ベルトラメリ能子(よしこ)の立志伝

朝ドラ「エール」のモデルとなった古関金子の師匠だった声楽家ベルトラメリ能子(よしこ)の立志伝です。

ベルトラメリ能子の立志伝

ベルトラメリ能子ベルトラメリ能子(本名は鉄能子)は明治36年(1903年)4月1日に茨城県多賀郡大津町(北茨城市)で、鉄信夫の長女として生まれた。母は鉄コンである。

実家の鉄家は水産業や缶詰製造業を営んでおり、祖父の鉄伝七は茨城県議員や議長を務めたどほの名家で、当時では珍しい蒸気機関船を使って遠洋漁業を行い、茨城県の水産業界に貢献した。

しかし、日露戦争の後、鉄家は水産業の権利を水産会社に売却し、一家で東京へと引っ越した。ベルトラメリ能子が小学3年生の事である。

その後、ベルトラメリ能子は東京音楽学校へ入学し、卒業後は東京女子音楽園で音楽を学んだ。

東京女子音楽園を卒業すると、東京の高輪尋常小学校で教鞭を執る一方で、イタリアのテノール歌手アドルフォ・サルコリに師事してベルカント唱法を学んだ。

後にオペラ歌手として活躍する三浦環や関屋敏子もアドルフォ・サルコリに師事しており、三浦環は姉弟子、関屋敏子は妹弟子にあたる。

また、ベルトラメリ能子は、アメリカ人のパーカー女史や山田耕筰にも師事して、音楽を学んだ。

さて、ベルトラメリ能子は師匠アドルフォ・サルコリに才能を認められ、イタリア留学を勧められたので、大正11年(1922年)7月にイタリア留学へと旅立った。

ベルトラメリ能子はイタリアで各分野の専門家に師事して音楽を学んでいたが、イタリアの文豪アントニオ・ベルトラメリと恋に落ち、昭和2年(1927年)に結婚し、歌手活動を止めて夫に尽くした。

しかし、幸せは長くは続かず、昭和5年に夫アントニオ・ベルトラメリが死去してしまう。アントニオ・ベルトラメリは51歳だった。

ベルトラメリ能子は音楽家として再起を図るため、昭和6年3月に帰国し、東京の日比谷公会堂で日本デビューを果たした。28歳のことである。

その後、ベルトラメリ能子はレコード会社「日本コロムビア」に所属し、日本国内・朝鮮半島・満州で独奏会を開き、昭和7年に渡欧し、イタリアの各地で歌手活動を行った。

昭和10年4月に帰国し、東京の日比谷公会堂での独奏会を皮切りに、日本各地で後援会を開いた。

作詞家・古関裕而の妻・古関金子がベルトラメリ能子に師事してというのは、この頃のことだろう。

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戦後

戦後、ベルトラメリ能子は鎌倉に住み、ベルカント研究所を設立して、弟子の育成に励み、ベルカント唱法に関する研究発表を行い、ベルカント唱法の普及に励んだ。

昭和25年からNHK毎日音楽コンクール声楽部門の審査員を務め、昭和30年に日伊音楽協会の理事に就任。昭和34年からは、国立音楽学校に請われて教鞭に立ち、後進の育成に励んだ。

しかし、ベルトラメリ能子は、昭和48年(1973年)8月3日に死去した。70歳だった。

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