大工原章(だいくはら・あきら)の立志伝

朝ドラ「なつぞら」の井戸原昇(小手伸也)のモデルとなった伝説のアニメーター大工原章(だいくはら・あきら)の立志伝です。

大工原章の立志伝

大工原章大工原章は大正6年(1917年)11月23日に長野県佐久群栄村東町で7人兄弟の末っ子として生まれた。実家は旅館兼小料理屋を営んでいた。

大工原章は、外で遊ぶよりも家で絵を描くのが好な子供だった。兄弟が相次いで若くして結核で死んでいたことから、自分も長くは生きられないだろうと考え、将来は絵描きになろうと思い、旧制中学校を卒業すると、ペンキ屋に就職したが、職場に馴染めず、東京の親戚を頼って上京した。

その直後、召集令状を受けて、松本50連隊に歩兵として入隊して、韓国を経て上海へと渡ったが、上海のクリーク(川)で水泳をしていて結核に感染したため、上海の病院に入院した後、日本に返された。

その後、大工原章は3度の招集を受けるが、兵役検査で不合格ととなり、東京に嫁いだ姉の元へと身を寄せた。

漫画映画(アニメ)の世界へ

そのようななか、新聞で、芦田巌(鈴木宏昌)の「鈴木宏昌漫画映画研究所」の求人を見かける。

大工原章は、挿絵や油絵を学んでおり、漫画では近藤日出造や清水崑に憧れていたが、漫画映画(アニメ)は興味が無く、見たこともなかった。

しかし、「鈴木宏昌漫画映画研究所」へ行ってみると、芦田巌(鈴木宏昌)がいい人で、漫画映画(アニメ)は面白そうな仕事だったことから、「鈴木宏昌漫画映画研究所」で働くことにした。

このころは、原画や背景などとパートが別れていないので、全部、自分でやらなければならず、大工原章は撮影も自分でこなした。

しばらくすると、芦田巌(鈴木宏昌)が招集されたので、山本善次郎(山本早苗)に誘われて、大工原章は芦田巌(鈴木宏昌)らとともに、海軍省教育局の教材映画研究所でパイロット指導用の線画などを制作し、ここで終戦を迎えた。

戦後

戦後、アニメーターの山本善次郎(山本早苗)・政岡憲三・村田安司らが「新日本動画社(日本漫画映画社)」を設立。大工原章も「新日本動画社」の設立に加わった。

昭和22年(1927年)、「日本漫画映画社」の中心的存在だった山本善次郎(山本早苗)・政岡憲三が「日本漫画映画社」を退社して、「日本動画」を設立する、

大工原章は背景から撮影まで器用にこなしていたので、政岡憲三らから誘われたが、「日本漫画映画社」に残った。

昭和23年(1948年)、大工原章は「日本漫画映画社」で色彩を担当していた同僚・井上三千代と結婚した。

その後、会社の経営が悪化して給料が出なくなったが、挿絵の仕事もしていたので、食うには困らなかった。

ところが、取引先の出版社が倒産し、大工原章は60万円の手形が紙くずになってしまう。当時は60万円あれば、家一軒が建ったので、関係者の間では、大工原章が悲観して死んだという噂まで流れたという。

すると、山本善次郎(山本早苗)が見かねて「日本動画(日動)」へ誘ってくれたので、大工原章は、いやいやながら「日本動画」に入社した。

そして、「日本動画」へ入社したころ、結核が悪化し、大工原章は死を覚悟したが、新薬「ストレプトマイシン」が登場したので、結核が治った。

アニメーターに転身

大工原章は「日本動画」でも背景を描いていたが、政岡憲三からアニメーションをやってみろと言われて描いてみたら、下手だと言われてしまった。

そこで、大工原章は本格的にアニメーションを開始し、昭和29年(1954年)公開の「とらちゃんの冒険」で、おそらく日本初の作画監督を務めた。

そして、昭和29年(1954年)公開の「かっぱ川太郎」での背景協力を最後に、大工原章は原画を担当してアニメーターとしてに道を進んだ。

また、この「日本動画」時代に、演出家・藪下泰司やアニメーター森康二と出会った。

東映動画へ入社

昭和31年(1956年)、東映が「東洋のディズニー」を目指して、「日本動画社」を買収して、「東映動画(東映アニメーション)」が発足した。

大工原章は、これにともなって「東映動画」に入社し、アニメ「こねこのらくがき」「ハヌマンの新しい冒険」で原画を担当した後、日本初の長編フルカラーアニメーション「白蛇伝」で原画を担当した。

