坂野惇子の夫・坂野通夫の立志伝

皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子の夫で、ファミリアの2代目社長を務めた坂野通夫の立志伝です。

坂野通夫の立志伝

坂野通夫坂野通夫(ばんの・みちお)は、士族・坂野兼通の末息子(7男2女)として、大正5年(1916年)9月30日に兵庫県芦屋市で生まれた。

父・坂野兼通は尾張藩の出身で、三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)大阪支店で活躍。その後、山口財閥の山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)へと移り、山口財閥の大番頭として活躍し、大阪銀行界の重鎮として君臨した銀行家である。

父・坂野兼通は、士族の出て非常に厳格な父親だったが、坂野通夫は末息子と言う事もあり、イタズラばかりしてガキ大将として育った。

坂野通夫は、御影師範附属小学校を卒業後、甲南高校中等部へと進学。中学2年生の時に父・坂野兼通が死去し、以降は21歳上の長兄・坂野信夫(三菱銀行の取締役/キリンビールの常任監査)に育てられた。

坂野惇子と出会う

坂野通夫は、甲南高校中等部を卒業して甲南高校へと進み、甲南高校1年生の冬に、甲南女学校4年生の坂野惇子(佐々木惇子)と出会う。

坂野通夫は昭和10年(1935年)2月に神鍋スキー場へスキーに行った。その帰りのバス(トラック)の中で、佐々木惇子(坂野惇子)のリュックサックの紐が解けていたので結んであげた。

これが妻・佐々木惇子(坂野惇子)との出会いで、リュックサックの紐が運命の赤い糸となり、2人は交際を重ねていった。

坂野惇子と婚約・結婚

坂野通夫は甲南高校を卒業後、京都帝国大学へと進学したが、卒業後は兵隊に取られる時代だったので、勉強はせず、大学生活を自由に過ごした。

さて、戦時中は、卒業・就職・結婚がワンセットになっていたので、坂野通夫は卒業を控えた昭和14年(1939年)に佐々木惇子(坂野惇子)と婚約した。

坂野通夫は、昭和15年(1940年)4月に京都帝国大学経済学部を卒業すると、海外勤務を希望して同年4月に大阪商船(商船三井)に入社した。

そして、翌月の昭和15年5月に佐々木惇子(坂野惇子)と結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えた。

坂野光子の誕生と戦争

坂野通夫は、中学時代に肺膜炎を煩っており、徴兵検査で肺に影が出たため、乙種となり、ひとまず、兵役を免れ、幸せな結婚生活を送り、昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子(ばんのてるこ)が生まれた。

しかし、戦況の悪化に伴い、乙種の坂野通夫も徴兵され、昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託となり、インドネシアの首都・ジャカルタへと派遣された。

坂野通夫は、ジャカルタ海軍武官府の輸送課に配属され、人員や物資の輸送などを担当し、やがて、ジャカルタで終戦を迎えた。

終戦後、坂野通夫はジャカルタで抑留生活を送っていたが、英語が出来たため、イギリス海軍の命令で、引き揚げ船の連絡将校として半年間従事する。

そして、終戦の翌年の昭和21年(1946年)4月に大阪商船(商船三井)の「すみれ丸」で帰国し、妻・坂野惇子と無事に再会した。

佐々木営業部へ転職

義父(妻の父)・佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は江商に吸収合併されて消滅していたが、戦後、尾上清が佐々木八十八に頼まれ、佐々木営業部(レナウン)の製造部門「東京編織(レナウン・メリヤス工業)」を再開させていた。

ジャカルタから帰国した坂野通夫は、就職していた大阪商船(商船三井)へと復帰したが、大阪商船は戦争で多くの船を失っており、希望していた海外勤務は絶望的だった。

そこで、坂野通夫は、義父・佐々木八十八と尾上清の勧めを受け、尾上清が再開させた東京編織(レナウン・メリヤス工業)へと転職する。

その後、尾上清が江商から佐々木営業部(レナウン)を独立させると、坂野通夫も佐々木営業部(レナウン)へと移った。

ファミリアへ入社

戦後、妻・坂野惇子が田村江つ子(榎並江つ子)田村光子を誘って子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を創業した。

