坂野通夫の立志伝

子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子の生涯を描く立志伝「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」の登場人物の紹介編「坂野通夫の立志伝」です。

坂野通夫の概要

坂野通夫坂野通夫は妻・坂野惇子らが創業した子供服ブランド「ファミリア」の社長を務め、仲間内経営だったファミリアを企業として確立し、皇室御用達ブランドへと発展させた。

また、いち早く女性の能力を高く評価し、女性の才能を生かした経営に取り組んだ。現在でも女性の統率に悩む経営者が多く、坂野通夫は大勢の女性を統率した経営者として今なお評価が高い。

坂野通夫
生年月日大正5年(1916年)9月30日
死没平成4年(1992年)6月2日
没年齢享年77
生まれ兵庫県芦屋市
父・坂野兼通、母・坂野えい(清水えい)
坂野惇子(佐々木惇子)
長女・坂野光子(岡崎光子)

坂野通夫の立志伝

坂野通夫(ばんの・みちお)は、尾張藩士・坂野兼通の末息子(7男2女)として、大正5年(1916年)9月30日に兵庫県芦屋市で生まれた。

坂野家は、名古屋市と浜松市の中間付近にある愛知県蒲郡市柏原町坂野(ばんの)から発祥した一族で、父・坂野兼通は尾張藩の下級藩士であった。

父・坂野兼通は明治維新後、三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)に入って大阪支店長として活躍。その後、山口財閥の山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)へと移り、山口財閥の大番頭として活躍し、大阪銀行界の重鎮として君臨した。

母・坂野えい(清水えい)は熊本藩細川家の御用商人・清水常七の3女である。父・坂野兼通は士族だったの非常に厳格だったが、母・坂野えい子は非常に陽気な性格だったという。

学生時代

明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、大阪の大勢の富豪層が開発された大阪を嫌い、自然が多く残る神戸方面に別荘を構えて移り住んだ。

父・坂野兼通も、大阪から神戸へ逃げ出した富豪層の1人で、明治38年(1905年)に兵庫県芦屋市に別荘を構えて移り住み、大正5年(1916年)9月30日に兵庫県芦屋市の別荘で坂野通夫は生まれた。

坂野通夫は、父・坂野兼通が54歳の時に生まれた子で、特別な思い入れがあったのか、父・坂野兼通は大勢の子供(7男2女)を儲けていたが、父・坂野兼通の名前を受け継いだのは、末息子の坂野通夫だけであった。

また、父・坂野兼通は士族の出身なので、躾に厳しく、子供達が正座させられていたが、末息子の坂野通夫だけは父・坂野兼通の膝に座り、父・坂野兼通に甘える事が許された。

こうした影響か、坂野通夫は子供の頃からイタズラばかりをしてガキ大将として育ち、御影師範附属小学校を卒業後、甲南高校中等部へと進学した。

そして、坂野通夫が中学2年の時に父・坂野兼通が死去したので、坂野通夫は以降、21歳上の長兄・坂野信夫(三菱銀行の取締役/キリンビールの常任監査)に育てられた。

坂野惇子との出会い

その後、坂野通夫は甲南高校中等部時代に肺膜炎を煩って1年留年したが、甲南高校中等部を卒業して甲南高校へと進み、甲南高校1年生の冬に、甲南女学校4年生の佐々木惇子(坂野惇子)と出会う。

坂野通夫は昭和10年(1935年)2月に兵庫県の神鍋スキー場へスキーに行った帰りのバスで、佐々木惇子(坂野惇子)のリュックサックの紐が解けていたのに気づき、紐を結んであげた。リュックサックの紐が運命の赤い糸であった。

坂野通夫と佐々木惇子(坂野惇子)は、こうして出会い、交際を重ねていった。

坂野通夫は甲南高校を卒業後、京都帝国大学経済学部へと進学した。佐々木惇子(坂野惇子)は父・佐々木八十八の誘いを受けて上京し、東京女学館高等科へ通い、別々の道を歩んみ、遠距離恋愛となった。

坂野惇子と婚約

大学へ進んでも卒業後は兵隊に取られて命を失う者も多いため、京都帝国大学に進学した坂野通夫は、あまり勉強には身を入れず、自由な大学生活を送り、大学生活を満喫した。

そして、戦時下は卒業・結婚・就職・徴兵がワンセットになっていたので、卒業を来年に控えた昭和14年(1939年)に結婚を申し込み、佐々木惇子(坂野惇子)と婚約した。

すると、義父・佐々木八十八が徴兵までのわずかの時間を楽しめるように配慮してくれたので、2人は軽井沢の別荘へ行ったり、冬はスキーに行ったりして婚約期間を楽しむことができた。

ただし、佐々木惇子(坂野惇子)には、何時も、お手伝いさん付いてきていたので、2人だけのデートというわけにはいかなかった。

坂野惇子と結婚

やがて、坂野通夫は、昭和15年(1940年)4月に京都帝国大学経済学部を卒業して、海外勤務を希望して同年4月に大阪商船(商船三井)に入社。そして、翌月の昭和15年5月に佐々木惇子(坂野惇子)と結婚した。

