「遠藤お直」の立志伝

島根県の民謡「安来節」の名人として活躍した初代「遠藤お直(えんどう・おなお)」の立志伝です。

「遠藤お直」の生涯

初代「遠藤お直」(本名は遠藤ナカ)は、明治20年(1887年)11月17日に島根県能義郡赤江村(島根県安来市赤江)で、農業を営む父・利左衛門の娘として生まれた。母は「みの」である。母「みの」は美声であったという。

「遠藤お直」は、16歳のころから、安来市赤江にある生和製糸で女工として働いた。既に安来節を歌っており、その声量は誰よりも優れ、300メートルから400メートル先にも届いたという。

さて、明治38年には「渡部お糸」の安来節を聴いた文部省の役人が安来節を絶賛、明治43年には画家・横山大観が「渡部お糸」の安来節を聞いて感嘆し、正調・安来節の保存を推奨した。

このため、明治44年(1911年)に正調安来節保存会が設立され、安来節の第一人者である「渡部お糸」が一座を持つ事になった。

「遠藤お直」は、両親や親戚から芸能界入りを反対されたが、明治44年頃に「渡部お糸」に懇願されて「渡部お糸」の一座に加わり、「吉儀お品」「大野浅野」とともに「仁輪加」に出演し、盛況を得る。

以降は「渡部お糸一座」の一員として活動し、大正元年(明治45年)に島根県の安来で開催された「大日本共産博覧会」の舞台に出演した。

「渡部お糸一座」は、松江の楽器商・園山清次郎の尽力により、大正5年に東京進出を果たし、以降は全国を巡業して、大正時代に全国的な安来節ブームを起こした。

その後、「遠藤お直」は、「渡部お糸一座」から独立して、東京・浅草の玉木座の専属となり、客に好まれるように、尺八や太鼓を入れるなどして試行錯誤して、甲高い声で歌い始め、こぶしを利かせた「お直節」を完成させた。

その後、吉本興行部(吉本興業)の吉本せい(林せい)に招かれて吉本興行部(吉本興業)の専属となり、横浜花月や大阪の寄席に出演し、落語不況に苦しんでいた吉本興行部(吉本興業)を救った。

「遠藤お直」は、昭和23年に文化功労者として島根県知事の表彰を受け、昭和25年に安来節名人に選ばれた。昭和45年に二代目「遠藤お直」を鐘築久仁子に襲名させ、昭和48年11月11日に死去した。

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