安藤百福(呉百福)の立志伝

チキンラーメンを開発して日清食品を創業した安藤百福(あんどう・ももふく)の立志伝です。

安藤百福(呉百福)の立志伝

安藤百福の画像安藤百福(本名・旧姓は呉百福)は、明治43年(1910年)3月5日に、日本統治下の台湾の台南県東石郡朴子街で、呉の三男として生まれた。母は呉千緑である。

明治27年に起きた日清戦争で日本が勝利したことにより、敗北した清(中国)は台湾を日本に割譲し、台湾は日本の統治下となった。そして、台湾の日本統治時代は、第二次世界大戦で日本が敗戦するまで続く。

そして、日本の富士山よりも、台湾の新高山(ニイタカ山)の方が高かったことから、日本が台湾を統治している間は、日本一の山は富士山ではなく、台湾の新高山(ニイタカ山)だった。

日本が真珠湾攻撃をしたときの暗号が「ニイタカヤマ二ノボレ1208」というのも、当時、日本一の山は台湾の新高山だったからである。

さて、安藤百福の父親は資産家で、裕福な家庭だったが、安藤百福は両親の顔を覚える間もなく、両親を亡くし、呉服屋を営んでいた祖父に育てられた。

安藤百福は幼い頃から、呉服屋に出てソロバンをはじいて遊んでおり、数字に強よかった。また、呉服屋には大勢の商人や客が出入りして賑やかだぅたことから、「商売は面白い」と思うようになっていた。

さて、安藤百福は三男で家業を継げないことから、祖父は厳しく教育しており、安藤百福は小学生の時から、食事や洗濯を自分でこなして、妹の世話もしていた。

安藤百福は自立心が強く、小学生の高学年になると、独立すると言い、祖父の許可を得て、妹と2人で祖父の家から独立し、朝早くから起きて自分と妹2人分の弁当を作り、学校に通い、高等小学校を卒業後は祖父の呉服屋を手伝った。

そして、安藤百福は、1番目の妻となる台湾人・呉黄梅と結婚し、昭和5年(1930年)に長男・安藤宏寿が誕生する。

その一方で、安藤百福は知り合いの推薦により、昭和5年に新設された図書館の司書となって本の整理の間に色々な本を読むが、心の底からわき出てくる冒険心を抑えきれず、司書を2年で辞めた。

昭和6年に満州事変が勃発するなか、日本の繊維業界では新式の編み機が登場しており、メリヤスが発展する予兆を見せていた。

繊維業界の動向を調べていた安藤百福は、内地(日本本土)で発展の予兆を見せていたメリヤスに注目し、メリヤスなら祖父の呉服屋にも迷惑がかからないだろうと考え、昭和7年、22歳の時に父親の遺産19万円を元手に独立して、台北市永楽町に「東洋莫大小」を設立してメリヤスの輸入を始めた。

メリヤスの輸入は当初から大当たりで、内地からいくら輸入しても足りないので、翌年の昭和8年に大阪の唐物町2丁目に問屋「日東商会」を設立して日本内地に進出。以降は大阪を拠点として、方々を飛び回る一方で、立命館大学専門学部経済学科の夜間に通った。

ところで、台湾には「夫妾婚姻」という妾制度があり、妾と結婚することが法的に認められていた(台湾の妾は戸籍にも記載されるので、日本の愛人とは違い、台湾の妾は「第2婦人」という扱いになる)。

このため、安藤百福は正妻・呉黄梅の他に、呉金鶯という妾(第2婦人)とも結婚しており、長男・安藤宏寿によると、安藤百福は正妻・呉黄梅と長男・安藤宏寿を台湾に残し、妾の呉金鶯とともに大阪に移住したのだという。

政財界に人脈を広げる

日本内地に進出した安藤百福は、糸の番手まで指定するなど、細かく注文を付けていたのが功を奏したのか、大阪でもメリヤスで成功。叔父の紹介で、総理大臣・田中義一の自宅を訪れて、田中義一にも面会した。

そして、田中義一の長男・田中龍夫が同い年だったこともあり、気が合い、安藤百福は東京へ行くたびに田中家を訪れるようになり、家族ぐるみの付き合いとなった。

これが縁で、安藤百福は、日立財閥の創始者・久原房之助に可愛がられ、政財界へと交友関係を広めていく。

蚕事業を始める

当時は「ヒマ」から「ひまし油」を航空機の潤滑油に使用していた。この「ヒマ」の葉を蚕が食べることが分かっており、ヒマの葉を食べると繭が少し黄色くなってしまうが、成長は早かった。

