ファミリアの坂野惇子が阪急百貨店に激怒した理由

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第24話「ファミリアの坂野惇子が阪急百貨店に激怒した理由」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

坂野惇子が阪急百貨店に激怒して契約破棄

阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦が「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」と好条件を提示したが、ファミリアの坂野惇子田村光子は、ファミリアのネームでなければ売らないと言い、交渉は難航した。

そこで、阪急百貨店の部長・鳥居正一郎が、ファミリアという名前を入れた「阪急ファミリアグループ」という名前を提示してくれたので、ファミリアは「阪急ファミリアグループ」というネームで阪急百貨店に商品を販売することになった。

ところが、すんなりと取引開始というわけにはいかなかった。

ファミリアの坂野惇子が、納期直前に打ち合わせを兼ねて、阪急百貨店の売り場を下見に行った時の事である。

ちょうど、季節は冬の終わりだったので、阪急百貨店では、売れ残った子供用のフェルト帽を返品する作業が行われていた。

阪急百貨店の店員は、柔らかいフェルト帽の形が崩れるのも気にせず、売れ残ったフェルト帽をいくつも重ねて、紐でひとくくりにして、無造作に段ボールに入れていた。

「残った商品があんな風に扱われるのなら、やっぱり阪急さんとの取引は止めさせて頂きます」

阪急百貨店の返品作業を目撃した坂野惇子は、自分たちが丹精を込めて作った商品が雑に扱われる事を懸念し、取引を中止すると言いだしたのである。

阪急百貨店の部長・鳥居正一郎が驚いて説得すると、坂野惇子は「どうしても売れというのなら、自分たちの手で扱わせてくださいませんか。そして、神戸の店と同じように自分たちの手で販売させてください」と頼んだ。

すると、部長・鳥居正一郎は呆れながらも諭すように、「それなら、委託扱しか方法ありませんよ」と言い、委託販売が不利になることを教えた。

委託販売とオンワード樫山の社長・樫山純三

現在は「ショップ・イン・ショップ」形式が主流で委託販売が一般的だが、委託販売は昭和20年代にオンワード樫山の社長・樫山純三が考案した販売方法で、このとき、ほとんど普及していなかった。

実は百貨店の買い取り契約は契約上は好条件でも、百貨店は優越的な地位を利用して、さも当然の権利の如く、売れ残った商品を問屋に返品していた。

この返品は違法なのだが、問屋は百貨店との取引を継続するために、返品を受け入れざるを得なかった。

問屋からすれば、一度は売ったはずなのに、売れ残ると返品を強要されるため、売ったのか、売っていないのか分からない状態で、経営の大きな不安要素であった。

特に衣類などは、シーズンオフになってから返品されても、商品価値は無くなっているため、この百貨店の返品問題は極めて重大であり、問屋は百貨店に激怒していた。

関西の百貨店で特に返品が多くて有名なのが阪急百貨店だったため、問屋の阪急百貨店への恨み節は相当なものであった。

こうした百貨店の返品問題を解決するために、オンワード樫山の社長・樫山純三が考案したのが、委託販売なのである。

しかし、返品問題があっても買い取り契約の方が有利だと考えられていたので、委託販売は普及して居らず、委託販売が普及するのはもう少し後のことである。

ファミリアが阪急百貨店に直営店を出店へ

さて、ファミリアと阪急百貨店の取引は社長・清水雅からの直々の命令なので、阪急百貨店はかなりの好条件を提示していたが、委託販売になれば、阪急百貨店が好条件で商品を買い取るという条件が白紙に戻る事になる。

阪急百貨店の部長・鳥居正一郎は、ファミリアの坂野惇子に、委託販売になれば不利なることを教え、考え直すように諭した。

しかし、自分たちが作った商品を愛している坂野惇子は、あくまでも、自分たちが作った商品を乱暴に扱われる事を懸念して、自分たちの手で売る事ができる委託販売を希望した。

阪急百貨店の部長・鳥居正一郎は、いくら商売の素人とは言え、わざわざ好条件を破棄して、不利な委託販売を選ぶ、坂野惇子に呆れた。変わった人だと思いながらも、坂野惇子が希望する委託販売を承諾した。

こうして、当初はファミリアが阪急百貨店に商品を販売するという契約が破棄され、ファミリアが阪急百貨店に直営店を出店することになった。

こうして、坂野惇子のファミリアは、創業から1年後の昭和26年(1951年)4月16日に、阪急百貨店にショーケース2台の直営店「阪急ファミリアグループ」を出店した。

ところで、阪急百貨店の社長・清水清は、民間放送局の創業に関わっており、昭和25年(1950年)に新日本放送株式会社(後の毎日放送)を設立。昭和26年(1951年)9月1日から阪急ビル西館の屋上でラジオ放送を開始する。

そして、新日本放送(毎日放送)は昭和26年(1951年)12月より、阪急百貨店の単独提供で「阪急水戸黄門」の放送を開始するのであった。

坂野惇子の立志伝の第25話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。

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