安藤仁子(あんどう・まさこ)の立志伝

NHKの朝ドラ「まんぷく」のモデルとなる安藤仁子(あんどう・まさこ)の立志伝です。

安藤仁子の立志伝

安藤仁子の画像安藤仁子(あんどう・まさこ)は、大正6年(1917年)8月16日に大阪府大阪市北区富田町で、父・安藤重信の3女として生まれた。母親は安藤須磨(すま)である。

(注釈:福島県二本松市で生まれたという資料もある。)

実家の安藤家は福島県二本松市の二本松神社の神主を務める名門で、幕末の朱子学者である安積艮斎(あさか・ごんさい)や昭和の歴史学者・朝河貫一を排出している。

二本松神社は長男が世襲していたので、次男だった父・安藤重信は、宗像家に養子に出されたが、事業の失敗により、離縁され、大阪で事業を行っていた。

一方、母親の安藤須磨は鳥取藩士の家系で、家を継ぐために婿養子を迎えたが、その後、離婚すると、教師になる夢を捨てきれず、大阪へ出て、安藤重信と出会って結婚した。ともに再婚同士だった。

母・安藤須磨は「私は武士の娘です」というのが口癖で、家族は「どうせ足軽でしょ」と冷やかしていた。

さて、安藤仁子は、3姉妹の3女で、上に9歳上の安藤晃江(てるえ)と7歳上の安藤澪子(みおこ)という2人の姉が居た。

父・安藤重信は大阪で人力車の会社を経営する相当な資産家で、水力発電事業にも乗り出していたほか、貴族院議員になるため、爵位を手に入れようとして奔走するほどだったが、事業の悪化により、大阪府大阪市阿倍野区中道の長屋暮らしに転落してしまった。

さらに、安藤仁子が大阪市立丸山小学校に入学した後、父・安藤重信の事業が悪化により、大阪府大阪市淀川区十三南之町へと引っ越した。家賃も払えず、淀川でシジミを捕って暮らす日々が続いた。

丸山小学校を卒業後は、母・安藤須磨のやりくりで、大阪の金蘭会高等女学校へ進学することが出来た。水泳や高跳びが得意で、水泳の選手になり、楽しい女学校時代を過ごした。

しかし、父・安藤重信の事業が倒産したため、7円の月謝が払えなくなり、3年生の時に休学し、大阪電話局で働くようになった。そして、1年間の休学の後、学校に復帰し、大阪電話局で夜勤をしながら学校に通った。

この間に、同居していた祖母ミチが亡くなり、安藤仁子は父・安藤重信と母・安藤須磨(すま)の3人暮らしとなる。また、久保健治に嫁いでいた一番上の姉・安藤晃江も死去した。

その後、安藤家は家賃が払えないため、長屋を追い出され、大阪府大阪市東淀川区中津南通4丁目へと引っ越し、どん底の貧乏暮らしを始めるが、安藤仁子は働きながら学校に通い、18歳の時に金蘭会高等女学校を卒業した。

安藤百福との結婚

2番目の姉・安藤澪子が京都の有元一雄に嫁いでおり、安藤仁子は金蘭会高等女学校を卒業後、家族3人で、京都の有元家に身を寄せるが、有元一雄は画家で生活は苦しかったようである。

このため、安藤仁子は、得意な英語と、取得していた電話交換手の資格を活かして、早々に京都府京都市東山区にある「都ホテル(現在のウェスティン都ホテル京都)」で電話交換手として働き始めて家計を支えた。

この電話交換手時代に、安藤仁子は、ホテルの従業員から好意を寄せられ、缶詰をもらっていたが、男性の好意に気付かなった。また、別の男性1人からは告白されたが、タイプでなかったので断ると、男性は自殺未遂を犯した。