京都帝国大学を卒業した坂野通夫の初任給は90円だった。

坂野通夫は、中学時代に肺膜炎を煩っており、徴兵検査のレントゲン撮影で肺に影が写っため、乙種として兵役を免れており、ひとまず、幸せな結婚生活をおくり、昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子(ばんのてるこ)が生まれました。

しかし、日本は昭和16年12月に真珠湾攻撃を行って第二次世界大戦に参戦し、戦況を刻々と悪化させており、坂野通夫は坂野光子が生まれた翌年の昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託となり、インドネシアの首都・ジャカルタへと派遣された。

ジャカルタ時代

ジャカルタへ派遣された坂野通夫は、ジャカルタ海軍武官府の輸送課に配属され、人員や物資の輸送などを担当した。

当初は南方の戦況は悪化しておらず、ジャカルタでは中国人が西洋の育児用品などを販売していたので、坂野通夫は育児に苦労していた妻の事を思い出し、暇を見つけてはジャカルタでベビー用品を買い、日本に残してきた妻の元に送った。

しかし、やがて、戦況が悪化。坂野通夫は何度も命を落としそうな危険な目に遭ったが、紙一重で助かり、ジャカルタで終戦を迎え、抑留生活を送った。

あるとき、イギリス軍に拿捕された大阪商船(商船三井)の「すみれ丸」がオランダ人の引き揚げ船となった。

坂野通夫は英語ができ、現地の言葉も少し分かったので、イギリス海軍の命令で連絡将校として半年間「すみれ丸」に乗って引揚げなどに従事した。

そして、終戦の翌年の昭和21年(1946年)4月に「すみれ丸」で広島県の大竹港に帰国し、その後、神戸港へ入り、芦屋にある長兄・坂野信夫の家で、2年半ぶりに妻・坂野惇子と再会した。

日本人はみんなボロボロの服を着ていたが、坂野通夫は緑色の立派なオランダ海軍将校の制服を着ていたので、とても目立つ存在であった。

ただし、立派なのは服だけで、坂野通夫は狭い船に長期間乗っていたため、栄養失調で痩せこけており、なんとか生きているという状態であった。

翌日、坂野通夫は妻・坂野惇子を連れ、田村寛次郎・田村枝津子(田村江つ子)夫婦の元を訪れ、田村夫婦と再開して無事を喜び合った。

坂野通夫と田村寛次郎は、中学・高校・大学の同窓生で先輩後輩の関係(田村寛次郎が先輩)で、ちょうど、田村寛次郎も無事に中国から引揚げてきたばかりであった。

また、妻・坂野惇子と田村江つ子(榎並江つ子)は、甲南女学校時代に知り合った親友だったので、両家は家族ぐるみの付き合いをしていたのである。

戦後-佐々木営業部(レナウン)へ

さて、兵庫県神戸市東灘区岡本(外国人村)に在った坂野家は、昭和20年(1945年)6月の神戸大空襲で焼失しており、坂野惇子は姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)を頼って岡山県勝山町の勝山藩邸に疎開していた。

佐々木智恵子(三浦智恵子)は、勝山藩主・三浦基次の長男・三浦義次(身分は子爵)に嫁いでおり、岡山県勝山町は三浦家の実家である。

坂野通夫は帰国した翌月の昭和21年(1946年)5月に、岡山県勝山を引き払い、兵庫県尼崎市塚口にある兄の借家へと移り住んで、就職していた大阪商船(商船三井)へと復帰した。

ところで、義理の父・佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、戦前はメリヤス業界のトップにまで上り詰めていたが、戦争の影響で実質に機能を停止し、戦時下の企業整理により、江商(現在は総合商社「兼松」)に吸収合併されて消滅していた。

戦後、復員した尾上清が、佐々木八十八の意思を受け、昭和22年(1947年)9月に江商(兼松)から佐々木営業部(レナウン)を独立させるのだが、尾上清は佐々木営業部(レナウン)の独立に先だって、佐々木営業部の製造部門「東京編織(レナウン・メリヤス工業)」を昭和21年に再開させていた。

さて、帰国した坂野通夫は大阪商船(商船三井)へと復帰したものの、大阪商船は戦争で多くの船を失っており、従業員は全員、解雇されるという状態だった。

そこで、坂野通夫は佐々木八十八と尾上清の強い勧めを受け、大阪商船(商船三井)を辞めて、昭和22年2月に東京編織(レナウン・メリヤス工業)へ入社した。

その後、尾上清が江商(兼松)から佐々木営業部(レナウン)を独立させて、佐々木営業部を再開したので、坂野通夫も佐々木営業部へと移り、尾上清の秘書を務めて尾上清からレナウンの帝王学を学んでいった。

