朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第18話「坂野惇子のクリスマスベル-坂野通夫のバケツ」です。
このページは「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第18話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください
粗悪品が横行していた時代に、坂野惇子は良質な子供服を販売していたので、ベビーショップ・モトヤは直ぐに話題になり、商品は飛ぶように売れた。
製造部門の田村光子は手間暇を掛けて作って商品を作っていたので、商品の供給が追いつかず、ショーケースは直ぐにガラガラになった。
そして、坂野惇子らがベビーショップ・モトヤをオープンしたのが昭和23年(1948年)12月4日だったので、街にはクリスマスの雰囲気が漂い始めていた。
ある日、坂野惇子はガラガラになったショーケースに少しでもクリスマスの雰囲気を出そうと思い、向かいにある毛利装飾店でクリスマス用の飾りを買ってきて、ショーケースを飾り付けた。
そのとき、坂野惇子はクリスマス用のベルにキャンディーを詰めて、留守番をしている子供のお土産することを思いつき、材料を買ってきて、クリスマス用のベルにキャンディーを詰めてラッピングしてみた。
すると、思いの外によくできたので、坂野惇子は、子供へのクリスマスプレゼントして売れるのではないかと思った。
隣に居た村井ミヨ子(中井ミヨ子)も大賛成してくれたので、直ぐに材料を買いに走り、クリスマスベルにキャンディーを入れてラッピングし、100円の値札を付けてショーケースに並べてみた。
すると、並べた直後にキャンディーを詰めたクリスマスベルが売れたので、坂野惇子も村井ミヨ子(中井ミヨ子)も驚いてしまう。
新円切替に伴う預金封鎖は、「第1次封鎖預金」と「第2次封鎖預金」とに別れており、既に第1次預金封鎖が解除され、街に華やかさが戻り始めていた。さらに、闇市で儲けた人たちが「新円成金」となって、羽振りよくしていた。
そして、GHQの影響で社交ダンスパーティーが再流行しており、社交ダンスパーティーやクリスパーティーが盛んに行われるようになっていた。
坂野惇子が作ったキャンディーを詰めたクリスマスベルは、子供達へのプレゼントとしてではなく、社交ダンスパーティーや大人のクリスマスパーティーのプレゼントとして売れていったのである。
クリスマスベルの噂は直ぐに広まり、ベビーショップ・モトヤに大量の注文が入るようになった。毎日、20個から30個、多い日では80個という注文が入った。
ところが、坂野惇子はクリスマスベルが売れるとは思っていなかったので、利益の事を考えずに値段を付けていた。
このため、材料を安く仕入れなければならず、坂野通夫に頼んで安く仕入れ、人手を総動員してキャンディーを入れたクリスマスベルを作った。
こうして、少しずつ、坂野惇子らによって、靴屋「モトヤ靴店」は占領され始めていくのであった。
スポンサードリンク
坂野惇子が思いついたクリスマスベルのおかげで、ひとまず、商品不足を乗りきることが出来たが、それもクリスマスまでだった。
子供服の製造は依然として追いついておらず、兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅で縫製を手がける田村光子は、この状況を何とかしなければならないと考え、人づてに洋服の縫製を専門に勉強している池田富江(宮本富江)の存在を知り、池田富江(宮本富江)に協力を要請した。
一方、ベビーショップ・モトヤの方は、クリスマスが終わると、キャンディーを入れたクリスマスベルも売れなくなり、再び商品不足という窮地を迎えたが、今度は坂野通夫が作った小さなオモチャのバケツがヒットした。
坂野通夫は意外に器用なところがあって、進駐軍の廃物を使って小さなオモチャのバケツを作ったところ、当時は子供用のオモチャを売っていなかったので、オモチャのバケツが子供たちに喜ばれたのである。
坂野惇子と坂野通夫は、徹夜で必死にオモチャのバケツを作り、キャンディなどを入れて売ると、お正月用のプレゼントとして売れていき、なんとか年末の商品不足を乗りきることができた。第19話へ続く。
坂野惇子の立志伝の第19話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
スポンサードリンク
Copyright(C)2010年9月 All Rights Reserved.