坂野惇子の立志伝

皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」を創業者した坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く財界立志伝です。

坂野惇子の立志伝

「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」

阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦は、創業して間もないファミリアに取引を申し込み、破格の好条件を提示してます。

「ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら遠慮します」

しかし、ファミリアの坂野惇子(佐々木惇子)は、阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦の申し出を断ってしまいます。

同席していた夫・坂野通夫は余りの驚きに言葉を失ってしまいますが、坂野惇子(佐々木惇子)は父・佐々木八十八の「商標を大事にしなさい」という言葉を胸にして凜としていました。

父・佐々木八十八の思い出

佐々木惇子(坂野惇子)は、大正7年(1918年)4月11日に、兵庫県神戸市住吉で佐々木八十八(ささき・やそはち)の3女(末娘)として生まれました。

佐々木家は、近江源氏の流れを汲む鎌倉時代の武将・佐々木高綱(源頼朝の側近)を祖とする名家で、11代続に渡り代々商いを営む豪商です。

佐々木八十八は、14歳の時に父・佐々木源三郎(宮原源三郎)が死去したため、輸入販売業を志して、明治23年(1890年)に大阪の唐物問屋(輸入雑貨販売店)「大由」で働きながら、浪速英学校で英語を学びました。

そして、明治31年(1898)に異父兄の佐々木友治郎が死去したため、佐々木八十八が佐々木家の家督を相続し、明治35年(1902年)4月に大阪で繊維・雑貨の輸入卸売業「佐々木営業部」(現在のレナウン/東証一部上場)を創業しました。

佐々木営業部という社名は少し風変わりですが、佐々木八十八は創業時から製造部門・販売部門・不動産部門などを設立するグループ企業構想を持っており、「それらの営業部が必要だ」ということで、「佐々木営業部」と名付けました。

父・佐々木八十八は、西洋文化を愛しており、洋館の事務所を構え、番頭にも洋服を着せました。大阪の船場で最初に洋館の事務所を築いたのが、父・佐々木八十八だったといいます。

さて、佐々木営業部の創業から2年後に日露戦争が勃発します。ロシアは寒いので、防寒着を中心に需要が増大し、佐々木営業部は防寒肌着を中心に業績を拡大しました。

さらに、佐々木八十八は、兵庫県から銀行家を目指して大阪に出て来た尾上設蔵を支配人(番頭)に抜擢し、順調に業績を伸ばしていきました。

べっぴんさん-阪神間モダニズム

明治18年(1885年)に栃木県日光市足尾地の良瀬川で大洪水があり、足尾銅山から鉱毒が流れ出て、日本初の公害「足尾銅山鉱毒事件」が発生しました。

栃木県会議員の田中正造は、妹の婿・原田定助に支えられて、足尾銅山鉱毒事件の反対運動を展開します。

足尾銅山公害事件は長引き、明治34年(1901年)12月10日には、田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件を直訴しようとして、未遂に終わる事件が発生しました。

このようななか、明治38年(1905年)に、阪神電鉄の神戸-大阪間が開通しました。

既に大阪は開発されて賑やかだったので、足尾銅山鉱毒事件による公害問題への懸念などもあり、大阪の富豪層が、阪神電鉄の神戸-大阪間が開通を切っ掛けに、神戸方面へと流出します。

兵庫県の六甲山と瀬戸内海の間に広がる神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・伊丹市・尼崎市などは、当時は手つかずで、空気も景色も綺麗でした。

このため、開発された大阪を嫌った大阪の富豪層が、神戸方面に別荘を構えて移り住んだのです。

そして、神戸方面へと移住した大阪の富豪層によって、明治・大正・昭和初期にかけて、神戸-大阪間で「阪神間モダニズム」という地方文化が形成されていきます。

神戸-大阪間は私鉄の発達と共に発展していきます。こうした名残で芦屋などは現在も高級住宅街となっており、阪神間モダニズムの面影を残しています。

こうして神戸方面へと逃れた大阪の富豪層のなかに、佐々木惇子(坂野惇子)の父・佐々木八十八や、坂野通夫の父・坂野兼通の姿もありました。

大阪で成功した父・佐々木八十八は、明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、兵庫県神戸市住吉に別荘を構えて、住吉の別荘へと移り住みました。

また、坂野通夫の父・坂野兼通も銀行家として大阪で成功しており、明治38年(1905年)に大阪から芦屋市へと移り住みました。庭にテニスコートのある大きな別荘でした。

さて、兵庫県神戸市住吉に建てた父・佐々木八十八の別荘は、当時は珍しい水洗便所のある洋館で、門には夜警小屋があり、庭には池や滝の他に運動場もある大きな別荘でした。

そして、大正7年(1918年)4月11日、この兵庫県神戸市住吉の別荘で、父・佐々木八十八の末娘(三女)・佐々木惇子が生まれました。この佐々木惇子が、後にファミリアを創業する坂野惇子です。

