坂野兼通の立志伝

子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く立志伝「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」の登場人物の紹介編「坂野兼通の立志伝」です。

坂野兼通の略歴

坂野兼通は、ファミリアの社長・坂野通夫の父親で、大阪・山口財閥の大番頭として活躍し、大阪銀行界の重鎮として君臨した銀行家である。

坂野兼通の基本データ
生年月日文久3年(1863年)12月12日
死没昭和6年(1931年)8月12日
没年齢享年69
出身地愛知県名古屋市/士族
坂野信一郎
長男・坂野信夫、次男・坂野秀夫、三男・坂野康夫、四男・坂野清夫、五男・坂野正夫、六男・坂野俊夫、七男・坂野通夫、長女・坂野芳子、次女・坂野文子

坂野兼通の生涯

坂野兼通の画像坂野兼通(ばんの・かねみち)は、江戸時代・幕末の文久3年(1863年)12月12日に愛知県尾張藩士・坂野信一郎の長男として愛知県名古屋市で生まれた。

父・坂野信一郎は尾張藩の下級藩士だったようである(後記:尾張藩の坂野家について)。父・坂野信一郎は明治2年(1869年)9月に死去し、坂野兼通は7歳で坂野家の家督を相続した。

三菱合資銀行部(三菱銀行)時代

坂野兼通は幼少より秀でており、東京高等商業学校(一橋大学)を卒業後、尾張藩士・加藤高明(後の24代内閣総理大臣)の推薦で三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)に入った。

坂野兼通は、非常に温和で人なつっこい性格もあり、上司に好まれて出世し、全国のいくつかの支店で支店長を務めた後、三菱合資銀行部の支店の中で最も重要な大阪支店長を任された。

山口銀行時代

山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)は、大阪・山口財閥の個人銀行で、大阪・山口財閥の第百四十八国立銀行の受け皿として明治31年(1898年)に設立された。

(注釈:このページ登場する山口銀行は、大阪・山口財閥の個人銀行である。山口県に現存する山口銀行とは関係無い。)

山口銀行は大阪でも有数の銀行であったが、大阪・山口財閥の個人銀行に過ぎず、両替商の域を出ていなかった。このため、新たな視野をもった人物が必要となっていた。

このななか、日銀ストライキ事件が発生。これに連座して、日銀・大阪支店長の片岡直樹が辞表を提出。次いで、日銀・大阪支店の町田忠治も辞表を提出した。

ちょうど、改革を必要としていた山口銀行は、日銀・大阪支店を辞めたばかりの町田忠治に目を付けた。

これに尽力したのが、大阪支店長を辞した片岡直樹だったらしい。町田忠治は日銀・大阪支店を辞めて東京へ戻ろうとしていたが、山口銀行に招かれて山口銀行の総理事へと就任する事になる。

町田忠治は明治32年(1899年)4月に山口銀行の総理事に就任すると、積極的に人材を登用し、このときに佐々木駒之助が山口銀行に入る。

さらに、町田忠治は、積極的に支店を展開し、預金額を増額させ、両替商から銀行へと転換を図り、業績拡大していった。

ところが、山口銀行で人事的な問題が発生する。これに嫌気を指した町田忠治は、かねてから考えていた政界進出を決意した。

そこで、町田忠治が自身の後任として目を付けたのが、三菱合資銀行部の大阪支店長として活躍していた坂野兼通である。

今度は、町田忠治が片岡直樹(元・日銀の大阪支店長)に仲介を依頼したのだろう。

この件に関して、元日銀・大阪支店長の片岡直樹(土佐藩士)と、三菱合資銀行部の豊川良平(土佐藩士)が労をとり、坂野兼通は三菱合資銀行部から山口銀行へ移籍することになった。

こうして、坂野兼通は町田忠治に請われて明治43年(1910年)5月1日に山口銀行へ移り、山口銀行の理事に就任。同日、町田忠治が山口銀行の総理事を辞任した。

坂野兼通は町田忠治の後任として活躍し、大正2年(1913年)8月に山口銀行の総理事に就任する。

総理事に就任した坂野兼通は、町田忠治の経営方針を継承して、積極的に支店を展開したほか、銀行以外の業務にも積極的に進出した。

大正5年(大正5年)、増田ビルブローカー銀行を経営する増田一族が投機で損失を出し、関西信託の株を手放すことになった。

坂野兼通は増田一族の関西信託株を引き受け、山口銀行は関西信託の過半数を取得し、関西信託の経営に乗り出した。

さて、山口銀行は次々と業績を拡大しており、もはや、個人銀行のままで経営していくには限界が来ていた。これ以上の拡大を目指すには、株式会社にする必要がある。

そこで、山口銀行の坂野兼通と佐々木駒之助は尽力して、大正6年(1917年)3月18日に株式会社山口銀行を設立。同年5月に山口財閥の個人銀行・山口銀行から業務を引き継ぎ、株式会社山口銀行として営業を開始する。