このとき、原画を担当できたのは大工原章と森康二の2人だけだったため、大工原章と森康二を補佐する「第2原画(セカンド)」というポジションが考案された。

そして、中村和子大塚康生・坂本雄作・紺野修司・喜多真佐武・寺千賀雄(勝井千賀雄)の6人が第2原画に抜擢され、大工原章と森康二をサポートした。

そして、森康二はかわいい動物を得意とし、大工原章は色っぽいシーンやアクションシーンをを得意としていたので、キャラクターを分けあってお互いに得意分野を担当した。

こうして、大工原章と森康二の2人は、若手を育成しながら大量の原画を描き上げ、たった2人の原画で、長編フルカラーアニメーション「白蛇伝」を制作するという快挙を成し遂げたのである。

大工原章は、背景も描いていたので、アニメーターを指導するだけでなく、美術まで指導していた。

なお、森康二は人に任せず、細部まで自分で手を入れ、妥協しなかったため、仕事が遅かったのに対し、大工原章は出来る人には仕事を任せ、どんどんOKを出したので、会社から重宝がられるようになった。

手塚治虫の「わんわん忠臣蔵」

大工原章は、長編アニメ第2弾「少年猿飛佐助」で原画を担当したが、演出家・藪下泰司に色々と意見を言っていたら、クレジットの演出にも名前が記されていた。大工原章は共同演出になっている事を知らず、映画が出来てから知って驚いたという。

その後も、「西遊記」「安寿と厨子王丸」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」で原画を手がけ、昭和38年(1963年)の「わんわん忠臣蔵」で画作監督を務めた。

「わんわん忠臣蔵」は、手塚治虫の構成・原案で、手塚治虫が絵コンテを描いたが、大工原章はディズニー風の手塚治虫のデザインに抵抗を感じて反発し、手塚治虫のエッセンスだけを残して、絵を直した。

このため、手塚治虫の構成・原案を担当したが、手塚治虫のアイデアは、ほとんど採用されてなかった。

大工原章は、このときのことを「手塚さんってね、どうもディズニーを真似するような感じがしたからね。僕は真似が嫌いでね。何か新しいものを作ろうって、才能もないのに、そういうことを考えるからいけないんですよ。あれは、僕が間違ってたの。手塚さんごめんなさいっていう感じだけど」と回想している。

晩年

日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」によるTVアニメ時代の到来や、東映動画の動労紛争などの影響で、森康二・宮崎駿・高畑勲・奥山玲子など、多くのアニメーターが東映動画を去って行った。

しかし、大工原章は体が弱かったため、移籍は契約などで体が負担にがかかると考え、東映動画に残り、以降は作品ごとに異なるスタイルで数々のアニメを手がけ、東映動画を支えた。

そして、昭和54年(1979年)に「東映動画」のアニメーター養成講座の昼間部で主任指導員を努め、昭和55年(1980年)に東映資本の作画スタジオ「スタジオ・カーペンター」が設立されると、「スタジオ・カーペンター」の代表に就任し、新人を指導した。

「スタジオ・カーペンター」というのは、大工原章が「大工さん」と呼ばれていたので、「大工」を英語にして「カーペンター」と名付けたものである。

しかし、大工原章は、「自分は会社の経営には向いていない。年金暮らしの方がマシだ」として、昭和57年(1982年)に東映動画と「スタジオ・カーペンター」を退職してフリーとなり、挿絵を手がけたり、個展を開いたりしていた。

そして、2008年に介護施設に入所していたが、2012年に肺炎にかかって入院し、2012年6月7日に肺炎と老衰で死去した。

大工原章の備考

  1. 性格は非常に温厚だった。アニメーターではなかったため、アニメーターの意見を聞いてアニメーターの意見を取り入れ、数多くのアニメーターに慕われた。
  2. 非常に恥ずかしがり屋な性格で、見学が来ると手で覆うって絵を描いた。
  3. 本職はアニメーターという気質ではなく、気に入れば雑誌の仕事でも何でもやった。
  4. 集団で話したりするのが苦手だったので、労働組合の活動には参加せず、森康二と一緒に労働組合から逃げていた。
  5. アニメーションは教えることは出来るが、人を集めて抗議するのは苦手だった。

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