スヌーピーの縫いぐるみはファミリアが日本初の理由

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の生涯を描く実話「ファミリアの創業者・坂野惇子の立志伝」の第41話「ファミリアが日本初でスヌーピーを販売する経緯の立志伝」です。

これより前のあらすじは、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

輸入品に注目した坂野通夫

子供服ブランド「ファミリア」の社長・坂野惇子は、第二次世界大戦のとき、海軍嘱託となってジャカルタへ派遣されており、この時の経験がファミリアに大きな影響を与えることになる。

坂野通夫がジャカルタへ派遣された当初は戦況が悪化しておらず、非常に平穏で、中国人が西洋のベビー用品を販売しているような平穏な状況だった。

戦前の日本の育児用品は使いにくく、妻の坂野惇子(佐々木惇子)が育児に苦労していたので、ジャカルタで西洋のベビー用品を見た坂野通夫は、育児に苦労する妻・坂野惇子のことを思い出し、ジャカルタで西洋のベビー用品を見つけては日本に居る妻・坂野惇子に送っていた。

これがきっかけで、坂野通夫は西洋式のベビー用品に興味を示しすようになった。

戦後、妻・坂野惇子が子供服ブランド「ファミリア」を創業しており、ファミリアは昭和27年(1952年)3月に阪急百貨店で第1回「子供ショー」を開催することになった。

このとき、坂野通夫は、まだファミリアに入社していないかったが、妻・坂野惇子に海外の育児用品を展示するようにアドバイスした。

これを受けて、ファミリアはアメリカ領事館を通じてXP(アメリカ軍向け販売店)から西洋式の育児用品一式を借り受けて第1回「子供ショー」で展示した。

当時、一般人が西洋式の育児用品を目にする機会は無かったことから、西洋式の育児は大いに世間の注目を集め、ファミリアは第1回「子供ショー」を大成功させた。

このように、坂野通夫はファミリアの入社前から既に西洋の育児用品に注目しており、ファミリアに入社してからは、明治屋を通じて西洋のベビーフードなどを輸入していた。

なぜ、明治屋を通じていた輸入していたかというと、当時は消費財の輸入が禁止されていたが、明治屋は来日する外国人用のホテル用品という名目で消費財輸入の外貨割当を持っていたからである。

つまり、坂野通夫は明治屋が持っている外貨割当を分けてもらう形で、ベビー用品の輸入をしていたのだ。

坂野通夫は、「子供の栄養が最優先」という考えを持っており、明治屋を通じて、カーバーベビーフード社の離乳食やベビーフードなどを輸入していたのだ。

やがて、日本の消費財の輸入解禁への期待が高まり始めると、昭和34年(1959年)頃から、坂野通夫は外国からカタログを取り寄せるなどして、直輸入に向けての準備を始めた。

そして、昭和35年2月に政府が消費財輸入の外貨割当を発表すると、坂野通夫はこれまでに揃えていたカタログなどを基に徹夜で書類を作成し、10万ドルの外貨割当を申請し、ファミリアは8万ドルの外貨割当を取得することに成功したのである。

清水雅の気遣い

ある日、カーバーベビーフード社のアジア総代理店の権利を持つ香港のウー氏が来日し、坂野通夫に面会を求めた。

この日、坂野通夫は、阪急百貨店の会長・清水雅からゴルフに誘われていたので、困って清水雅に相談すると、清水雅は「こんなチャンスを逃してはいけない」と言い、ウー氏と会うように勧めてくれた。

このため、坂野通夫はウー氏と会うことができ、カーバーベビーフード社の日本エージェントの権利を取り付けることが出来た。

こうして、ファミリアは、カーバーベビーフード社のベビーフードやベビー用品ななどの直輸入を開始し、後にイギリスの子供服なども輸入した。

ファミリアの商品は飛ぶように売れていくので、ファミリアは常に商品不足に悩まされており、ファミリアの量産化システムが整うまでは、こうした輸入品がファミリアを主力商品となっていた。

