ファミリアが皇室御用達ブランドになった経緯

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第38話「ファミリアが皇室御用達ブランドになった経緯」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

昭和のシンデレラ

昭和31年(1956年)7月の経済白書は結末で「もはや戦後ではない」と結び、日本は名実ともに新たな時代を迎えた。

このようななか、昭和33年に皇太子明仁親王(平成の今上天皇)と民間人の正田美智子(美智子皇后)の結婚が承認され、正田美智子(美智子皇后)は「昭和のシンデレラ」と呼ばれ、全国的な「美智子様ブーム」が起きる。

そして、昭和34年(1959年)4月10日、皇太子明仁親王(平成の今上天皇)と正田美智子(美智子皇后)が結婚し、パレードがテレビで実況放送された。

国民は正田美智子(美智子皇后)の結婚パレードを見るためにテレビを購入し、全国的にテレビが普及していった。

高島屋からの要請

「高島屋としてはファミリアの商品を納品しようと考えているので、至急、持ってきて欲しい」

皇太子明仁親王(平成の今上天皇)と正田美智子(美智子皇后)のご成婚から4月後の昭和34年(1959年)8月、六甲でゴルフをしていた坂野惇子のもとに1本の電話が入った。

電話の主は高島屋の鳥井専務だった。美智子皇后がご懐妊したことを受け、各百貨店が出産準備用品の納品を計画しており、高島屋としてはファミリアの商品を納品したいので、至急、持ってきて欲しいということであった。

坂野惇子は急いで上京して銀座の数寄屋橋阪急へ行き、ファミリア東京店にある商品を選んで高島屋へと届けた。

翌月の昭和34年(1959年)9月、再び高島屋から電話がある。坂野惇子も御所に参上して欲しいということで、坂野惇子は高島屋の御所係に同行して御所へ参上した。

このとき、田村江つ子(田村枝津子)の洋裁の師匠・田中千代が皇后の衣装相談役(皇后さまのデザイナー)を務めており、そちらからもファミリアの名前が伝わっていたのだろう。

坂野惇子が御所に参上すると、皇室は既にファミリアの事を知っており、水野女官長が坂野惇子に尋ねた。

「まあ、ファミリアさんなの?前からオタクの商品は良いと聞いていたので、一度、阪急に伺おうと思ってましたのよ。いつ伺えば良いでしょうね?」

しかし、坂野惇子は答えに窮した。皇室関係者が来るのなら、それなりに準備をしなければならない。こんな事を急に尋ねられても、答えられない。

ところが、水野女官長の口から「阪急」という言葉を聞いて驚いた高島屋の御所係が、「ファミリアと高島屋の社長は親戚関係ですので、わざわざ阪急にお越し頂かなくても、高島屋なら明日にでも、ファミリアの物を全部揃えてお待ちしています」と勝手に答えた。坂野惇子には何の相談もせずに。

(注釈:ファミリアの創業メンバー田村光子の夫・田村陽は、高島屋を創業した飯田家の出身である。)

そもそも、ファミリアは高島屋に出店していので、数寄屋橋阪急から高島屋に商品を運ばなければならない。それに、店頭に並べている商品は汚れているかもしれない。兎にも角にも明日では準備が出来ない。坂野惇子は心の中で動揺した。

しかし、水野女官長は、坂野惇子の動揺に気づかず、「御所までお持ちくださるのなら、妃陛下もご覧遊ばされるかもしれませんので、ご都合を伺って参りましょう」と言って席を立ってしまった。

やがて、水野女官長が戻ってきて「それでは、早速、明日、ベッドやタンスも見せて頂けますか」と尋ねると、高島屋の御所係が「かしこまりました」と即答した。もちろん、坂野惇子に相談もせずにである。

美智子皇后の来店

坂野惇子は急いで数寄屋橋阪急へ戻ると、東京店の店長・下岡祥浩らとともに、徹夜で準備をし、翌朝、マスコミに気づかれないように、慎重にファミリアの商品を東京高島屋へと運んだ。

