安藤仁子(あんどう・まさこ)の立志伝

NHKの朝ドラ「まんぷく」のモデルとなる安藤仁子(あんどう・まさこ)の立志伝です。

安藤仁子の立志伝

安藤仁子の画像安藤仁子(あんどう・まさこ)は、大正6年(1917年)8月16日に、福島県で、父・安藤重信の娘として生まれた。母親は安藤須磨である。

この安藤家は、福島県の二本松神社の神主を務める家系で、福島県の名門である。

安藤仁子は大阪の全蘭会高等女学校を卒業した後、財界人の社交場「大阪クラブ」で受付をしており、井上元陸軍中尉の紹介で、7歳年上の台湾人の実業家・呉百福(後の安藤百福)と知り合った。

安藤百福は妻・安藤家との出会いを「大変義理堅くやさしいこの女性に、私は一日ぼれしてしまった」と記している。

そして、安藤百福に見初められて、戦時中の昭和20年に安藤百福と結婚した。

安藤百福は台湾の出身で、台湾時代に第1夫人・呉黄梅と結婚しており、昭和5年に長男・安藤宏寿が生まれていた。

その後、台湾でメリヤスの輸入が成功したので、第1夫人・呉黄梅と長男・安藤宏寿を台湾に残し、昭和8年に妾・呉金鶯とともに大阪へと進出して、大阪の唐物町2丁目に問屋「日東商会」を設立した。

(注釈:当時の台湾は妾制度が法的に認められており、日本の妾と違って、台湾の妾は戸籍に記載され、第2夫人という扱いになる。)

その後、妾との間に呉宏男・呉武徳・呉美和が生まれたが、妾・呉金鶯は安藤百福と別れ、子供を連れて台湾へ帰ったようである。

さて、安藤百福と結婚した後、空襲が激しくなってきたので、兵庫県の上郡に疎開して、疎開先で終戦を迎えた。

夫の安藤百福は台湾人だったので、戦後は日本国籍か中国国籍かを選ぶことになった。夫の安藤百福は財産税を回避するために、中国国籍を選び中国人となった。

そして、夫・安藤百福は空襲で焼失した事務所や工場の保険金として4000万円(現在の1000億円相当)を受け取り、日本一の大金持ちとなった。

さらに、大阪の一等地に広大な土地を購入した他、日本人のために製塩・水産加工・技術学校・栄養食品の研究などの事業を展開して、関西財界の雄となり、旧知の政治家・田中龍夫を支援したことで、政界にも交友を広め、FHQの幹部とも親交を持っていた。

しかし、夫・安藤百福は、政治力を使って逮捕された若者を釈放させていたので、警察からマークされていたうえ、日本政府の歳入不足からGHQが中国人への課税を強化したため、安藤百福は脱税で逮捕されて有罪判決を受け、東京の巣鴨プリズン(東京拘置所)に収容された。

夫・安藤百福は、無実を主張し、弁護団を形成して税務署を訴えると、反税運動が勢いづくのを恐れたのか、税務署は即時釈放を条件に、夫・安藤百福に提訴の取り下げを求めた。

しかし、夫・安藤百福は正義のために提訴の取り下げには応じなかった。

夫・安藤百福が服役してから半年後には、次男・安藤宏基が生まれており、妻の安藤仁子は不安だったので、夫・安藤百福の面会に行く度に「提訴を取り下げてください」と頼んだが、夫・安藤百福は応じてくれなかった。

しかし、服役から2年が経過したとき、夫・安藤百福は、面会に来た安藤仁子、長女・安藤内明美、長男・安藤宏基の3人が帰って行く後ろ姿を見て、「そろそろ潮時か」と思い、提訴を取り下げて釈放された。

その後、夫・安藤百福は何度ども断ったのだが、華僑から頼まれて信用組合「大阪華銀」の理事長に祭り上げられてしまう。

しかし、誰も専門家が居ないという有様で、信用組合「大阪華銀」は倒産してしまい、夫・安藤百福は理事長としての責任を問われ、全財産を失い、無一文へと転落してしまったのであった。

債権者が自宅まで乗り込んできて全てを持って行ったので、安藤仁子は小さな子供を2人も抱えて「あと1000円しかない」と嘆いた。

さて、夫・安藤百福は全財産を失ったが事業意欲は衰えておらず、家族に「ラーメン屋になる」と宣言し、借家の庭に小さな小屋を建てて、インスタントラーメンの開発に取りかかったのである。昭和32年(1957年)、安藤百福が47歳のことである。

そして、安藤仁子が天ぷらを揚げている所を観て、麺を揚げて水分を飛ばすという、「油熱乾燥法」を発見し、昭和33年にインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成した。

在日2世の知人が「チキンラーメン」を食べて驚き、アメリカに送ると、直ぐにアメリカから注文が入り、国内に発売する前に輸出することが決まったので、安藤仁子や長男・安藤宏基も袋詰めを手伝った。

国内販売の方は、うどん玉が6円だった時代に「チキンラーメン」は35円もしたことから、問屋から見向きもされなかったが、実演販売と新聞広告が功を奏し、主婦の間で「2分出来る魔法のラーメン」として話題になり、発売から数ヶ月後、突如として、問屋から注文が殺到し、「知音ラーメン」は爆発的に入れていくのだった。

そして、これまでは「サンシー殖産」という社名だったが、チキンラーメンを発売した年の12月に「日清食品」へと社名を変更した。

その後の安藤仁子については、詳しい事が分からず、中国籍の安藤百福は東京オリンピックの翌年、昭和41年(1966年)に日本人に帰化した。

そして、安藤百福は1代で日清食品を一流企業に育て上げ、平成19年(2007年)1月5日に死去した。享年98。安藤仁子は平成22年(2010年)3月19日に死去した。享年94。

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