わろてんか-アサリ(前野朋哉)のモデルは花菱アチャコ

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場するアサリ(前野朋哉)の実在のモデルは漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の花菱アチャコです。

わろてんか-アサリ(前野朋哉)のあらすじとネタバレ

アサリ(前野朋哉)は歌舞伎役者を目指していたが、その顔では役者は無理だと言われ、芸人になった。

アサリ(前野朋哉)は、ドケチの守銭奴だが、根は優しい。キース(大野拓朗)と度々、対立するが、キース(大野拓朗)と漫才コンビ「キース&アサリ」を結成し、喋くり漫才のパイオニアとなる。

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アサリ(前野朋哉)の実在のモデル

アサリ(前野朋哉)の実在のモデルは、漫才コンビ「エンタツ・チャコ」の花菱アチャコです。

花菱アチャコは実家が貧乏だったので、口減らし為に養子へ出されるが、養子先に馴染めずに実家へ逃げ帰るという事を2度ほど繰り返した。

両親は仕方なく、花菱アチャコを実家に置き、小学校だけは卒業させてやると言ったが、貧乏に拍車がかかり、花菱アチャコは小学4年生の時に中退し、額縁店「長野」へ奉公に出て、2年後に安治川鉄鉱所へ就職した。

小学校の時に芝居好きだった花菱アチャコは、仕事を終えると、大道演歌団に加わり、給料以外にもお金を持ち帰るようになったため、母・藤木エンに大道芸をしている事を知られてしまう。

これを機に花菱アチャコは芸人になろうと思い、お笑いとしての「万歳」を確立した玉子屋円辰の弟子になろうとしたが、断られた。

次に曾我廼家五郎に入門しようとしたが、曾我廼家五郎にも断られた。

母・藤木エンは、それほど芸人になりたいのなら、ということで、知り合いの伝を頼ってくれ、花菱アチャコは山田九州男(山田五十鈴の父)の新派悲劇「美成団」に入る事が出来た。

しかし、当時は芸人が差別される対象だったので、父・藤木広吉は激怒して花菱アチャコを勘当した。

さて、花菱アチャコは新派悲劇「美成団」で1年ほど頑張ったが、全く芽が出ないので、太夫元(興行主)の川崎に相談した。

すつお、花菱アチャコは、川崎から「ええとこに気いついたな。君は体が大きいだけで、顔も声も取り柄が無い。君の才能は体だけや。その体と取り柄の無い顔を活かすのは喜劇しかない」と助言された。

このため、花菱アチャコは喜劇一座「鬼笑会」に移籍し、鬼笑会時代に万歳に転向した。

この頃は、一座が誕生しては消え、誕生しては消えを繰り返しており、花菱アチャコは行く先々の一座が消滅して、一座を転々した。

喜劇一座「堀越一蝶一座」に在籍していた時には、横山エンタツと出会い、1度だけ「喋くり漫才」を披露したが、ミカンの皮や罵声が飛んできて、だ失敗に終わった。

さて、行く先々の一座が消滅した花菱アチャコは、大志を抱いて自ら太夫元(興行主)となって喜劇一座「乙女会」を立ち上げたが、九州興行中にお金が尽きて「乙女会」が消滅してしまう。

そして、九州から大阪へと逃げ帰った花菱アチャコは、「大八会」に所属して万歳師として活動したとき、吉本興行の林正之助の目に止り、林正之助にスカウトされ、大正15年(1926年)に吉本興行へ入った。

このころから、花菱アチャコは既にドケチだったようで、「吉本興行にも長居するつもりは無い」と言い、林正之助に給料を上げさせている。

さて、花菱アチャコ・千歳家今男の万歳コンビは、吉本興行でも人気の漫才コンビとして活躍していた。

このようななか、吉本興行の林正之助が、横山エンタツをスカウトする。このとき、横山エンタツが出した条件が花菱アチャコとのコンビ結成だった。

林正之助は、横山エンタツの条件を飲んで、花菱アチャコと千歳家今男のコンビを解消させ、花菱アチャコと横山エンタツを組ませ、昭和5年(1930年)5月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生する。

当時の漫才は「万歳(まんざい)」と言って、歌や踊りの間に「喋り」を挟むというスタイルで、万歳のメーンは歌や踊りであり、間に挟む「喋り」は添え物に過ぎなかった。

しかし、横山エンタツも花菱アチャコも、メーンである歌や踊りが苦手なので、歌や踊りを排除し、喋りだけで構成した「喋くり万歳」を「二人漫談」と称して舞台に上がった。

さらに、「エンタツ・アチャコ」は洋服を着て、「キミとボク」という標準語を取り入れ、時事問題をネタに取り入れるという、近代漫才スタイルの基礎を確立した。

しかし、客が「万歳」に期待するのは、「歌や踊り」であり、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」は全く受け入れられず、ミカンの皮が罵声が飛んでくる有様だった。

ところが、このころ、吉本興行の林正之助が、入場料10銭で万歳が見られる「10銭万歳」を開始した事により、サラリーマンなどの若者に万歳が普及していき、「エンタツ・アチャコ」は若者の間で「インテリ万歳」として人気を博していくのである。

そして、吉本興行が朝日新聞と提携して戦地に皇軍慰問団を派遣した。「エンタツ・アチャコ」は、皇軍慰問団に加わっており、朝日新聞が大々的に報道してくれたので、三流扱いを受けていた万歳の地位を一気に引きあげた。

そこで、吉本興行の橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」を見て、もはや「万歳」では無いと考え、「万歳」という表記を「漫才」へと変更する事を発表した。

こうしたなか、「エンタツ・アチャコ」は、当時は注目の的であった六大学野球の早慶戦を題材にしたネタ「早慶戦」で、大阪で絶大なる人気を誇り、トップスターへと駆け上がった。

そして、「エンタツ・アチャコ」は、NHKラジオの中継放送に出演して全国へと笑いを届け、さらには、東京の新橋演舞場で開催された「第二回・特選漫才大会」に出演し、東京進出を果たした。

ところが、東京から凱旋した花菱アチャコが中耳炎で入院している間に、人気絶頂の「エンタツ・アチャコ」は、突如として解散していまう。

漫才を主導していた横山エンタツが、花菱アチャコとギャラを折半している事を知って不服に思い、「エンタツ・アチャコ」を解散し、ギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケと漫才コンビを組んだのである。

花菱アチャコは、退院すると、知らない間に「エンタツ・アチャコ」が解散しており、しかたなく、元相方・千歳家今男と漫才コンビを再結成した。

ところが、世間から「エンタツ・アチャコ」の再結成を望む声が高くなったため、吉本興行は舞台では別々のコンビを組ませたまま、映画や放送限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させたのである。

やがて、戦時下の影響で洋画が輸入制限され、松竹が系列の新興キネマに「演芸部」を発足し、演芸界に進出した。

そして、新興キネマは「演芸部」の発足に際し、大金を投じて吉本興行から「ミスワカナ・玉松一郎」などの芸人を引き抜いたのである。

花菱アチャコも新興キネマから、多額の契約金と吉本興行の10倍以上の給料を提示され、大金が入った通帳を受け取り、新興キネマへの移籍を決めた。

これを察知した吉本興行の林正之助は、花菱アチャコをホテルに連行して脅したが、花菱アチャコは筋金入りの守銭奴(ドケチ)だったので、大金に目がくらみ、吉本興行の脅しにも屈しなかった。

しかし、吉本興行の吉本せい(林せい)が、花菱アチャコの父・藤木広吉を脅したので、父・藤木広吉が驚いて花菱アチャコから通帳を取り上げたため、花菱アチャコは仕方なく、移籍を断念した。

ただし、守銭奴の花菱アチャコはただでは転ばず、林正之助に「一生面倒をみる」という念書を書かせた。

こうして、松竹の新興キネマは演芸界に進出したのだが、吉本興行の林正之助が精鋭を集めて新興キネマの寄席に対抗したため、吉本興行客を奪われて行き詰まった。

新興キネマとの争いに勝利した吉本興行も、結局は戦争で全てを失ってしまった。

さて、吉本興行は大阪大空襲で全てを失ったため、林正之助は退職金代わりに芸人の借金を帳消しにして、全ての所属芸人を解雇した。

しかし、花菱アチャコだけは、これに納得せず、林正之助に懇願して吉本興行に残った。

これは、吉本興行への忠誠心などではなく、吉本興行の芸人が自分1人なれば、仕事が来たときに仕事を独り占めできると、花菱アチャコは考えたからである。

こうして、吉本興行に残った花菱アチャコは、映画は舞台を中心に活動し、NHKのラジオ番組「アチャコ青春手帖」を開始すると、トップスターへと駆け上がり、喜劇王の名をほしいままにして、長らく吉本興行のナンバー1に君臨し続けた。

花菱アチャコのドケチ伝説

花菱アチャコは、有名な守銭奴(ドケチ)だった。

しかも、「ドケチ」の前に「ド」が何個も付くほどの「ドケチ」で、吉本興行で一番、ギャラが高いのに、誰一人として花菱アチャコから奢ってもらった人は居らず、弟子ですら小遣いも貰ったこともないのだ。

花菱アチャコは5億円という資産があっても、自分では一銭も出そうとはしない。相手が仕事の関係者なら、自分のおかげで儲かってるだろうと言い、酒を奢らせるのである。

また、相手が年下であっても、酒豪の花菱アチャコは、酒の飲み比べ勝負に持ち込み、勝負に勝って相手に奢らせる。

たとえ、相手が吉本興行の社長・林正之助であっても、遠慮は無い。

花菱アチャコはタダ酒ばかりを飲んでいたので、林正之助は「アイツは酒の味が分からんだろう」と言い、花菱アチャコを茶屋に連れて行き、高級なウイスキーの利酒をさせた。

すると、花菱アチャコは見事に高級なウイスキーを言い当て、ウイスキーやビールをたらふく飲んで、林正之助に払わせた。

ドケチの林正之助は、にこれに懲りて、「アチャコは絶対に誘わん。アイツは絶対に飲み代を出さん」と言い、花菱アチャコとは飲みに行かなかった。

こうして、花菱アチャコは、守銭奴(ドケチ)を貫いて、生涯で10億円という莫大な資産を貯めた。

その一方で、花菱アチャコはドスケベだったので、「1ぺんやらしてーな」と言って女性を口説きまくり、何人かの愛人を持った。

なかでも、花菱アチャコは、愛人の永井愛子(宝塚歌劇団の出身)がお気に入りで、「息子の嫁とワシの嫁(愛人の永井愛子)が同い年」と言って自慢し、神奈川県の山を買って別荘を建てて、愛人の永井愛子にプレゼントした。

このため、晩年は入院中も女性が入れ替わり立ち替わり、見舞いに来ており、花菱アチャコは華やかな入院生活を送って、昭和49年(1974年)7月25日に死去した。死因は直腸癌。享年78だった。

なお、朝ドラ「わろてんか」の登場人物のモデルについて「わろてんか-登場人物の実在モデル」をご覧ください。

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