さて、昭和16年(1941年)に父・安藤重信が死去したため、安藤仁子は母・安藤須磨と2人暮らしになった。このとき、母親に食べ物の心配をさせたくないと心に誓った。

そのようななか、安藤仁子は、働きぶりがホテルの社長の目にとまり、ホテルのフロント係へ抜擢された。

詳しい経緯は分からないが、安藤仁子は、大阪の財界人の社交場「大阪倶楽部」でも受付をしており、元陸軍中将・井上安正の紹介で、7歳年上の安藤百福と出会った。

安藤百福は在日台湾人で、このときは「呉百福」と言い、日本に来て事業を手がけており、大阪の実業界で活躍していた。

安藤仁子は安藤百福からプロポーズされたが、仕事への未練があったので、プロポーズを断った。

安藤百福は仕事では強気だったが、恋愛では弱気だったようで、知り合いに背中を押されて、猛アタックした。

すると、安藤仁子は熱心な安藤百福の好意を受け入れ、大阪が空襲を受けるなか、昭和20年(1945年)3月21日に結婚した。

こうして、安藤百福と結婚した安藤仁子は、仕事を辞め、大阪府吹田市千里山に移り住んだ。

当時、台湾は日本の植民地で、台湾では風習として妾制度が残っていたので、安藤百福は台湾時代に2人の女性と結婚しており、厳密に言えば重婚だが、日本と台湾は戸籍が別になっていたので、安藤仁子は日本では正妻という扱いになっている。

さて、夫・安藤百福は第1夫人との間に生まれた長男・安藤宏寿を引き取り、安藤仁子は母・安藤須磨を引き取ったので、4人家族として新婚生活が始まった。

その後、空襲が激しくなり、夫・安藤百福は長男・安藤宏寿を安全な場所に疎開させると、安藤仁子と母・安藤須磨を連れて、兵庫県上郡に疎開し、兵庫県上郡で終戦を迎えた。

疎開している間に、安藤仁子は女の子を妊娠したが、8ヶ月で流産してしまった。大阪に出ていた安藤百福は、帰宅して流産を知ると、激怒して産婆の家に怒鳴り込んだという。

戦後

戦後、夫・安藤百福は疎開先を引き払い、大阪府泉大津市に居を構えた。夫の安藤百福は在日台湾人だったので、中国籍を取得して戦勝国民となり、様々な特権を得た。

そして、夫・安藤百福は空襲で焼失した事務所や工場の保険金として4000万円(現在の1000億円相当)を受け取り、「日本一の大金持ち」と呼ばれる程の大富豪となった。

有り余るほどの金を得た安藤百福は、慈善事業のつもりで、街でぶらぶらしていた若者たちを集め、大阪府泉大津市で製塩事業を開始した。その後、漁船を購入して、魚も捕るようになった。

水泳の得意だった安藤仁子は、漁船に乗って若者と一緒にはしゃいだり、大阪湾でよく泳いだりしていた。

やがて集まった若者たちは100人を超すようになり、安藤仁子と母・安藤須磨は母親代わりになって、若者たちの面倒を見た。次男・安藤宏基も生まれて順風満帆だった。

さて、安藤仁子が長女・堀之内明美を妊娠するなか、様々な事業に手を出していた夫・安藤百福は、GHQに脱税で逮捕され、懲役4年の実刑判決を受け、東京の巣鴨プリズン(東京拘置所)に収容された。

夫・安藤百福の土地や建物は大津泉税務署に差し押さえられたため、安藤仁子は知人を頼って大阪府池田市呉服町の借家へと移り住み、隠していたヘソクリで生活しながら、東京の巣鴨プリズン(東京拘置所)に通い、安藤百福と面会した。

さて、財産を差し押さえられた安藤百福は、京都大学法学部長を務めた黒田覚(黒田覺)に弁護団を結成してもらい、処分取り消しを求めて提訴した。

税務当局は、旗色が悪くなると、裁判で負ければ反税運動が盛り上がると危機感を抱いたのか、提訴を取り下げれば、即刻釈放すると持ちかけたが、安藤百福は司法取引には応じず、訴訟を続けた。

安藤百福の投獄中に長女・堀之内明美を出産した安藤仁子は、不安でたまらず、涙ながらに訴訟を取り下げるように頼んだが、夫・安藤百福は頑として応じなかった。

しかし、巣鴨プリズン(東京拘置所)に収監されてから2年後、次男・安藤宏基と長女・堀之内明美を連れて面会に来た安藤仁子が、面会時間を終えて帰るとき、安藤百福は安藤仁子らの背中を見て潮時かと思い、訴訟を取り下げて釈放された。

大阪華銀の倒産

安藤百福は釈放されが、訴訟を取り下げたので、差し押さえられた財産は戻ってこなかったようである。また、差し押さえを受けたときに会社を精算したので、事業家としては振り出しに戻ってしまった。