そして、皇室の侍従が店内を点検した後、美智子皇后と水野女官長がおこしになった。

坂野惇子と下岡祥浩は緊張して隅の方に立っていたのだが、美智子皇后は坂野惇子の元に歩み寄られ、「いつぞやは神戸でお世話になりました。今日は、どうもありがとう。かわいらしいベッドね、早速説明してくださるかしら」と声を掛けた。

実は、坂野惇子が美智子皇后(正田美智子)とお会いするのは初めてではなく、坂野惇子は3年前、学生時代の美智子皇后(正田美智子)に、お茶を差し上げたことがあるのだ。

美智子皇后(正田美智子)が聖心女子大学に通っていたとき、ファミリアの創業メンバー田村光子の次女・田村安佐子も聖心女子大学に通っており、美智子皇后(正田美智子)と田村安佐子はご学友だった。

この関係で、美智子皇后(正田美智子)が昭和31年(1956年)の春に関西旅行をしたさい、お学友と一緒に坂野通夫が所有する六甲山の別荘に遊びに来た。

このとき、坂野惇子は、美智子皇后(正田美智子)に、お茶を振る舞っていたのだ。

さて、坂野惇子は高島屋の御所係から、美智子皇后(正田美智子)に直接、話をする事を禁じられていたが、美智子皇后(正田美智子)の方から坂野惇子に商品の説明を求めた。

また、水野女官長が「貴方は私に説明してくださる」と言い、下岡祥浩を連れて行ったので、坂野惇子は美智子皇后(正田美智子)と2人きりになり、直接、美智子皇后(正田美智子)の質問にお答えする事になった。

坂野惇子は白い木綿の手袋を用意しようとしたのだが、あまりにも準備時間が短かったので間に合わず、ナイロンの手袋をしていた。

坂野惇子が人形を使ってオシメの使い方を説明していると、ナイロンの手袋が滑って脱げてしまい、美智子皇后(正田美智子)はお笑いになって「どうぞ、お手にとって」と仰る一場面もあった。

坂野惇子は美智子皇后(正田美智子)の質問にお答えしたが、美智子皇后(正田美智子)は既に育児に対して深い知識を持っており、質問が全て的を射ていたので、坂野惇子は美智子皇后(正田美智子)の知識の深さに敬服するほどであった。

また、美智子皇后(正田美智子)は、ご学友の田村安佐子(田村光子の次女)についても質問し、大変満足されたようで、予定を大幅に超えて、ファミリア見学は終わった。

ファミリアが皇室御用達ブランドに

後日、皇室から高島屋にファミリアの商品80点ほどをご注文を賜わり、ファミリアは光栄に感激し、商品を作り始めた。

田村光子と田村江つ子(榎並江つ子)は、刺繍の数まで縁起の良い数になるように工夫するほど細部にまで注意を払った。

一方、編み物部門は、皇室に納めるということで編み手が緊張してしまい、いつものようなふわっとした感じがなかなか出ず、編み物部門の村井ミヨ子(中井ミヨ子)は苦労した。

こうして、ファミリアは心を込めて商品を完成させ、無事に高島屋へ納品した。

そして、昭和35年(1960年)2月23日に、美智子皇后(正田美智子)は無事に第一子・皇太子徳仁親王を出産された。

スキー場のラジオでそのニュースを聞いた坂野惇子は、思わず雪のうえにひざまずき、東の空に向かって拝んで、お喜びを申し上げた。

その後も、ファミリアは高島屋を経由して皇室からのご注文を賜わっていたが、やがて皇室から直接、ご注文を賜わるようになり、ファミリアは皇室御調達ブランドとなったのであった。

(注釈:宮内庁が購入する商品を審査・許可する皇室御用達制度は廃止されており、皇室が購入・愛用している商品を一般的に「皇室御用達」と呼ぶ。)

第39話「一色大二郎のファミリア改革と村井ミヨ子」へ続く。

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