坂野惇子が長女・坂野光子を出産

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く立志伝「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第6話「坂野惇子が長女・坂野光子を出産」です。

このページは第6話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

長女・坂野光子を出産する

昭和15年(1940年)5月に坂野通夫と結婚した坂野惇子は、昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子(ばんの-てるこ)を出産した。

日本は、長女・坂野光子が生まれる前年の昭和16年(1941年)12月8日未明に真珠湾攻撃を行い、第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入しており、ますます厳しい時代を迎えていた。

こうした、あんたんとした時代に生まれた長女・坂野光子は、坂野惇子・坂野通夫にとって、まさに希望の光であった。

さて、坂野惇子は神戸の外国人村に住んでいたので、いつも外国人の可愛い子供達を見ており、外国人のママから「日本は良い国ですが、育児はたいへん遅れていますね」と言われていたので、西洋式の育児に興味を持っていた。

そこで、長女・坂野光子を出産した坂野惇子は、イギリス人のオーツ夫人の紹介で、外国人専門のベビーナース・大ヶ瀬久子に来てもらうことにした。

ベビーナースとは、育児専門の看護婦のことで、外国人専門の病院に属して、3ヶ月単位で外交官や外国人家庭の育児指導を受け持っていた。

ベビーナースは外国では権威のある職業で、京都帝国大学を出た夫・坂野通夫の初任給が90円という時代に、ベビーナース大ヶ瀬久子への謝礼は150円と高額であった。

しかも、外国ではベビーナースは育児の先生ということで上座に置かれていたので、坂野惇子は外国の風習にならい、ベビーナース大ヶ瀬久子を上座に置き、お客様(先生)として扱った。

父・佐々木八十八も母・佐々木倆子(雲川倆子)も西洋文化好きだったが、流石に西洋式の育児には困惑した。特に父・佐々木八十八は健康や怪我には異常なまでに神経質だったので、そうとう困惑したようだ。

しかし、ベビーナース大ヶ瀬久子の育児法は、1つ1つが医学や心理学的に裏付けされており、全て赤ちゃんの事が考えられて合理的だったので、主治医がベビーナース大ヶ瀬久子の育児理論に感心すると、父・佐々木八十八も母・佐々木倆子(雲川倆子)も、すっかりとベビーナース大ヶ瀬久子に敬服するようになってしまった。

これが縁で、坂野惇子の兄嫁・佐々木日佐子(小笠原日佐子)が三男を出産したさい、ベビーナース大ヶ瀬久子に頼んで1年間、育児指導を頼んでいる。

そして、この時に坂野惇子(佐々木惇子)がベビーナース大ヶ瀬久子から学んだ西洋式育児法が、後に創業する子供服ブランド「ファミリア」の基礎になる。

榎並枝津子(榎並江つ子)と中井ミヨ子

一方、甲南高等女学校(甲南女子大学)時代からの親友・榎並枝津子(榎並江つ子)は、坂野惇子が坂野通夫と結婚したのと同じ昭和15年に、洋反物問屋「田村駒」を創業した田村駒治郎の次男・田村寛次郎と結婚して、田村枝津子(田村江つ子)となっていた。

そして、坂野惇子(佐々木惇子)が出産したころ、親友・田村枝津子(田村江つ子)も出産して、ベビーナース下岡仲子から育児指導を受けていた。

他方、結婚後に知り合った中井ミヨ子は、少し遅れて、昭和19年(1944年)になり、大阪・船場の旧家・村井の村井完一との縁談が持ち上がる。

中井ミヨ子は、「まだ結婚はしたくない。ましてや、村井のおじさんだけは絶対に嫌」と結婚を拒否したが、父・中井栄三郎に「嫌なら、いつでも戻ってきてもいい」と諭され、村井完一と結婚して、村井ミヨ子となっていた。

こうして、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・村井ミヨ子は、結婚してそれぞれの家庭を持ち、戦争という暗い時代を懸命に生き抜いていくのであった。第7話へ続く。

お手数ですが、第7話は目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

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