そのようななか、夫・安藤百福は、人から頼まれて、昭和26年(1951年)に在日中国人向けの信用組合「大阪華銀」の理事長に就任し、安定した生活を手に入れたが、大阪華銀には金融の専門家が居らず、貸し出しがルーズだったため、たちまち経営が悪化した。

そのようななか、夫・安藤百福の元に、大阪華銀の経営不振を一転させるような投資話が持ち込まれた。安藤百福は大阪華銀の経営を立て直すため、投資話に乗ったが、この投資が失敗し、結局、大阪華銀を倒産させてしまう。

このため、安藤百福は理事としての責任を問われ、全財産を再押さえられた。また、在日台湾人の許炎亭によると、安藤百福は、このとき、横領・背任で執行猶予付きの有罪判決を受けたという。

チキンラーメンの開発

安藤百福は、大阪華銀の倒産によって全財産を失っても、事業意欲は衰えておらず、「ラーメン屋になる」と言い、借家の庭に小屋を作り、即席麺「チキンラーメン」の開発を始めた。

安藤百福は麺にスープを練り込もうとしたが、どうしても麺がボロボロになってしまった。安藤仁子は失敗した麺の処分に困っていたが、栄養があるということで、豚の餌として売ることが出来た。

その後もチキンラーメンの開発に苦心していた安藤百福は、安藤仁子が台所で天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げることで麺を乾燥させるという方法を思いつき、即席麺「チキンラーメン」を完成させた。

(注釈:安藤百福は、天ぷら屋で天ぷらを揚げているのを見て、思いついたとも語っている。)

さて、こうして、安藤百福はチキンラーメンを完成させると、早速、試作品作りを開始した。

安藤百福が貿易商の知人に頼んでチキンラーメンのサンプルをアメリカに送ると、500ケースの注文が来たので、家族総出でチキンラーメンを作った。

このとき、夫・安藤百福らは、チキンラーメンが世界的な商品になるのではないかと、胸を躍らせた。

さて、安藤百福は、正式販売の前哨戦として、梅田阪急百貨店の地下食品売り場で、チキンラーメンの実演販売をした。

初めは半信半疑だった客も、実際にお湯を掛けてラーメンを作ってみると、お湯を入れるだけで本当にラーメンが出来ることに驚き、チキンラーメンは飛ぶように売れて500食が完売。いつしか、チキンラーメンは2分で出来る「魔法のラーメン」と呼ばれるようになる。

これに手応えを感じた安藤百福は、資金も底をつきかけて生活も苦しかったが、知人からお金を借りて、大阪市東淀川区田川通り二丁目の古い倉庫を借りて川田工場とし、チキンラーメンの製造を開始した。

ある日、安藤仁子は、川田工場の帰りに出会った知人から「ご主人は何をされているのですか?」と聞かれたので、「ラーメン屋さんです」と答えた。

このころ、ラーメン屋と言えば屋台のラーメン屋で、失業者がするような仕事だったため、知人は「あら、ラーメンですか」と少し驚いた顔をした。

すると、安藤仁子は憤慨して「主人は将来必ずビール会社のように大きくなると言っています。ラーメンにはビールと違って、税金がかかりませんからね」と告げた。

ところで、日本の即席麺は、戦後の在日台湾人が故郷・台湾の麺料理「鶏糸麺(ケーシーメン)」を日本で作るようになったのが始まりと言われ、チキンラーメンよりも前に即席麺は存在していた。

たとえば、チキンラーメンが登場する2年前の昭和31年(1956年)の第1次南極観測隊が南極に即席麺を持って行っている。この即席麺は張国文の即席麺「長寿麺」だったという。

また、チキンラーメンよりも前に即席麺は販売されていたが、いずれの即席麺も商業的には成功していなかった。

このためか、安藤百福がチキンラーメンを問屋に持ち込んでも、即席麺の利便性を理解してもらえず、高いと言って相手にされなかった。

うどん玉が6円で、乾麺でも25円で買えるので、1袋35円(現在の500円程度)もするチキンラーメンは高くて売れないというのだ。

しかも、当時は手形取引が慣習だったのに、夫・安藤百福は現金取引を持ちかけたので、問屋は開いた口が塞がらない状態である。

そこで、夫・安藤百福は、お代は売れたらたでけっこうですと言い、チキンラーメンを置いて帰り、昭和33年(1958年)8月25日に大阪市中央卸売市場でチキンラーメンの発売が開始された。

日清食品の誕生

即席麺「チキンラーメン」は販売を開始したが、消費者は即席麺を知らないので、海の物とも山の物とも分からず、全く売れなかったという。

このころ、民間人の正田美智子が皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)と婚約して「ミッチーブーム」が起きており、正田美智子の実家である日清製粉も話題となっていた。

そこで、在日台湾人の許炎亭が「日清」と付ければ、消費者も安心して買うのではないかと助言すると、安藤百福は膝を叩いて「そうだ」と言い、社名を「日清食品」としたという。

そして、安藤百福はミッチブームに便乗して「日清食品」という社名を前面に押し出して宣伝し、この「日清」効果によって消費者の信頼を得て、チキンラーメンは爆発的にヒットしたという。

さらに、安藤百福は「ミッチー」という商標を登録して「ミッチーラーメン」を発売しようとしたが、日清製粉から待ったがかかったらしく、実際には発売されなかった。その代わり、日清食品は日清製粉と本格的に取引を開始したという。

ところで、この話には後日談があって、日清製粉は、食品部物を独立させるとき、既に日清食品があったので、「日清食品」が使えず、「日清フーズ」という社名にした。

その後、夫・安藤百福は、アメリカへ進出したとき、アメリカで現地法人「ニッシン・フーズ」を設立した。

カップヌードルの着想

安藤百福は、即席麺業界の黎明期に起きた泥沼の特許紛争を制して、日本ラーメンエ業協会を設立して会長に就任し、即席麺業界のリーダーとなった。

しかし、右肩上がりだった即席麺も昭和39年ごろから需要が頭打ちしたうえ、「長崎タンメン」で急成長していた群馬のサンヨー食品が大阪へと侵攻してきたため、日清食品は苦しい戦いを強いられるようになった。

そこで、夫・安藤百福は昭和41年(1966年)に、海外に販路を求めるため、アメリカ視察へ行くと言い出した。

このころ、飛行機の事故が頻発していたので、仕事に口を出さなかった安藤仁子も、このときばかりは「すこし様子を見られたらどうですか」と止めたが、夫・安藤百福は「死ぬ時は座敷に座っていても死ぬものだ」と言い、アメリカ視察を行った。

夫・安藤百福は、このアメリカ視察で、バイヤーがチキンラーメンを2つに割って、紙コップに入れて湯を注いで食べているのを見て、アメリカには丼と箸という文化がないことに気くとともに、カップヌードルの着想を得た。

さらに、カップヌードルの蓋に悩んでいた夫・安藤百福は、アメリカ視察の帰りの飛行機の中で、おつまみとして配られたマカデミアナッツの容器を見て、カップヌードルの蓋を圧着するという方法を採用した。

これは使えると思った夫・安藤百福は、マカデミアナッツをもう1つ貰って持ち帰った。安藤仁子はこのマカデミアナッツを大切に保管していた。

日清食品からの引退

昭和43年(1968年)に母・安藤須磨が死去する一方で、安藤仁子の心を痛める出来事があった。

日清食品の取締役・有元那茅満(なつみ)が、日清食品の手形を乱発するという事件が発生したのである。

これは単なる横領事件ではなく、不祥事を起こした有元那茅満は、2番目の姉・安藤澪子の4男で、安藤仁子の甥にあり、創業家一族の身内による不祥事だったのである。

しかも、有元那茅満は、チキンラーメンの試作品作りから関わっていた日清食品の創業メンバーで、安藤百福の側近中の側近として活躍していたのだ。

さて、不祥事が発覚すると、安藤仁子は有元那茅満のことを許して欲しいと懇願したが、安藤百福は身内といえど、有元那茅満の罪を許さなかった。

即席麺業界は黎明期に泥の沼の特許紛争が起こして大混乱したが、日清食品の安藤百福が特許を開放することで、即席麺業界の混乱を収め、日清食品が即席麺業界のリーダーとなっていた。

既に日清食品は東証2部上場を果たした大企業になっており、日清食品が身内の不祥事を見逃せは、再び即席麺業界に混乱が訪れる。そうなれば、一番、迷惑をするのは消費者である。身内といえど、不祥事を見逃す子は出来ない。

中国の三国時代に蜀という国があり、蜀の軍師・諸葛孔明が、人材不足にもかかわらず、規律を重視して、軍律に背いた優秀な部下・馬謖を処刑し、「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれた。

まさに、夫・安藤百福は、消費者や即席麺業界を守るために規律を重んじ、泣いて馬謖を斬る思いで、身内の有元那茅満を解雇し、昭和45年(1970年)に告発したのである。

この不祥事に連座して有元那茅満の兄・有元一馬(日清食品の取締役)が日清食品から退いており、日清食品の取締役を務めていた安藤仁子も事件後の昭和46年(1971年)5月に日清食品を身をひいた。

なお、安藤百福は有元那茅満に融資した富士銀行の不手際を追及し、富士銀行から1年間、年利4%の低金利で20億円を借り、その20億円を年利10%で三菱商事に貸し付け、利ざやを稼いだので、金銭的な損害は軽微だったという。

晩年

日清食品は、「日清焼そば」の食中毒事件や「スパゲニー」の失敗、有元那茅満の不祥事など災難続きで、安藤百福が昭和46年(1971年)9月18日に発売したカップラーメン「カップヌードル」も高いという理由で問屋に受け入れられなかった。

しかし、昭和47年(1972年)2月に起きた浅間山荘事件の報道を切っ掛けに、カップヌードルは爆発的にヒットする。

カップヌードルがヒットしたのは、安藤仁子が55歳の時で、これで平穏な日々が訪れると思われたが、昭和50年(1975年)に発売した「カップライス」が全く売れず、波乱は続いた。

さらに、安藤百福は長男・安藤宏寿に社長を譲って会長へと退いたが、わずか2年で長男・安藤宏寿を解任して再び社長へ復帰した。

その後、安藤百福は次男・安藤宏基に社長を譲ったが、次男・安藤宏基は社長に就任早々、「打倒カップヌードル」を宣言し、安藤百福を激怒させた。

次男・安藤宏基と安藤百福は経営方針が違うので度々、仕事で対立し、安藤仁子は親子喧嘩のとばっちりを受けた。

流石の安藤仁子も限界に来たのか、「夜、主人が宏基の不出来なこと、わたしへの不満、二時間に及ぶ。一番の息子なのに、なぜあのようにクソカスに言うのか。わたしが甘えて育てたからだという。そんなに気に入らなければ、好きな人を社長にすれば。八月のわたしの誕生日はもうお祝いは結構。あの言葉のきついのは本当に悪い」と、日記に書き記している。

この後、安藤百福は娘の堀之内明美から電話で諭され、安藤仁子に謝罪したという。

その後、次男・安藤宏基が安藤仁子のことを思って、安藤百福の話を聞くようにすると、安藤百福も穏やかになっていき、ようやく平穏が訪れた。

安藤仁子は戦後、信仰に目覚め、日帰りで巡礼を続けており、カップヌードルが大ヒットした昭和47年(1972年)から、晩年のためにとっておいた四国八十八カ所参りを開始した。

また、日清食品の工場に祭った観音様のお参りを続け、目を悪くした夫・安藤百福のために、目に効く寺があると、必ず立ち寄ってお参りしていたという。

また、夫・安藤百福も次男・安藤宏基も信仰心が無かったので、安藤仁子は安藤家はこれで終わりだと嘆いていたが、孫の安藤徳隆が成人式の祝いに毘沙門天の像が欲しいと言い、毘沙門天の像を大事にしたので、安藤仁子はとても喜んだ。

夫・安藤百福は晩年も、阪神淡路大震災の時にキッチンカーを派遣してチキンラーメン1万5000食を無償提供したり、ベンチャー起業を支援したり、私財を投じて日清スポーツ振興財団を設立したりしたほか、宇宙でもラーメンを食べられるように宇宙食ラーメン「ペース・ラム」を開発して宇宙にもラーメンを届けるなど、精力的に活動した。

そして、安藤百福は、平成19年(2007年)1月4日に日清食品で立ったまま30分間の年頭訓示を行い、昼食にチキンラーメンを食べ、翌日の平成19年1月5日に心筋梗塞で死去した。享年98だった。

安藤仁子は、夫・安藤百福の死から3年後の平成22年(2010年)3月19日に死去した。享年94。老衰だった。

なお、朝ドラ「まんぷく」の登場人物や企業のモデルは「朝ドラ「まんぷく」のキヤストと実在のモデル一覧」をご覧ください。

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