坂野惇子のファミリアが高島屋の子供服展で東京進出

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第31話「坂野惇子のファミリアが高島屋の子供服展で東京進出」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

高島屋からファミリアへ子供服展の要請

ファミリアのような素晴らしい育児用品を東京の人に紹介するのは、私たちの義務、高島屋の誇りです」

昭和22年(1947年)から昭和25年(1950年)にかけて第1次ベビーブームが起っており、第1次ベビーブームを背景に、各地の百貨店で子供服展が開催されるようになっていた。

坂野惇子のファミリアは、昭和23年(1948年)12月4日にベビーショップモトヤとして創業したばかりの若い会社であったが、阪急百貨店での子供ショーを大成功させ、一気に知名度を広げていた。

そのようななか、昭和29年(1954年)4月、高島屋からファミリアに、東京高島屋で子供服展を開催して欲しいという要請があった。

高島屋は東京高島屋を増築しており、増築の記念に東京高島屋でファミリアの子供服展を開催したいというのである。

しかし、ファミリアは阪急百貨店の社長・清水雅に見いだされ、阪急百貨店で成長してきたという経緯があるため、ファミリアは阪急百貨店の社長・清水雅に感謝しており、阪急百貨店には大きな義理があった。

このため、ファミリアの坂野通夫は、高島屋の申し出にちゅうちょして、「このことは阪急百貨店の社長にも相談して、先に許可を得たいと思いますので」と答え、清水雅に相談する事にした。

しかし、どうしてもファミリアの子供服展を開催したい高島屋は、用意周到だった。

ファミリア創業者メンバー田村光子の夫・田村陽(飯田陽)は、高島屋を創業した飯田家の四代目・飯田新七の五男で、高島屋の社長・飯田慶三と親戚関係にあった。

そこで、高島屋の社長・飯田慶三は、直々に田村陽(飯田陽)にもファミリアの子供服展開催を要請し、さらに、ファミリアの製造部門「岡本研究所」を見学するという程の念の入れようだった。

困った坂野通夫が高島屋の件を阪急百貨店の社長・清水雅に相談すると、社長・清水雅は「ファミリアは君たちの会社だ。阪急が拘束する権利はないよ」と言い、快く応援してくれたので、ファミリアは高島屋で子供服展を開催すること決めた。

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ファミリアが子供服展で東京進出

さて、高島屋から「売り上げの12%を納めてくれれば、宿泊費なども全て高島屋が負担する」という好条件の提示があり、ファミリアが東京の高島屋で「ファミリア子供服展」を開催する事が決った。

期日が迫っていたため、ともかく、ファミリアの坂野惇子田村光子村井ミヨ子・野田美智子が上京して高島屋で子供服展の準備に取りかかった。

ところが、準備期間はあまりにも短いため、高島屋が準備していたファミリアの広告が間に合わず、宣伝はファミリアが同級生や知人に出したDMだけという有様であった。

しかも、ファミリア子供服展の開催初日は朝から雨という悪条件が重なり、坂野惇子は東京進出初日をかなり心配していたが、初日から大勢のお母さんがファミリアに駆けつけてくれ、1日で25万円を売り上げた。

子供服展で1日25万円を売り上げるというのは、異例のことであり、業界関係者を驚かせた。

そして、ファミリアは2週間に渡る高島屋での「ファミリア子供服展」を成功して、東京でもファミリアの名前が大いに広まった。

高島屋はこれを機に、ファミリアに正式な契約を申し込んだが、高島屋の店員は商品を雑に扱っていたので、坂野惇子は自分たちの商品が雑に扱われる事を懸念して契約の申し出を断り、わずかに売れ残った商品も持ち帰った。

坂野惇子の立志伝-第32話は、「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」から選んでください。

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