妻・坂野惇子は、創業から1年後にベビーショップ・モトヤを会社組織へ改組し、株式会社ファミリアを設立して、ファミリアとして創業を開始する。

ところが、ファミリア設立直後に、役員の異動や不正会計事件が起り、ファミリアの初代社長・元田蓮が辞意を漏らした。

この辞意を受けて次期社長についての話し合いが行われた。坂野通夫は、創業メンバーの夫・田村寛次郎田村陽(飯田陽)から懇願される形でファミリアの社長を引き受け、佐々木営業部からの出向と言う形でファミリアの取締役に就任した。

しかし、坂野通夫はファミリアの全体を把握してから社長に就こうと考えていたので、初代社長・元田蓮が社長を辞任後も、取締役のままファミリアの改革を行った。

ファミリアの東京進出

ファミリアは阪急百貨店の社長・清水雅に見出され、阪急百貨店に直営店「阪急ファミリアグループ」を出店。ファミリアは阪急百貨店の予想を大きく上回る販売を見せ、阪急百貨店で台頭した。

さらに、ファミリアは阪急百貨店で開催した子供ショーを大成功させ、その名を関東にまで轟かせていった。

昭和29年(1954年)4月には、高島屋の要請により、ファミリアは高島屋東京で子供服展を大成功させ、さらに同年10月には伊勢丹で子供服展を開催し、大成功させた。

これにより、東京でファミリア出店を望む声も大きくなってきた。

社長就任と東京出店

坂野通夫は取締役のままファミリアの改革を続けており、長らく社長不在が続いたが、会社として一通りの体裁が整ったので、昭和31年(1956年)5月にファミリアの2代目社長に就任する。

その直後、阪急百貨店が東京銀座のマツダビルに、数寄屋橋阪急を出店することになり、ファミリアは阪急百貨店から出店を要請された。

1階フロアの大半を任せたいという要請だったが、ファミリアは製造が追いついていなかったので、丁重に断り、東側の一角を引き受け、東京店を出店を果たした。

ファミリアが皇室御用達に

昭和38年(1963年)、皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊し、高島屋がファミリアの出産用品を献上した。これがきっかけで、ファミリアは皇室御用達ブランドとなった。

岡崎晴彦に社長を譲る

昭和60年(1985年)、坂野通夫はファミリアの2代目社長として奔走してきたが、ファミリア設立35周年を機に、社長を娘婿・岡崎晴彦に譲って代表取締役会長へと退いた。これにともない、妻・坂野惇子も副会長へと退いた。

洗礼と死去

平成4年(1992年)4月、妻・坂野惇子(佐々木惇子)が心筋梗塞で倒れ、入院した。坂野通夫は兄弟を立て続けに4人亡くしていたので、非常に落ち込んでおり、妻・坂野惇子と同じ病院へ検査入院する。

その後、妻・坂野惇子は奇跡的に回復したんで、神の奇跡に感謝してキリスト教の洗礼を受けた。坂野通夫も神に感謝し、キリスト教の洗礼を受けた。

坂野惇子は次第に回復し、平成4年(1992年)5月12日に52回目の結婚記念日を祝った。

そして、入院していた坂野通夫と坂野惇子は、5月21日に外出許可を得て、孫・坂野忠彦の運転でドライブやゴルフを楽しんだ。

ところが、坂野通夫は、翌日の5月22日は自分の病室で寝たままで、坂野惇子の病室にも顔を出さなかった。坂野通夫が坂野惇子の病室へ来なかったのは初めての事だった。

その翌日の5月23日の早朝になって坂野通夫は苦しみ出し、その後、昏睡状態に入り、翌月の平成4年(1992年)6月2日、家族に見守れながら、息を引き取った。享年77だった。

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