レナウンの商標を取得

坂野惇子(佐々木惇子)が生まれてから3年後の大正10年(1921年)3月、皇太子の裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパを訪問しました。

そして、翌年の大正11年(1922年)に、イギリスのエドワード・アルバート皇太子が、裕仁親王(後の昭和天皇)のヨーロッパ訪問の返礼として来日しました。

このとき、エドワード・アルバート皇太子の御召艦が「レナウン号」という名前で、水平の帽子には「レナウン」という横文字が入っていました。

父・佐々木八十八は西洋文化が好きでしたので、水平の帽子の「レナウン」という横文字を気に入り、これを商品マークに使用する事を思いつき、翌年に「レナウン」を商標登録しました。

こうした経緯から、父・佐々木八十八は商標を大切にしており、後に3女の坂野惇子(佐々木惇子)がファミリアを創業するとき、「他社に売っていない良い商品を作り、商標を大切にするように」と助言していました。

このため、ファミリアの坂野惇子(佐々木惇子)は、阪急百貨店が好条件を提示為たにもかかわらず、「ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら遠慮します」と言って、阪急百貨店との取引を断ったのです。

驚いた阪急百貨店の部長・鳥居正一郎は、ファミリアという名前を入れ、「阪急ファミリアグループ」という名前を提示し、坂野惇子(佐々木惇子)に納得してもらい、ファミリアと取引を開始するのですが、それはもう少し後のお話です。

べっぴんさん-坂野惇子の子供時代

父・佐々木八十八は、父・佐々木源三郎(宮原源三郎)や異父兄・佐々木友次郎を早くに亡くしており、自身の長女と次男も病気でなくしていたので、食事や病気についてはかなり神経質でした。

その被害を最も被ったのが、末娘(三女)の坂野惇子で、食べ物は自宅で調理したものしか口にしてはならず、キャラメルもアルコールで消毒してから渡されるという有様でした。

また、父・佐々木八十八は、坂野惇子を私学の甲南小学校へ入れたかったのですが、甲南小学校は自宅よりも北にあるため、冬の北風を恐れて、坂野惇子を近くにある魚崎小学校へ入学させました。

それでも、父・佐々木八十八は心配だったので、坂野惇子の登校や遠足に必ずお伴を付けました。

坂野惇子は魚崎小学校で「別荘の子」と呼ばれており、それ嫌だったので、姉・佐々木智恵子が選んだ服や佐々木営業部(レナウン)の派手な服を着せられるのを嫌がり、つぎはぎをした靴下を履こうとして抵抗しました。

やがて、姉・佐々木智恵子(佐々木八十八の次女)が東京の子爵・三浦善次と結婚します。

子爵・三浦義次は、岡山県の勝山藩主・三浦基次の長男で、世が世なら、勝山藩を継ぎ、大名という身分の方です。

さらに、兄・佐々木隆一(佐々木八十八の長男)が、子爵・小笠原長生(おがさわら-ながなり)の長女・小笠原日佐子と結婚し、小笠原日佐子が佐々木家に入りました。

小笠原日佐子は女子学習院を出た才女で、子爵の出でしたが、非常に庶民的で、坂野惇子は小笠原日佐子にクリームパンを買ってもらい、生まれて初めてクリームパンを食べました。

親に黙って食べたクリームパンの味は、晩年になっても思い出すほど美味しかったです。

さて、庶民派の小笠原日佐子が佐々木家に嫁いできてからは、佐々木家の神経質な食事が改善されていきました。

父・佐々木八十八と洋館の思い出

大阪から兵庫県神戸市住吉の別荘に移り住んだ父・佐々木八十八は、やがて、兵庫県神戸市住吉山手に3階建ての洋館を建てたので、坂野惇子(佐々木惇子)も住吉山手の洋館へ移り住みます。

この洋館は外見は普通の洋館でしたが、内部は少し風変わりでした。

というのも、父・佐々木八十八は、非常に暑がりなうえ、非常に寒がりだったので、洋館の内部には父・佐々木八十八のアイデアで色々と工夫がこらされていたのです。

冬は暖房があるので良いのですが、当時はクーラーが無いので、父・佐々木八十八は夏の暑さを恐れて、洋館の個室のドアや建材の一部を取り払って風通しを良くしていました。また、2階の窓には噴水が出るようになっていました。

このおかげで、夏場でも、とても涼しい洋館でした。

また、父・佐々木八十八は、健康については特に神経質だったので、まさかの時に備えて洋館に看護婦の部屋も作っていました。

そして、納戸のある3階にはロープ式エレベーターが設置されており、子供達の遊び間になっていました。

この洋館は空襲で燃えてしまいましたが、坂野惇子(佐々木惇子)は晩年になっても、この洋館の事を思い出して懐かしんでいました。第2話へ続く。

お手数ですが、第2話は目次「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」から、お進みください。