戦後の生活-ファミリアの創業

戦後、日本政府は極度のインフレを改称するため、「新円切換」「預金封鎖」「財産税」を実地した。

預金の引き出しは世帯主300円、家族1人につき100円に制限し、給料は新円500円までを支給し、残りは強制預金させた。世にいう「新円500円生活」の始まりである。

坂野惇子は、神戸大空襲で自宅を焼け出された後、岡山県勝山に疎開していた姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)の元に身を寄せていたため、生活用品を何も揃えていなかった。

そうした状況で新円切替・預金封鎖が行われたため、坂野家は生活用品が何も無い状況で、戦後の新円500円生活を開始した。

こうした状況でも、坂野通夫は「子供の栄養が第一」として食事を最優先させたため、坂野家は生活用品は買いそろえられず、鍋の蓋を皿にして食事をするような生活を送った。

親兄弟に支援を求めれば、生活用品は揃うが、坂野通夫は海軍上がりで厳しい性格だったため、こうした苦しい状況でも、「我々は乞食ではない」と言い、妻・坂野惇子に親兄弟にも支援を求めることを禁じた。

このようななか、ある日の昼時に、坂野家に遊びに来た姉・貴志文子は、腰を抜かして驚いた。坂野通夫らが鍋の蓋を皿代わりにして食事をしていたのだ。

姉・貴志文子は近所に住んでいたが、被災していなかったので、ここまで坂野通夫の生活が苦しいとは思ってもおらず、坂野家の食事風景を見て驚いた姉・貴史文子は慌てて兄の家から食器を持ってきてくれた。

また、長兄・坂野信夫が実家を整理しに来たとき、実家の倉から、高価な家具が坂野通夫の家に気前よく運び込まれたので、家具だけは立派になった。しかし、極度のインフレの影響で、依然として苦しい生活が続いた。

坂野通夫の生涯-ファミリアの創業

家具だけは立派になったが、依然として生活は厳しく、妻・坂野惇子は洋裁の仕事を開始したが、お嬢様育ちだったので代金を請求できなかった。代金を請求しない坂野惇子に気を遣ってか、いつもお礼は品物だった。

このため、妻・坂野惇子は、身の回りの物を売って食料を買う「売り食い」を続けており、昭和23年(1948年)春、ハイヒールを売却するため、神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」を訪れた。

しかし、坂野惇子は、モトヤ靴店の店主・元田蓮から、「お嬢様のために作った靴です。お困りでしょうが、これを売るのだけはやめていただけませんか」と懇願されてしまう。

モトヤ靴店の店主・元田蓮は腕の良い靴職人で、戦前から坂野惇子の実家・佐々木家に出入りし、佐々木八十八に感謝しており、このハイヒールは店主・元田蓮が坂野惇子のために、嫁入り道具の1つとして作ったハイヒールだったのである。

しかし、このとき、妻・坂野惇子が持っていた手製の写真入れや手製のカバンが店主・元田蓮の目に止り、店主・元田蓮から「こんな手仕事の物を作って、お売りになったらいかがですか。うちの陳列ケースを提供しますよ」という提案を受ける。

喜んだ妻・坂野惇子は、親友の田村江つ子(榎並江つ子)に手芸店の出店を相談すると、田村枝津子(田村江つ子)は義理姉(夫の姉)・田村光子に相談しようと提案し、3人で手芸店を開く話がまとまった。

そして、それぞれの夫に相談すると、坂野惇子の夫・坂野通夫も、田村枝津子(田村江つ子)の夫・田村寛次郎も、田村光子の夫・田村陽(飯田陽)も、妻が仕事を持つことに賛成した。

手芸店から「ベビーショップ・モトヤ」へ

ある日、坂野通夫は、手芸店を開こうとしている妻・坂野惇子に言った。

「同じ仕事をするのなら、単なる手芸店ではなく、女性の特性を生かし、せっかく覚えた新しい育児経験を元に、赤ちゃんや子供のために、品質が良くて、かわいいものを作れば売れるのではないかな」

坂野惇子は、長女・坂野光子が生まれたときに、外国人専門のベビーナース・大ヶ瀬久子から3ヶ月間、西洋式の育児を学んでおり、日本の育児が遅れている事に気づいていたので、坂野通夫の助言に感銘を受け、単なる手芸店ではなく、ベビーショップを開くことにした。

また、坂野通夫は坂野惇子のために、知り合いの店を何軒かあたり、お洒落な元町商店街で店舗の一部を貸してくれるという店を見つけてきた。

元町商店街の店舗は綺麗な店構えだったが、坂野惇子らがあまり気が乗らず、最終的に年長の田村光子が「元町のお店の方が、なるほど、店構えが良くて結構だけれど、整いすぎて面白くないわ。モトヤさんの方が、惇子も何かと相談しやすいと思うし、将来もきっと良くなると思うわ」と言い、モトヤ靴店の一角を借りて店を開くことに決めた。

こうして、坂野惇子(佐々木惇子)・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人は、昭和23年(1948年)12月4日に靴店「モトヤ靴店」のショーケース2台を借り、「ベビーショップ・モトヤ」をオープンしたのである。

ところが、ベビーショップ・モトヤの商品は飛ぶように売れ、店主・元田蓮は坂野惇子らに店を占領されて困るようになる。

そこで、モトヤ靴店の西側に隣接する万年筆店が移転して空き店舗になったのを機に、ベビーショップ・モトヤに万年筆店跡へと移ってもらった。

こうして、ベビーショップ・モトヤは、開業から1年後の昭和24年(1949年)12月に、万年筆店跡へと移り、小さい店舗ながら靴店「モトヤ靴店」から独立したのである。

ファミリア設立の裏話

靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の南側に簡易な木造の店舗を建て、文房具店に貸していたが、この文房具店が移転したため、空き店舗になってしまった。

そこで、店主・元田蓮は、佐々木営業部(レナウン)で働いていた坂野通夫に、空き店舗の事を相談した。そして、この話に乗ったのが、佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清である。

佐々木営業部(レナウン)は、衣類の小売部門として「有信実業」を設立し、佐々木営業部のビル1階で販売店「レナウン・サービス・ステーション」と、田中千代デザインルームを開いていた。

そして、田中千代が佐々木営業部の主催で、昭和22年(1947年)10月に大阪の文楽座で戦後初となるファッションショーを開催して大成功させており、佐々木営業部はビルが手狭になっていた。

そこで、坂野通夫から話を聞いた尾上清が、モトヤ靴店の南側にある簡易店舗を壊し、大金を投じて店舗を建設し、1階の小売部門「有信実業」を神戸へと移したのである。

こうして建設されたのが、神戸のレナウン・サービス・ステーションで、昭和24年(1949年)9月に神戸の「レナウン・サービス・ステーション」は華々しくオープンした。

1階がレナウン・サービス・ステーションで、2階に田中千代デザインルームという豪華な布陣であった。

ところが、まだ綿が配給制だったので、繊維問屋の佐々木営業部(レナウン)が小売りに進出することに対し、小売店から批判が殺到した。

このため、佐々木営業部(レナウン)の販売部門「有信実業」は撤退を余儀なくされ、神戸のレナウン・サービス・ステーションは開店直後に閉鎖することになったのである。

このころ、妻・坂野惇子が創業した「ベビーショップ・モトヤ」は、モトヤ靴店から追い出される形で、万年筆店へ移り、昭和24年(1949年)12月に万年筆店で独立をした。

そこで、坂野通夫は、これを機に、レナウン・サービス・ステーションへ移り、会社を設立して本格的に商売する事を薦めたたのである。

ファミリアを設立

佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清は、妻・坂野惇子の幼馴染みで、以前から妻・坂野惇子に仕事を持つように勧めていたので、妻・坂野惇子らが本格的に商売する事に賛成した。

レナウン・サービス・ステーションの家主・元田蓮も「貴女たちなら、貸してもいい」と言ってくれた。

そこで、妻・坂野惇子らはレナウン・サービス・ステーションへ移って本格的に商売することを決め、株式会社ファミリアを設立した。

尾上清が店舗を20万円、店内の商品を20万円の計40万円で譲ってくれ、そのうち20万円については尾上清がファミリアに出資するという形で負担為てくれた。

このため、ファミリアは20万円の負担で、レナウン・サービス・ステーションを引き継ぐ事ができた。

こうして、妻・坂野惇子らは、昭和25年(1950年)4月12日にレナウン・サービス・ステーションへと移り、ベビーショップ・ファミリアを開店したのである。

ファミリアが阪急百貨店へ進出

坂野通夫は佐々木営業部(レナウン)で阪急百貨店を担当していた。そして、阪急百貨店の部長・鳥居正一郎とは京都帝国大学の先輩後輩(鳥居正一郎が先輩)という関係だった。

ある日、坂野通夫は、阪急百貨店の部長・鳥居正一郎から「神戸にあるファミリアという店を知ってるかい?」と尋ねられたので、「ファミリアなら、うちの妻がやっている店です」と教えた。

すると、驚いた部長・鳥居正一郎は、阪急百貨店の社長・清水雅から直々にファミリアの商品を仕入れるように命じられた事を明かし、坂野通夫にファミリアとの仲介を頼んだのである。

実は、阪急百貨店の社長・清水雅は、視察などもかねて、妻を連れて神戸を散歩しており、偶然にも創業したばかりのファミリアを目にした。

そして、ファミリアに入ってみると、面白い商品が置いてあったので、ファミリの将来性を見込み、部長・鳥居正一郎にファミリアの商品を仕入れるように指示したのである。

さて、仲介役を引き受けた坂野通夫は、直ぐにファミリアの坂野惇子と田村光子を連れて阪急百貨店を訪れた。

すると、阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦がファミリアに「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」と提案した。

阪急百貨店が設立まもないファミリアに取引を申し込むこと事態が異例中の異例なうえ、阪急特選マークは価値があり、ファミリアにとっては破格の条件だった。

しかし、坂野惇子は「ファミリアは小売りもしていますが、製品を作っているメーカーです。ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら、遠慮します。神戸の店で売る分だけでも、忙しく商品作りに追われているのですから、ファミリアマークの無い商品をわざわざ作るつもりは、今ありません」と言って断ってしまう。

同席していた田村光子も坂野惇子に同意し、阪急百貨店の申し出を断ってしまう。

社長・清水雅からの指示だったので、仲介役を引き受けた坂野通夫は困り果ててしまうが、最終的に阪急百貨店の部長・鳥居正一郎が「阪急ファミリアグループ」という名前を提示し、なんとか坂野惇子と田村光子に納得してもらい、ファミリアは阪急百貨店に商品を販売することなった。

ところが、坂野惇子が阪急ファミリアグループのオープン直前に下見に行くと、ちょうど商品の入れ替え時期で返品作業が行われており、阪急百貨店の社員が売れ残ったフェルト帽を雑に扱っていた。

これに驚いた坂野惇子は、自分たちが作った商品を雑に扱われることを嫌い、取引中止を申し出て、「どうしもというのなら、神戸と同じように、自分たちの手で売らせて欲しい」と言いだした。

部長・鳥居正一郎が「それなら、委託販売しかない」と言い、委託販売が不利になることを教えたが、坂野惇子は阪急百貨店から提示されてた好条件を破棄して、委託販売という方法を選んだ。

こうして、ファミリは、当時では珍しいショップ・イン・ショップという形態で、昭和26年(1951年)4月に阪急百貨店に直営店「阪急ファミリアグループ」を出店したのである。

はんきゅう・こどもショーで大成功

ファミリアが阪急百貨店に出店した年(昭和26年)の9月に、日本はサンフランシスコ平和条約に調印。サンフランシスコ平和条約は翌年の昭和27年(1952年)4月に発効し、日本はGHQによる占領時代に終わりを迎えた。

大阪市・大阪新聞社・産業経済新聞社は、占領時代の終わりを記念して、昭和27年(1952年)3月20日から5月31日にかけて「講和記念・婦人とこども大博覧会」を開催した。

阪急百貨店は、大阪市などが主催する「講和記念婦人とこども大博覧会」に協賛して、昭和27年(1952年)3月に阪急百貨店7階で「はんきゅう・こどもショー」を開催し、ファミリアは子供服を担当した。

このとき、坂野通夫が西洋のベビー用品を展示する事を提案。アメリカ領事館の好意により、PX(アメリカ軍向け販売店)から西洋のベビー用品一式を借りる事ができたので、はんきゅう・こどもショーに展示した。

当時は一般人が西洋のベビー用品を観る機会がなかったので、坂野通夫のアイデアは大ヒットし、はんきゅう・こどもショーは大成功を収めた。

この子供ショーの成功により、定期的に子供ショーが開催されるようになり、ファミリアの名前は東京まで轟くようになっていく。

ファミリア設立初期の混乱-社長への道

子供服ブランド「ファミリア」は、阪急百貨店に出店したことより、軌道に乗り始めたが、良い事ばかりではなかった。

ファミリアの監査を務めてくれていた田村陽(飯田陽)が、洋反物商「田村駒」の監査に就任したため、ファミリアとの兼任が出来なくなり、ファミリアの監査を辞任する。

さらに、ファミリアの常務取締役を務めてくれた川村商店の川村睦夫が、ファミリアが軌道に乗ったことを受け、自分の店に専念するため、常務取締役を辞任した。

そうした一方で、ファミリアで不正経理事件が発覚。あまりにも売り上げに対して利益が少ないので、調べてみると、ファミリアは信頼していた経理に騙されていた事が判明したのである。

このようななか、初代社長を務めてくれたモトヤ靴店の店主・元田蓮が「皆に推されて名目上の社長になっているが、私には本業のシューズショップという仕事があるので、なにもできないのが心苦しい。このさい、実際にファミリアに打ち込める人が社長になるべきではなかろうか」と言い、辞意を漏らした。

ファミリアの創業者であり、業務全体を把握している坂野惇子が社長に適していたが、坂野惇子は現在の専務取締役だけでも重荷に感じていたので、「会社のトップである社長は男性であるべき」と言い、断固として社長を拒否した。

そこで、坂野通夫・田村寛次郎田村陽(飯田陽)の3人が話し会った結果、たしかに社長は男性が良いという結論に達した。

このとき、田村家の田村駒は、朝鮮戦争に伴う繊維相場の乱高下に巻き込まれて多額の損失を出しており、粉飾決算で銀行から融資を得て、生きながらえているという状況だったため、田村寛次郎も田村陽(飯田陽)もファミリの社長を兼任するのはとうてい不可能であった。

このため、最年少の坂野通夫は、田村寛次郎と田村陽(飯田陽)に懇願される形で、ファミリアの社長に就任する事になった。

さて、社長を引き受けた坂野通夫は、勤務していた佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清に退社を申し出る。

しかし、社長・尾上清は、佐々木営業部(レナウン)は佐々木家からの預かり物と公言しており、ゆくゆくは佐々木営業部(レナウン)を坂野通夫に任せようと思っていたので、何度も坂野通夫を引き留めた。

しかし、坂野通夫は、それを固辞した。意思は堅かった。

社長・尾上清は坂野夫婦を自宅に呼んで何度も説得したが、終いには根負けし、坂野通夫を解雇せず、佐々木営業部(レナウン)からの出向という扱いで、ファミリアへと送り出した。

こうして、坂野通夫は昭和27年(1952年)10月にファミリアの取締役に就任。これを受けて翌年の昭和38年5月にモトヤ靴店の店主・元田蓮はファミリアの社長を辞任した。

しかし、坂野通夫は、ファミリアの事業全体を把握してから社長に就任しようと考えていたので、直ぐには社長に就任しなかった。

坂野通夫が社長に就任するのは、4年後の昭和31年(1956年)5月で、それまでファミリアは社長不在という状況が続くことになる。

なお、モトヤ靴店の店主・元田蓮は、ファミリアの社長を退いた後も、昭和32年(1957年)5月までファミリアの取締役を務め、死去する昭和37年(1962年)7月までファミリアの監査役を務めてくれた。

坂野通夫が坂野惇子に激怒

阪急百貨店で開催した「はんきゅう・こどもショー」の成功を受け、阪急百貨店で定期的に子供ショーが開催されるようになり、昭和28年(1953年)3月に阪急百貨店7階で第3回・子供ショーが開催された。

このとき、坂野惇子と田村光子は、第3回・子供ショーで展示する教育玩具を探すため、愛知県名古屋市を訪れ、明治37年創業の日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)と出会う。

坂野惇子と田村光子は、少しでも悪い物は破棄するという日本陶器の方針に感銘し、その場で子供用の食器2万個を発注して戻ってきた。

いくら坂野惇子らが数字に弱いとは言え、2万個というのはファミリアの規模を考えれば、途方も無い数字だったので、社長に就任して間もない坂野通夫は、激怒して坂野惇子と田村光子を叱りつけた。

しかし、当時は子供用の食器が普及しておらず、子供は大人用の食器を使っていたので、坂野惇子は子供用の食器がいかに大切か力説し、「陶器は腐らない」というので、坂野通夫の方が折れ、日本陶器への発注を承諾。子供用の食器はファミリアを代表する商品の1つとなった。

坂野通夫の生涯-ファミリアの改革

ファミリアの商品は創業当時から一流品だったが、坂野惇子らは数字に弱く、経営についてはド素人だったため、在庫の管理も目測で、毛糸が減ってきて底が見えたら、次を仕入れるという有様だった。

そこで、佐々木営業部(レナウン)で鍛えられた坂野通夫が、帳簿の付け方を指導し、在庫管理など導入して、徹底的にファミリアを改革していった。

そもそも尾上清のレナウン商法が非常に厳しい指導方針だったうえ、坂野通夫が海軍出身だったこともあり、坂野通夫の指導は非常に厳しく、ファミリアの創業メンバーも悲鳴を上げる程だった。

ファミリアの東京出店-社長に就任

ファミリアは長らく社長の座を空白にしていたが、坂野通夫はファミリアの改革を一段落させ、昭和31年(1956年)5年にファミリアの社長に就任した。

ところで、東京・銀座にある東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)はGHQに接収されていたが、昭和31年(1956年)5月に接収が解除されることになった。

東芝の社長・石橋秦三は、銀座の一等地を事務所に使ったのでは、銀座の発展にならないと考えており、接収解除となった数寄屋橋ビル(マツダビル)を貸し出そうと考えていた。

そこで、百貨店の十合(そごう)が東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)を狙っていたが、東芝の社長・石橋秦三は「十合(そごう)に貸すくらいなら、阪急に貸したい」と言い、阪急百貨店の社長・清水雅に出店を要請したのである。

要請を受けた阪急百貨店が数寄屋橋ビル(マツダビル)に数寄屋橋阪急を出店することになったが、借りられるのは地下3階から地上1階までだった。

地上1階だけでは百貨店は出来ないため、阪急百貨店の社長・清水雅は、数寄屋橋阪急を子供服専門店にすることに決めた。

そこで、阪急百貨店の社長・清水雅はファミリアに数寄屋橋阪急への出店を要請し、地上1階の大半をファミリアに任せることにしたのである。

しかし、ファミリアは手間暇を惜しまず良質な商品を手作業で作っていたため、製造が追いつかない状態が続いており、1階の大半という話は丁重に断り、東側の一角を請負い、数寄屋橋阪急への出店し、東京出店を果たした。

ファミリアが皇室御用達ブランドに

昭和38年(1963年)、皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊したさい、高島屋がファミリアの出産用品を献上したことがきっかけで、ファミリアは皇室御用達ブランドとなる。

外貨割当の取得-ベビー用品の輸入

坂野通夫は戦時中に海軍嘱託となり、ジャカルタへ派遣されていたとき、育児に苦労していた妻・坂野惇子の事を思い出し、ジャカルタで西洋式のほ乳瓶などを購入し、日本に居る妻・坂野惇子に送っていた。

これが切っ掛けで、坂野通夫は輸入品に興味を持つようになっており、昭和28年(1953年)頃から、明治屋を経由して輸入販売を開始していた(当時は外貨割当制度という制度があり、勝手に輸入は出来なかった)。

昭和35年(1960年)に消費財の外貨割当が発表されると、坂野通夫は、以前から取り寄せていた海外商品のパンフレットを元に資料を作成して申請し、ファミリアは8万ドルの外貨割り当てを取得する事に成功した。

こうして、ファミリアは直輸入を開始。当時はファミリアは生産が追いついていなかったので、輸入品がファミリアの主力商品となった。

田村駒からの受け入れ

繊維商社「田村駒」は昭和26年(1951年)に大損害を出して以降、粉飾決算で赤字を隠していたが、実際は赤字を膨らませていき、2代目・田村駒治郎は、昭和28年(1953年)にプロ野球団の経営からも完全に撤退。昭和29年(1954年)9月には倒産の危機に陥り、三和銀行に支援を要請した。

これにより、三和銀行の主導で田村駒の経営再建が進められ、支援企業の常盤鋼材・三和銀行・第一物産(三井物産)から田村駒に代表取締役が送り込まれた。

2代目・田村駒治郎は実質的な経営権を失いながらも、田村駒の社長に留まっていたが、社長在任中の昭和36年(1961年)1月21日に死去してしまう。

以降、田村駒は社長は置かず、常盤鋼材・三和銀行・第一物産(三井物産)出身の3人の代表取締役によるトロイカ体制によって田村駒は経営され、田村駒は田村家の手から離れた。

このようななか、昭和37年6月、田村駒の取締役総務部長・一色大二郎が辞任。坂野通夫はファミリア改革のため、田村駒を辞めた一色大二郎をファミリアに迎え入れた。

このころファミリアの創業メンバー村井ミヨ子(中井ミヨ子)らは、未だに「坂野の奥さん」「田村の奥さん」などと呼び合っていたので、愛称で呼び合うことを禁止し、一色大二郎が役職名で呼ぶように指導していった。

さらに、昭和37年7月には、田村駒で監査役を務めていた田村寛次郎と田村陽(飯田陽)も辞任し、ファミリアへと移った。

ファミリアの近代化と店舗展開

昭和39年(1964年)、ファミリアは松方真を生産コンサルタントとしてファミリアに招いた。

松方真は日本の婦人既製服にアメリカ式のサイズを導入し、日本の既製服業界に改革をもたらした人である。

松方真はレナウンの社長・尾上清に招かれてレナウンに在籍していたのだが、ちょうどレナウンを辞めて暇をもてあましていた時期に坂野惇子と出会い、坂野惇子に頼まれてファミリアの生産コンサルタントを引き受けたのだ。

松方真によって、ファミリアにアメリカ式の生産体制が導入されることになるが、ファミリア生産部門の責任者・田村光子は「画一的で潤いの無い商品が増えてしまう」として、アメリカ式の生産体制を良しとはせず、ファミリアの良さを生かしつつ、アメリカ式の良いところだけを導入した。

当初は1ヶ月の約束だったが、田村光子の要請もあり、松方真は1年間もファミリアに在籍してくれ、ファミリアの量産化に尽力してくれた。

こうしてファミリアに量産体制が整い、以降、ファミリは全国へと出店し、さらにはハワイへと出店し、世界進出を果たした。

三菱銀行神戸支店の取得と本社移転

父・坂野兼通が三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)と山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)で活躍していた関係で、三菱銀行と三和銀行がファミリアのメーンバンクを引き受けてくれ、色々と助力してくれていた。

そして、昭和46年(1971年)4月に三菱信託銀行ビルの8階フロアを借りる事ができ、ファミリは三菱信託銀行ビルの8階へと本社機能を移した。

さらに、昭和49年11月には三菱信託銀行ビルの7階全フロアを借り受ける事ができ、製造部門「岡本研究所」の主要メンバーを呼び寄せ、生産企画から製造企画までを管理するデザインチームを作り、一元管理体制が整った。

また、また昭和52年には、三菱銀行神戸支店を譲り受けることが出来た。

三菱銀行神戸支店は明治33年(1900年)に建てられた石造りのモダン建築で、父・坂野兼通が三菱合資銀行部大阪支店長時代に、三菱銀行神戸支店の開設に尽力しており、三菱銀行神戸支店の礎石には父・坂野兼通の名前が刻まれていた。

三菱銀行神戸支店は後に「ファミリアホール」となり、音楽ホールや絵画展として使用された。また、三菱銀行神戸支店の道路沿いにスヌーピーの銅像が設置され、ファミリアの顔となった。

なお、ファミリアは老朽化などを理由に、平成18年(2016年)にファミリアホール(三菱銀行神戸支店)を大手デベロッパーに売却した。そのとき、スヌーピーの銅像もファミリア本社に移された。

華麗なる一族・岡崎晴彦の入社

坂野通夫の1人娘・坂野光子は昭和42年3月4日に、「華麗なる一族」として有名な岡崎財閥の岡崎晴彦と結婚した(ただし、財閥解体により岡崎財閥は解体している)。

岡崎晴彦は三和銀行を経て、父・岡崎忠が会長を務める東京計器制作所で働いていた。このとき、アメリカのスベリーランド社が東京計器制作所に岡崎晴彦の出向を要請してきた。

しかし、岡崎晴彦は子供が生まれて間もなかったため、晴彦の父・岡崎忠が生まれたばかりの子供を連れてアメリカへ渡ることに難色を示した。

すると、岡崎晴彦は、坂野光子の実家が経営する子供服ブランド「ファミリア」に興味をもっていたので、スベリーランド社の出向要請を断るのであれば、これを機に東京計器制作所を辞めてファミリアで働きたい、と言いだした。

坂野通夫は「身内は入れない」と公言していたので、冗談だと思って相手にしなかったのだが、岡崎晴彦は本気だった。

岡崎晴彦は、坂野通夫が尊敬している阪急百貨店の清水雅とレナウンの尾上清にファミリア入社を相談しており、清水雅と尾上清が岡崎晴彦のファミリア入社に賛成したのである。

このため、坂野通夫は、尊敬する清水雅と尾上清から「有能な人材を身内だからという理由で入社させないのは背任行為だ」と言われてしまい、方針を撤回して、岡崎晴彦をファミリアに入社させた。

こうして、岡崎晴彦は昭和46年(1971年)7月にファミリアに課長として籍を置き、ファミリアの子会社ベビークローの役員に就任した。

岡崎晴彦はベビークロー社で活躍し、昭和51年(1976年)9月に東京銀座に銀座ファミリアを出店すると、取締役店長に就任した。

ファミリの社長から会長へ退く

昭和60年(1985年)、坂野通夫はファミリア設立35周年を機に、社長を岡崎晴彦に譲って代表取締役会長へと退いた。これにともない、妻・坂野惇子も副会長へと退いた。

坂野通夫の洗礼と死去

平成4年(1992年)4月、妻・坂野惇子が心筋梗塞で倒れ、入院した。坂野通夫は兄弟を立て続けに4人亡くしていたので、非常に落ち込んでおり、妻・坂野惇子と同じ病院へ検査入院した。

坂野惇子は危篤状態だったが、奇跡的に回復した。キリスト教を信仰していたものの、洗礼は受けていなかった坂野惇子は、神の奇跡に感謝し、キリスト教の洗礼を受けた。

すると、坂野通夫も、坂野惇子が奇跡的に助かったことに感謝し、キリスト教の洗礼を受けた。

これを境に坂野惇子は回復していき、少し歩けるようにまで回復したが、5月に部屋で足を滑らせて転倒してしまう。

坂野惇子は、大腿部骨折で、寝たきりになるかもしれないと診断されたが、娘・坂野光子(岡崎光子)らの祈りが通じたのか、その後、骨盤骨折と判明し、リハビリをすれば歩けるようになると診断された。

平成4年(1992年)5月の後半になると、坂野惇子の様態もよくなったので、坂野通夫と坂野惇子は5月21日に孫・坂野忠彦の運転でドライブを楽しみ、六甲山へも立ち寄り、ステーキなどを食べて、久しぶりの団欒を楽しんだ。

しかし、坂野通夫は無理が祟ったのか、翌日の5月22日は病室で寝ており、坂野惇子の部屋にも顔を出さなかった。坂野通夫が坂野惇子の病室へ来なかったのは初めての事だった。

その翌日の5月23日の早朝になって坂野通夫は苦しみ出し、その後、昏睡状態に入り、翌月の平成4年(1992年)6月2日、家族に見守れながら、息を引き取った。享年77だった。

私生活と性格

父・坂野兼通は非常に几帳面な性格で、何事も帳面につけており、遺言を書き終えた直後に病気にかかって、その月に死去した。このため、坂野通夫は、「身辺整理をすると死ぬかもしれない」と思い、整理はしなかった。

坂野通夫は多趣味で、なかでもカメラの趣味は有名だった。貴重な写真を数多く撮影し、撮影した写真は必ず相手に送り、関係者から大変喜ばれた。写真を発送する専門の秘書が居るほどで、写真はアルバム5000冊にも及んだ。

坂野姓の継承

坂野通夫と坂野惇子の間に生まれたのは、長女・坂野光子だけで、坂野光子が岡崎財閥の岡崎晴彦と結婚して岡崎姓なったため、坂野姓を継ぐ者が居なかった。

しかし、坂野通夫と坂野惇子が坂野姓を残す事を強く望んでいたので、坂野光子と岡崎晴彦の間に生まれた次男・岡崎雅(坂野雅)が願いを叶えてくれ、養子となって坂野姓を継いでくれた。

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