失敗

男性がやっているトンボ返り(宙返り)に憧れ、やってみたが、背中を打ちつけてしまう。治療のために、キハダの粉を酢で溶いた物を背中に塗ったが、火傷のように水ぶくれが出来てしまい、腹ばいのまま20日間の生活を余儀なくされ、引退興行の練習は1週間しか出来なかった。

その他エピソード

  1. 天津乙女(鳥居栄子)は、歴代宝塚の中でも、群を抜いて身長が低かった。
  2. 兵庫県伊丹市のイタミ・ローズ・ガーデンが品種改良で黄色いバラを開発し、当時の宝塚のトップスターから名前を取り、「天津乙女」と名付けた。

天津乙女(鳥居栄子)の家族と子孫

天津乙女(鳥居栄子)の家族と子供と子孫
鳥居政吉妻・鳥居政吉は尾張藩・水野家の出身。結婚して鳥居家の養子に入る。京外語専門学校を卒業後、四谷第四尋常小学校。その後、小林一三の招きを受けて関西へと引っ越し、阪急電鉄の阪急マーケット(阪急百貨店)に勤務する。
鳥居静妻・鳥居静(鳥居しず)は尾張藩の出身。非常に明るい性格で話し好きだったので、「静」という名前を不幸に思い、「鳥居しず」と書いていた。
鳥居華子鳥居家の次女・鳥居華子は鳥居栄子の反対を押し切って宝塚歌劇団に入り、「雲野かよ子」という芸名で、女形の主演クラスとして活躍した。後、結婚して退団。
鳥居文子鳥居家の三女・鳥居文子は「見るのは好きだが、やるのは嫌」と言って、宝塚歌劇団には入らなかった。
鳥居久代末妹鳥居家の四女・鳥居久代は、小林一三の勧めで宝塚歌劇団に入り、「池辺鶴子」の名前で舞台に立ったが、病に倒れたため、舞台には2年足らずしか立てず、昭和21年(1946年)に死去した。
鳥居正一郎鳥居家の長男・鳥居正一郎は、昭和11年に京都帝国大学を卒業し、小林一三の勧めで阪急鉄道に入社。戦後、阪急百貨店が阪急電鉄から独立した時に阪急百貨店へと移り、昭和56年(1981年)に阪急百貨店の3代目社長を務めた
鳥居欽也鳥居家の次男・鳥居欽也は関西学院大学を卒業。陸軍を嫌って海軍を志願し、硫黄島の高射砲部隊に配属され、硫黄島で戦死した。

なお、天津乙女(鳥居栄子)は男子禁制の宝塚に死去するまで在籍し続けたため、結婚しておらず、子供も居ない。

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