また、坂野通夫が直輸入を開始した事が切っ掛けで、ファミリアや坂野家の運命を左右するハッチャー夫人と出会うことになる。

ハッチャー夫人との出会い

昭和37年4月、大阪で国際見本市が開催された。ファミリアは直輸入をしていたので、輸入したベビーフード・ほ乳瓶・ベビーカーを国際見本市に出展した。

このとき、ファミリアの隣にジェネラルフード社が出展しており、坂野惇子はジェネラルフード社のテイスティング・コンサルタントとして来日していたハッチャー氏と仲良くなった。

ちょうど、田村光子の長男・田村泰邦が留学先から帰国しており、坂野惇子の長女・坂野光子も春休みだったので、英語の話せる田村泰邦と坂野光子がハッチャー夫婦を観光案内した。

すると、ハッチャー夫婦は子供が居なかったので、坂野光子の事を好きになった。

特にハッチャー夫人は、坂野光子のこと「テリー、テリー」と呼んで大変気に入り、帰国するときに、坂野光子をアメリカへ連れて帰りたいという程だった。

(注釈:テリーという名前は男性名というイメージが強いが、女性にも使用する名前である。)

これが縁で、1年後に坂野光子はハッチャー夫婦の元にホームステイし、アメリカ留学することになる。

さて、帰国したサッチャー夫人が、子供服の参考資料として、ニューヨークタイムズに掲載されて子供服向けの広告を送ってきてくれた。

この中に、縦横に伸びる生地「ベビーグロー」の広告があり、坂野通夫が興味を持って調べてみると、ニューヨークのゲイバード社の生地であることが分かった。

ところで、長女・坂野光子はハッチャー婦人に大変気に入られた縁で、ハッチャー夫婦の元にホームステイし、アメリカ留学することになっていた。

そこで、坂野夫婦は長女・坂野光子を連れて、昭和38年(1963年)5月末にアメリカへ渡り、ゲイバード社など他数社と交渉した。ゲイバード社は広告を見て日本から来てくれたことに感激した。

ところで、坂野通夫の父・坂野兼道が三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)の大阪支店長や山口銀行(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)の総理事を務めていた関係で、三菱銀行と三和銀行がファミリアのメーンバンクを引き受けてくれていた。

このようにファミリアはバック・ボーンが良かったので、坂野惇子はゲイバード社など他数社と契約を結ぶことができ、大きな成果を上げた。

そして、坂野惇子は帰国するときに長女・坂野光子をワシントンDCに住んでいるサッチャー夫人に預けて帰国した。

こうして、長女・坂野光子はサッチャー夫婦の元で、1年7ヶ月のアメリカ留学生活を送ることになる。

清水雅の小さな約束

坂野光子がアメリカ留学に出るとき、阪急百貨店の会長・清水雅は「アメリカに行く事があれば会いに行くよ」と約束していた。

このとき、清水雅は東宝の社長をしていたので、坂野光子が留学した数ヶ月後、東宝の仕事でアメリカへと渡った。

そして、清水雅は仕事でニューヨークから北にあるボストンへと向かうことになったのだが、仕事で忙しいのに時間を割いて、1時間をかけて反対方向の南にあるワシントンDCへと向かい、坂野光子に会いに行ったのである。

坂野光子は「会いに行くよ」というのは社交辞令だと思っていたので、清水雅が本当に会いに来てくれたので大喜びした。

実は、阪急百貨店の会長・清水雅は、こうした小さな約束でも、必ず守る人だった。

ある日、清水雅は仕事の関係者とゴルフをする約束をしていたのだが、雨が降ったので中止となり、日を改めてゴルフをすることになった。

しかし、清水雅は、「その日は孫との約束がある」と言って、ゴルフを断ったのである。

不思議に思ったファミリアの社長・坂野通夫が「お孫さんとはいつでも会えるのだから、仕事を優先してもいいのではありませんか?」と尋ねると、清水雅は「大人が子供との約束を破ると、子供は大人を信用しなくなる」と答えた。

清水雅は、どんな小さな約束でも守る人で、特に子供との約束は大切にした。

だから、坂野通夫も坂野惇子も清水雅を尊敬していたし、清水雅はみんなから愛されていた。

坂野光子も清水雅を尊敬しており、後に岡崎財閥の岡崎晴彦と結婚して3人の子供を儲けると、清水雅から名前を貰って2次男に「雅」と名付けることになる。

アミリアとピーナッツの立志伝

長女・坂野光子がアメリカ留学していたとき、アメリカではチャールズ・モンロー・シュルツの漫画「ピーナッツ」が流行していた。

このため、長女・坂野光子は、アメリカ留学中に、漫画「ピーナッツ」に登場する犬スヌーピーの虜になっており、1年7ヶ月のアメリカ留学を終えて昭和39年(1964年)に帰国したとき、スヌーピーの単行本数冊を持ち帰った。

そして、アメリカでもスヌーピーのグッズはグリーティングカードや便せん程度だった時代に、帰国した長女・坂野光子はスヌーピーの刺繍をしたクッションやテーブルクロスやナプキンなどを作るようになっていた。

すると、次第に坂野惇子も坂野通夫もスヌーピーに愛着を持つようになっていき、ついには長女・坂野光子の「スヌーピーは日本でも絶対に流行する」という言葉に背中を押され、アメリカ領事館を通じてスヌーピーのコピーライトを申請したのである。

こうしてファミリアは、アメリカのユナイテッド・フューチャー・シンジケートと契約を結び、昭和45年(1970年)からスヌーピーの縫いぐるみの発売を開始することになる。

しかし、スヌーピーは当時、日本では無名のキャラクターで、全く人気が無かった。

既にスヌーピーの版権を持つイギリスのグリーディング・カード会社「ホールマーク社」が日本に進出していたのだが、日本ではグリーディング・カードを贈る習慣がなかったため、日本でグリーディング・カードは普及せず、ホールマーク社は日本から撤退した。

そこで、出版業界がJPCを設立して、ホールマーク社からスヌーピーの販売権を引き継いだのだが、それでもスヌーピーのグリーディング・カードは全く売れなかった。

そこで、昭和44年(1969年)に山梨シルクセンター(後のサンリオ)が、平凡社などとともに「サンリオ・グリーディング」を設立し、JPCからスヌーピーの販売権を引き継ぐという有様だった。

このようななか、ファミリアは昭和45年(1970年)からスヌーピーの縫いぐるみを販売するのだが、当時の日本ではスヌーピーは人気が無かったため、ファミリアの社内ではスヌーピーの縫いぐるみは月に30個程度しか売れないだろうという意見が多かった。

ところが、坂野惇子は月に500個は売れるという桁違いの予想を立てた。

かつて、坂野惇子が日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)に2万個という大量の子供用食器を発注し、坂野通夫を激怒させたことがあった。

当時のファミリの規模からすると、2万個の発注は桁違いの数字であり、坂野通夫が怒るのも当然だが、坂野惇子は子供用食器の必要性を訴え、「食器は売れ残っても腐らない」と言って押しっきった。

そして、坂野惇子の言うとおり、子供用食器は売れ続け、ファミリアのロングセラー商品となった。

坂野惇子の目は確かであり、ファミリアの社長・坂野通夫は、坂野惇子の「月に500個は売れる」という意見を採用し、月間500個、6ヶ月分3000個のスヌーピーの縫いぐるみを発注した。

すると、またもや、坂野惇子の予想は見事に的中し、スヌーピーの縫いぐるみは飛ぶように売れ、翌年の昭和46年には月間2000個、昭和48年には年間11万3000個を販売して、ファミリアを代表する人気商品となった。

なお、スヌーピーのグッズ自体は既にサンリオ・グリーディングが発売していたが、スヌーピーの縫いぐるみを発売したのはファミリアが日本初である。

第42話に続く。

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