日清食品の創業者・安藤百福を脱税で逮捕

日清食品の創業者の生涯を描く「安藤百福の立志伝」の「日清食品の創業者・安藤百福を脱税で逮捕」です。

このページは「安藤百福が田中龍夫を支援」からの続きです。

安藤百福の立志伝を最初から読みたい方は「日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)の立志伝」からお読みください。

安藤百福が製塩事業を開始

「事業を始めようとしたとき、私は金儲けをしようという気持ちはあまりなかった。何か世の中を明るくする仕事は何かないかと考えてた。金なら有り余るほど持っていたのだから」

戦後、在日台湾人の安藤百福(呉百福)は、中国籍を得て戦勝国民となり、戦争被害の保険金4000万円(現在の価値で数百億円)を受け取って「日本一の大金持ち」となった。

そして、安藤百福(呉百福)は、開先を引き上げて大阪府泉大津市に居を構え、ひとまず生活が落ち着けた。

このころ、街には復員してきた軍人や疎開から引き上げてきた若者などがたむろしていた。こうした若者は、問題を起こしたり、拳銃を持ったりしていたので、非常に物騒だった。

佐藤栄作や田中龍夫と話をしたとき、こうした若者が事件を起こす前にどうにかしなければならないという結論になったので、安藤百福(呉百福)は「それなら私が面倒を見よう」と思った。

大阪・泉大津の西側には大阪湾が広がっており、海の近くに造兵廠があった。造兵廠には薄い鉄板がたくさん積まれていた。

そこで、安藤百福(呉百福)は、製塩を思いつき、造兵廠を借て、仕事の無い若者を集め、塩作りを開始した。

疎開中に赤穂で見た塩田をヒントにして、海岸に鉄板を並べ、日差しで高熱になった鉄板の上に海水をかけて水分を飛ばす。それを何度か繰り返して濃縮液を作り、最後に濃縮液を大釜で煮詰めて塩を精製するのである。

最初は失敗の連続で、雨が降って濃縮液が流されたり、若者がカニを配電盤に突っ込んでショートさせ、付近一帯を停電にして電力会社から大目玉を食らったりしたこともあった。

そして、苦労の末にできあがった塩は、近所の人に無料で配った。当時は塩が貴重だったので、泉大津市民から喜ばれた。そして、余った塩はふりかけにして販売した。

(注釈:塩は専売品だったが、戦時中に自給製塩が認められており、この時は塩の生産が合法だった。ただし、戦後に粗悪品が氾濫したため、昭和24年に塩の専売が復活し、自給製塩は禁止された。)

また、安藤百福(呉百福)は漁船を2艘買い入れ、大阪湾でイワシを捕った。連日の大漁で、妻の安藤仁子も船に乗って若者と一緒にはしゃいだ。捕れたイワシは干物にして近所の人に配った。

そして、安藤百福(呉百福)は、本格的に事業を開始するため、昭和23年(1948年)9月に大阪府泉大津市汐見町で海産物加工などを手がける「中交総社」を設立した。

この「中交総社」は翌年の昭和24年(1949年)9月に社名を変更して「サンシー殖産」になり、休眠状態を経て、昭和33年(1958年)12月20日に「日清食品」となる。

中華交通技術専門学院の設立

佐藤栄作が「これまで日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには鉄道、自動車など交通整備が必要になる。将来、技術協力できる人材を養成してはどうですか」と言った。

そこで、安藤百福(呉百福)は、中国も日本も復興するには技術が必要だと考え、南満州鉄道(満鉄)での勤務経験のある田中龍夫に助言を求め、昭和23年(1948年)4月に愛知県名古屋市で専門学校「中華交通技術専門学院」を設立した。

そして、トヨタ自動車から車体やエンジンを無償で提供してもらい、名古屋大学からは講師を派遣してもらい、仕事の無い若者を集めて技術を学ばせた。

「中華交通技術専門学院」は、全寮制の食事付きで、学費も取らないうえ、生活費まで支給するという慈善事業だった。

この好条件に全国から1万2000人の応募が有り、第1期生として60人(日本人50人・中国人10人)が入学した。

安藤百福(呉百福)が中華交通技術専門学院を設立するとき、朝日新聞・社会部の部長・原清が、こんな時勢に無償で学校経営するような奇特な人間がいるわけがないと言い、「本当にそんなお金を持っているのか?」と取材に来た。

そこで、安藤百福(呉百福)が貯金通帳を見せると、原清は「これは失礼しました」と謝罪した。

国民栄養化学研究所の設立

在日台湾人などの戦勝国民には特別配給が出たのだが、敗戦国民の日本人は配給だけだった。

戦後の日本は食糧事情が悪く、配給だけでは生きていけず、身の回りの物を売って闇市で食糧を購入したが、それでも栄養失調で死ぬ人も多かった。

そこで、安藤百福(呉百福)は昭和23年(1948年)9月に大阪で国民栄養化学研究所を設立し、大阪市立衛生研究所や大阪大学から専門家を招き、病人の栄養食品の研究を開始した。

安藤百福(呉百福)は何を原材料に使おうかと考えながら寝ていたとき、庭からカエルの声が聞こえてきたので、これは栄養食品になるかもしれないと思った。

そこで、食用ガエルを捕まえて、きれいに下処理をして圧力釜に入れ、電熱器にかけたところ、2時間ほどすると、ドーンという轟音を立てて爆発し、部屋中に食用ガエルた飛び散ってしまい、妻の安藤仁子に叱られてしまった。