そこで、安藤百福が台湾でヒマを育て、夏用嘉久次の近江絹糸が繭を糸にして、福伊繊維が織物して、三井物産が売るという計画で、50万円の資本金で大々的に蚕事業を開始した。

衰えぬ事業意欲

昭和16年(1941年)12月8日未明、日本は「ニイタカヤマ二ノボレ1208」の暗号で真珠湾攻撃を開始し、アメリカに宣戦布告した。

このとき、安藤百福は台湾に出張中しており、嘉義市の日本旅館「柳屋」のラジオのニュースで日本の宣戦布告を知った。

その後、軍事統制の影響で、メリヤスの仕事も低迷。大々的に開始した蚕事業も戦況の悪化によって中止になった。

しかし、安藤百福の事業意欲は衰えず、昭和17年に川西航空機の下請けで軍用エンジンの部品を製造する会社の共同経営を開始する。

このとき、徴用や学徒動員で集められた工員は機械の操作方法を知らないので、幻灯機(スライド映写機)を使って操作方法を教えることになった。

しかし、戦時中に幻灯機(スライド映写機)が十分に在るはずも無いので、安藤百福は幻灯機の需要増を見越して、幻灯機の製造を開始したのだった。

物資横流しで逮捕

ある日、軍用エンジンの部品を製造する会社を共同経営していた安藤百福は、資材担当の社員から「数が合わない。誰かが横流しをしている」という報告を受けた。

当時は軍の物資を横流しなどすれば、殺されても仕方が無いという時代だったので、安藤百福は、慌てて警察に行くと、管轄が違うので憲兵隊に行くように言われ、憲兵隊へ行った。

ところが、対応した憲兵隊の伍長が横流し犯と裏で繋がっていたらしく、安藤百福は物資横流しの冤罪で逮捕されて拷問を受けた。

そして、百福は虚偽内容の自白調書に署名を迫られたが、正義を貫いて署名を拒否した。

このとき、食事は麦飯と漬け物ばかりで、食器も洗われておらず、臭かったので、百福はとても食べられた物ではないと思い、食事を同じ留置場の人にあげると、その人達は百福の食事を奪い合って食べていた。

百福は「浅ましい」と思ったが、しばらくすると、空腹に耐えかね、食事が食べられるようになり、汚れた水も飲めるようになった。

安藤百福はこの時のことを「極限になれば人間の本質が見えてくるという、この時、私の心は、なにか透明な感じで、食というものに突き当たった。人間にとって、食こそが最も崇高なものなのだと感じられた。即席めんの開発の源をたどっていけば、ここまでさかのぼるのかもしれない。もちろん、その時の私に、チキンラーメンの発想があったわけではない」と記している。

さて、取り調べでの暴力が激しくなると、安藤はこのままでは死んでしまうと思い、絶食して病気になろうと考え、同じ部屋の人に食事をあげた。

すると、衰退していく安藤百福に同情してくれる人が居り、釈放される事になった人が、「シャバに出られるので、何か力になれる事は無いか」と言ってくれた。

そこで、安藤百福は元陸軍中尉・井上に伝言を頼むと、翌日、元陸軍中尉・井上が憲兵隊から安藤を救い出したのだった。

安藤百福は1ヶ月半ぶりに自由の身になったが、激しく衰退しており、入院して長期療養を余儀なくされた。

3人目の妻・安藤仁子と結婚

安藤百福は正妻・呉黄梅を台湾に残して、妾の呉金鶯に大阪に移っており、妾・呉金鶯との間に呉宏男・呉武徳・呉美和という3人の子供が生まれていた。

しかし、妾・呉金鶯は、安藤百福と別れて、呉宏男・呉武徳・呉美和を連れて台湾に帰ったようである。

このため、安藤百福は、財界人の社交場「大阪クラブ」の受付をしていた安藤仁子(あんどう・まさこ)に一目惚れし、戦時中の昭和20年(1945年)に結婚した。

安藤百福は「大変義理堅くやさしいこの女性(安藤仁子)に、私は一目惚れしてしまった」と記している。

さて、絶食の影響で長期入院を余儀なくされた安藤百福が退院すると、既に大阪も空襲が激しくなっており、兵庫県の上郡に疎開し、疎開先で山を買って炭を作る事業や、被災した人にバラック小屋を建てる事業も開始。そして、兵庫県の上郡で玉音放送を聴いて終戦を迎えたのだった。

「安藤百福の立志伝の中編」は準備中です。もうしばらくお待ちください。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク