田村駒の粉飾決算-ファミリアの坂野惇子が社長を拒否

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第27話「田村駒の粉飾決算と倒産の危機-ァミリアの坂野惇子が社長を拒否」です。

これより前の話は、「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

ファミリアの初代社長・元田蓮の辞意

坂野惇子のファミリアは創業してまもなく、阪急百貨店の社長・清水雅に見いだされ、阪急百貨店に直営店「阪急ファミリアグループ」を出店し、順風満帆なスタートを切ったかのように思われた。

しかし、ファミリアの直後に、田村陽(飯田陽)が繊維商社「田村駒」の監査役に就任したため、ファミリアの監査役を辞任した。

さらに、ファミリアの取締役・川村睦夫も本業の川村商店に専念するため、ファミリアの取締役を辞任した。

このため、取締役の田村光子が監査役に就任したが、その後、取締役の田村江つ子(榎並江つ子)が監査役に就任し、田村光子は取締役へと戻るなど、ファミリアの設立初期に役員異動による混乱が起きた。

一方、ファミリアは会計だけは専門の担当者を置き、田村駒の経理・酒井幸治郎が週1回、ファミリアに立ち寄り、正式な記帳や決算について指導していた。

ところが、売り上げに対してあまりにも利益が少ないので調べてみると、会計で不正が発覚。坂野惇子は信頼していた経理に裏切られたのである。

こうしたファミリア設立初期に起きた混乱のなか、みんなの推薦によってファミリアの初代社長を務めてくれたモトヤ靴店の店主・元田蓮が辞意を漏らした。

「皆に推されて名目上の社長になっているが、私には本業のシューズショップという仕事があるので、なにもできないのが心苦しい。このさい、実際にファミリアに打ち込める人が社長になるべきではなかろうか」

坂野惇子がファミリアの社長を拒否

ファミリアの初代社長・元田蓮が辞意を漏らしたため、ファミリアで話し合いが行われた。

ファミリアの隅から隅まで知っている設立者の坂野惇子が社長に適任だったが、坂野惇子は専務というだけでも重荷に感じていたので、「会社のトップに立つ社長は男性でなければならない」と言い、頑として社長への就任を拒否した。

そこで、夫の坂野通夫・田村寛次郎・田村陽(飯田陽)が集まって話し合った。

不正会計事件のこともあり、ファミリアは、坂野惇子ら女性たちだけでは手に負えなくなっていた。

また、会社を大きくしていくためには、坂野惇子が言うように、社長は男性の方が良いだろうという結論に達した。

しかし、繊維商社「田村駒」の要職にある田村寛次郎・田村陽(飯田陽)は、田村駒が倒産の危機に直面していたため、ファミリアの社長を引き受けることは出来なかった。

田村駒の粉飾決算と倒産の危機

昭和25年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争の影響で、日本の繊維業界は「ガチャマン景気」「糸へん景気」という空前の好景気を迎えた。

ガチャマン景気で繊維業界の好景気に湧くなか、繊維商社「田村駒」の2代目・田村駒治郎は昭和26年(1951年)3月11日にアメリカへと渡り、毛糸の原料となる毛屑を大量に買い付けた。

ところが、昭和26年(1951年)7月に朝鮮戦争は停戦交渉に入り、これまでの好景気の反動で、繊維相場が急落してしまう。

このため、2代目・田村駒治郎がアメリカで購入した毛屑が日本に届いた時には、相場が半値まで下落していた。

2代目・田村駒治郎は、毛屑の損失を子会社「和泉毛糸」に押しつけたため、和泉毛糸が倒産し、田村駒も3億3800万円という多額の不良債権を抱えることになった。

一方、田村駒東京店は子会社「和泉毛糸」の倒産によって資金繰りに行き詰また。

このため、田村駒東京店は、手形の乱発で現金を作り、なんとか資金繰りをつけていたが、相手を見ずに乱暴な商売をしていたので、取引先が倒産するなどして、損失を雪だるま式に膨らませていた。

やがて、田村駒東京店の損失は、田村駒本社の経営を圧迫するようになり、田村駒の田村寛次郎が田村駒東京店へ乗り込んで財務内容を調査を開始する。

田村寛二郎の調査の結果、田村駒東京店の事業失敗や危険な手形の乱発が発覚し、2代目・田村駒治郎は田村駒東京店の事業整理などを行ったが、既に手遅れで、田村駒は巨額の損失を計上することになってしまう。

このため、田村駒は経営難に陥り、2代目・田村駒治郎は昭和28年(1953年)にプロ野球団の経営から撤退。田村駒はかつての栄光を失い、粉飾決算で利益を計上して、銀行から融資を得て生きながらえていた。

坂野通夫のファミリアの社長へ

さて、坂野通夫・田村寛次郎・田村陽(飯田陽)が集まって話し合った結果、坂野惇子が言うように、ファミリアの社長は男性が良いという事になった。

しかし、田村寛次郎と田村陽(飯田陽)は、田村駒の要職にあり、田村駒は倒産目前という状況だったため、とてもファミリアの社長を兼任することは出来なかった。

そこで、田村寛次郎田村陽(飯田陽)は、坂野通夫にファミリアの社長を引き受けて欲しいと頼んだ。

坂野通夫は、佐々木営業部(レナウン)で働いていたが、最年少ということもあり、田村家から懇願される形で、ファミリアの社長に就任することを引き受けた。

なお、田村駒は粉飾決算で生きながらえていたが、不況の影響で赤字が何倍にも膨れあがり、昭和29年(1954年)9月には進退窮まり、三和銀行に粉飾決算の実態を告白し、救済を求めることになる。

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