食用ガエルを栄養食品にすることに失敗したが、食用ガエルは次男・安藤宏基を産んだばかりの妻・安藤仁子の栄養源となったという。

その後、国民栄養化学研究所は、牛や豚の骨からエキスを抽出して、栄養食品「ビセイクル」の開発に成功。「ビセイクル」は厚生省に認められ、病院にも供給された。

安藤百福を脱税で逮捕

戦後、GHQは戦勝国民(連合国民)に治外法権を与えており、戦勝国民(連合国民)を日本の法律で裁くことはできなかった。

在日台湾人は密輸入などで荒稼ぎしていたのだが、戦勝国民(連合国民)だったため、日本の警察は在日台湾人を逮捕しても日本の裁判にかけることができなかった。

逮捕された在日台湾人はGHQで裁かれていたが、裁判をすること無く、不起訴となって釈放されており、実質的には在日台湾人は裁かれることはなかったのである。

また、安藤百福の元には百数十人の若者が集まっており、若者は時々、事件を起こして警察に捕まっていたのだが、安藤百福はGHQに手を回して逮捕された若者を釈放させていた。

安藤百福(呉百福)は、莫大な資産を有しており、日本の政治家やGHQの幹部とも親しくし、製塩事業や専門学校の経営意外にも様々な事業を展開していた。

これを面白く思わないのが警視総監で、警察は安藤百福(呉百福)の捜査を開始した。これに怒った安藤百福(呉百福)は、GHQの大阪軍政部長に頼んで、警察の捜査を中止させた。

そのようななか、GHQの大阪軍政部長が転勤することになったので、安藤百福(呉百福)は昭和23年12月に大阪軍政部長の送別会を開いたのだが、この送別会が終わったところで、安藤百福(呉百福)は脱税容疑でMPに逮捕されてしまったのである。

安藤百福の脱税事件

戦後、在日台湾人は、華僑登録することによって中国籍を取得して、戦勝国民となると、戦勝国民が敗戦国に税金を払う理由が無いと言い、大蔵省に対して納税の義務は無いと主張した。

このため、大蔵省は在日台湾人に対する課税を停止していたのだが、GHQに相談したところ、昭和22年5月にGHQが戦勝国民も日本人と同様に納税の義務があると判断した。

そこで、税務署は戦勝国民の在日台湾人に対しても課税を開始したのだが、実情を反映しない外観査定で課税したため、莫大な税金が課せられたという。

さて、在日台湾人の安藤百福(呉百福)は昭和22年(1947年)度の所得が赤字だったことから、所得を申告していなかった。

しかし、在日台湾人に対する課税を強化した泉大津税務署は、安藤百福(呉百福)の所得を800万円と認定し、870万円を課税したうえ、安藤百福(呉百福)を脱税の容疑で軍事裁判に起訴した。

このため、安藤百福は昭和23年(1948年)12月、GHQの大阪軍政部長の送別会が終わると、脱税容疑でMPに逮捕・起訴され、軍事裁判にかけられた。

そして、安藤百福(呉百福)は軍事裁判で脱税所得額を約4800円と認定され、脱税の罪で「4年の重労働」という実刑判決を受け、東京の巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収容されてしまったのである。

東京の巣鴨プリズンは、政治犯も収容されており、面識のあった岸信介とも巣鴨プリズンで再会した。

また、巣鴨プリズンはGHQの運営ということもあり、日本の刑務所と違って重労働も無く、人権も守られ、食事も米兵と同じで、塀の外よりもむしろ食事などは良かった。安藤百福(呉百福)は巣鴨プリズン時代に麻雀を覚えた。

さて、安藤百福(呉百福)は軍事裁判で脱税所得額4800円と認定されたが、泉大津税務署は安藤百福の所得を800万円と認定して、870万円を課税しており、安藤百福(呉百福)の自宅や事業を差し押さえた。

しかし、安藤百福(呉百福)は、軍事裁判で認定された脱税所得額は4800円だったことから、京都大学法学部長を務めた黒田覚(黒田覺)に弁護団を結成してもらい、処分取り消しを求めて提訴した。

やがて、裁判が進むと、泉大津署の役人が、提訴を取り下げてくれれば、即刻釈放しても言いと言い、取引を持ちかけてきた。泉大津署は裁判で不利になっており、もし裁判で負ければ、反税運動が勢いづくと思ったのだろう。

しかし、安藤百福(呉百福)は取引に応じず、裁判を続けた。

妻の安藤仁子は毎月のように面会に来て、「訴えを取り下げてください」と頼んだが、安藤百福(呉百福)はこれに応じなかった。

しかし、2年ほどして、妻の安藤仁子(呉百福)が次男・安藤宏基と長女・安藤明美を連れて面会に来たときだった。

安藤百福(呉百福)は妻・安藤仁子の頼みに応じなかったのだが、45分の面会時間を終えて妻・安藤仁子が子供を連れて帰るとき、そろそろ潮時かもしれないと思い、訴えを取り下げて、釈放された。

その日、安藤百福(呉百福)は旅館に泊まり、久しぶりの家族団らんを味わった。

「安藤百福の立志伝-大阪華銀の倒産」へ続く。

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