なお、株式会社山口銀行の頭取は山口財閥の山口吉郎兵衛で、町田忠治も取締役に就任している。

その後も、坂野兼通は日本生命・大阪蓄財などの株式を取得し、山口銀行の規模を拡大していき、大正9年(1920年)12月に山口財閥のグループ企業を統括する山口合資会社を設立した。

その後、町田忠治の推薦で、坂野兼通は山口財閥を統括する山口合資会社の理事に就任することになり、大正13年(1924年)1月25日に山口銀行を理事を辞任して、総理事を佐々木駒之助に譲った。

そして、坂野兼通は山口財閥の代表として、大阪・山口財閥グループの日本生命・大阪蓄財・関西信託・百十銀行・日本海上火災保険・共同火災・毎日新聞・東洋リノリュームなど十数社の理事や会長を兼任した。

こうして、坂野兼通は山口財閥の大番頭として活躍し、大阪財界・銀行界の重鎮として君臨した。

坂野兼通は几帳面な性格で、マメに帳面を付けており、昭和6年(1931年)7月31日に遺言を書き終えた。その翌日の8月1日に急性膵臓炎を煩って大阪帝国大学医学部附属医院に入院し、8月12日に死去した。享年69。

関東大震災後の中小企業を救う

坂野兼通は、町田忠治の経営方針を引き継いでおり、中小企業金融主義で、関西信託を買収後は、関西信託を通じて、中小企業に積極的に融資を行い、中小企業を助けた。

大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の影響で、金融が混乱したとき、各銀行は大規模な貸出規制(貸し渋り)を行ったため、中小企業は資金繰りに行き詰まって全滅しそうになった。

しかし、坂野兼通は貸出規制(貸し渋り)を嫌って通常通りに貸し出しを行い、金融の潤滑に務めた。また、このとき、大企業を救うのでは無く、中業企業に対して融資を行ったので、多くの中小企業が救われた。

坂野兼通は大阪の商業・工業を救った英雄的存在であるが、銀行家はリスクを嫌う人が多いので、リスクを取って融資を行った坂野兼通を「山師」と批判(評価)する者もいた。

坂野兼通の私生活

坂野兼通坂野兼通は、三菱合資銀行部・大阪支店長時代に清水常七の三女・清水えい(坂野えい)と結婚。明治28年9月に長男・坂野信夫が生まれたのを皮切りに、7男2女(うち女1は養子)を儲け、子沢山の大家族を築いた。

明治18年(1885年)に発生した足尾銅山鉱毒事件によって公害問題への意識が強くなっており、明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、大阪の富豪層が開発されていない神戸方面へと逃れた。

坂野兼通も明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、兵庫県芦屋市に、テニスコートを有する別荘を構えて移り住み、大正9年に六甲山の旧アーサー邸を取得。大正時代末に芦屋の山麓に広大な敷地の別荘を構えた。

尾張藩の坂野家について

尾張藩の坂野家は、愛知県蒲郡市柏原町坂野の出身とされる。山田洋三によると、父・坂野信一郎は「尾張藩でも身分が低かった」というので、父・坂野信一郎は尾張藩の下級藩士だったようである。

坂野兼通の性格

山田洋三によると、坂野兼通は温厚で愛嬌があり、話すのも、話を聞くのも好きで、半日でも1日でもノラリクラリと話すような性格で、かなりの楽天家だった。

しかし、非常に温厚で平和主義だったので、議論は喧嘩の元になるとして議論を嫌い、議論になると黙り込んでいたが、仕事に関しては一切、退かなかったという。また、将棋が得意で、将棋は銀行一の腕前だった。

四男・坂野清夫の証言

四男・坂野清夫(きよお)は、父親・坂野兼通について「監査役の職務を大変重視していた」「役員会でも他の役員に『人の顔色を見て発言するようなことはいかがなものか』と釘を刺すなど、ズケズケ言うこともあったと聞く」と語っている。

末息子・坂野通夫の証言

末息子(七男)・坂野通夫は、父親について「厳格な父と陽気な母」「春は桜・つつじ、秋は菊の頃に園遊会を開くのを楽しみにしていた」と記している。

なお、坂野兼通は7男2女と子宝に恵まれたが、名前を受け継いだのは、末息子(七男)の坂野通夫だけだった。

また、父・坂野兼通は遺言を書き終えた翌日に病気にかかり、そのまま死去したため、七男・坂野通夫は身辺整理をすると死ぬと思い、身辺整理をしなかった。

子供と子孫

坂野兼通が三菱合資銀行部や山口銀行で活躍した影響で、長兄・坂野信夫が三菱銀行で取締役を務めたほか、坂野家から三菱銀行や三和銀行に役員を輩出している。

坂野兼通の七男・坂野通夫が坂野惇子(佐々木惇子)と結婚し、坂野惇子(佐々木惇子)が子供服ブランド「ファミリア」を創業したときも、坂野家の縁で三菱銀行と三和銀行がファミリアのメーンバンクを引き受けてくれた。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク