箱根駅伝の創設者・金栗四三の立志伝

日本初の駅伝や箱根駅伝の創設に関わったマラソンの父・金栗四三の立志伝です。

このページは「日本初のオリンピック選手・金栗四三の立志伝」からの続きです。

4年後に向けて

金栗四三(かなくり・しそう)は、日本が初参加したストックホルム・オリンピックで棄権するという失態を見せた。

そこで、金栗四三はストックホルムでの雪辱を果たすため第6回ベルリン・オリンピックに向けて厳しいトレーニングを積んでいたが、第一次世界大戦の影響で第6回ベルリン・オリンピックは中止となってしまった。

しかし、金栗四三は、嘆いている暇はなく、4年後の第7回アントワープ・オリンピックに出場するため、高等師範学校の校長・嘉納治五郎に相談する。

その結果、金栗四三は大正5年に高等師範学校の研究科を卒業すると、神奈川県鎌倉市にある神奈川師範学校に地理の教師として赴任し、マラソンの練習をしながら、マラソン選手の育成やマラソンの普及にあたった。

また、金栗四三は大正5年5月に徴兵検査を受け、健康体ながら、第1乙種となり、兵役を逃れた(この時代の兵役は甲種から)。

これは、長兄・金栗実次が「弟のご奉仕はマラソンを通して国威を発揚することにある。同じご奉仕なら一兵卒となるよりうも、オリンピックで勝つことの方が大事だ」と考え、村長を通じて軍部に根回ししていたため、金栗四三は第1乙種として兵役を逃れたのである。

金栗四三は、神奈川師範学校を1年で終え、大正6年(1917年)の春から東京の独逸学協会中学へと移った。

独逸学協会中学は名門校だったが、ドイツが第1次世界大戦で負けたため、2流校に成り下がっていた。金栗四三は、あえて2流校を選んで赴任し、独逸学協会中学でも、マラソンの普及に励んだ。

世界初・日本初の駅伝の開催

明治時代を迎えて、天皇が京都から東京へと移ったとき、「遷都」ではなく「奠都(てんと)」という言葉を使った。「奠都」とは、都を定めると言う意味である。

大正6年(1917)は、東京奠都から50年目にあたり、東京・不忍池で「東京奠都50年記念博覧会」が開催されることになっていた。

そこで、読売新聞の記者は、東海道五十三次の本陣を調査するため、京都から東京を目指した。

このとき、読売新聞の記者は、東京奠都50年記念博覧会の協賛事業として、京都から東京まで東海道五十三次を走るリレー形式のマラソン(駅伝)の開催を思いつき、金栗四三に相談を持ちかけたのである。

相談を受けた金栗四三は、嘉納治五郎を大会長に担ぎ上げて大会開催に奔走し、大正6年(1917年)4月27日から29日までの3日間にわたり、読売新聞の主宰で「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」が開催された。

「駅伝」と命名したのは、神宮皇学館の館長・武田千代三郎である。

スタートは京都の三条大橋をスタートで、ゴールは「東京奠都50年記念博覧会」が開催されている東京・上野の不忍池。総距離508キロメートル、23区を3日間かけて昼夜を問わず走り抜くという過酷なものであった。

関東・中部・関西の3チームの出場を予定していたが、この時代は長距離選手を揃えるのが難しく、関西はチームが成立せずに不参加。関東と中部の一騎打ちとなった。

関東チームは関東から精鋭を集結し、金栗四三がアンカーを務めた。対する中部チームは、愛知一中を中心に編成し、「マラソン校長」の異名を取る元校長・日比野寛がアンカーを務めた。

結果は、精鋭を集めた関東チームが中部チームに大差を付け、41時間44分という記録で勝利した。

こうして開催された世界初・日本初の駅伝「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」が、後の箱根駅伝へと繋がる。

金栗足袋の開発

金栗四三は、富士山に登ったときの空気の薄なる状態がマラソンに似ていると考え、高地トレーニングをしをしており、大正2年に行われた富士登山マラソンを大正6年(1917年)に復活させ、第2回・富士登山マラソンとして開催した。

ところで、金栗四三は、東京の足袋屋「ハリマヤ」とマラソン足袋の改良を続けており、こはぜ(足袋の金具)を外し、甲の部分を紐で結び、足袋の底にゴム底を縫い付けた「金栗足袋」を開発し、足袋屋「ハリマヤ」は大正8年(1919年)4月に「金栗足袋」の発売を開始した。

大正8年(1919年)、門下生の千葉祐之が、卒業の記念に持久力のテストして下関から東京まで1200キロを走るという計画を立て、金栗四三に伴走を頼んだ。

伴走を引き受けた金栗四三は、朝日新聞の先輩に話を持ち込み、朝日新聞のバックアップを受け、2人は大正8年7月22日に下関を出発し、8月10日に東京に到着。1200kmを20日間で走り抜いた。

このとき、金栗四三は金栗足袋を履いて走り、上々の手応えを得た。

次ぎに、金栗四三は、日光から東京の130キロを走り抜くことを思いつき、独逸学協会中学のマラソン・イベントとした。

金栗四三は1人で130キロを走り、独逸学協会中学の徒歩部は10区間に分けたリレー式の駅伝で130キロを走るという企画である。

金栗四三は、大正8年11月に日光-東京マラソン大会を開催し、130キロを20時間で走りきった。

箱根駅伝の誕生

大正8年(1919年)10月、金栗四三・沢田英一・野口源三郎の3人は、埼玉県巣鴨市にある小学校の運動会に審判として招かれた。

沢田英一は、明治大学の学生で、大正8年6月から7月にかけての21日間で、札幌-東京間を走破した強者である。

野口源三郎は、東京高等師範学校の体育課教授で、大正9年のアントワープ・オリンピックの棒高跳びに出場して11位になるという強者である。

この3人が、運動会からの帰りの汽車で、陸上競技について話し合っているとき、海外で長距離をやりたいという意見が出て、「アメリカ大陸横断駅伝」という構想が生まれた。

アメリカ大陸西部のサンフランシスコから、アメリカ大陸東部のニューヨークまで、アメリカ大陸を東西に横断するという度肝を抜く駅伝計画である。

駅伝にという形式にしたのは、金栗四三が一度に多くのマラソン選手を育てるには駅伝で競わせるのが一番だと考えていたからである。

さて、金栗四三らは、アメリカ大陸横断駅伝の予選を開催するため、各学校に予選への参加を呼びかける一方で、陸上競技に理解のある報知新聞の寺田稔彦に協力を要請し、報知新聞の賛同を得た。

長距離選手10人を揃えるのは難しい事もあり、参加校は「早稲田大学」「慶應大学」「明治大学」「東京高等師範学校」の4校だったが、各校とも部員を強化して次は参加したいと乗り気だった。

第1回・箱根駅伝は、参加校が4校だったので、「四大校駅伝競走」という名前で開催される。

こうして、参加校4校の委員会も参加して具体的な計画が話し合われた。コースの候補に「日光-東京」「水戸-東京」「箱根-東京」が候補に挙がった。

しかし、第1回・箱根駅伝は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選であり、アメリカ大陸の横断で待ち構える悪路を想定しなければならず、「日光-東京」は道が平坦で却下。「水戸-東京」も交通が不便なので却下となった。

そこで、箱根を、アメリカ大陸を横断する時に関門となるロッキー山脈に見立てて、「箱根-東京」が駅伝のコースに選ばれた。

また、金栗四三の「鍛錬には極寒か猛暑がよい」という信念から、予選は2月に開催されることになった。

さて、金栗四三は「監視の審判付きでなければ、競争をやれないようでは、いかにも残念だ。選手たちを信用しよう」と言い、監視は置かず、審判は金栗四三だけだった。

ところが、小田原-箱根間を担当する選手らが近道の研究をしているという情報が入ってきたのである。

往路の第5区・箱根は夜間になる事が想定されていたので、箱根の青年団が審判と道案内を兼ねて、松明を持って選手に伴走してくれることになった。

こうして、大正9年2月14日午後1時に第1回・箱根駅伝(四大校駅伝競走)がスタートしたのである。

箱根の青年団の協力もあって、第1回・箱根駅伝(四大校駅伝競走)は無事に終わり、東京高等師範学校が優勝し、明治大学が2位、早稲田大学が3位、明治大学が4位に終わった。

なお、第1回・箱根駅伝は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選として開催されたが、「アメリカ大陸横断駅伝」については報知新聞から無謀だと諭され、「アメリカ大陸横断駅伝」は開催されず、予選の箱根駅伝だけが残り、現在まで続いている。

第7回アントワープ・オリンピック

大正9年(1920年)4月、金栗四三は30歳になっており、アスリートとしてのピークは過ぎていたが、無事にオリンピック予選を突破し、第7回アントワープ・オリンピックへの日本代表となった。

日本初出場の第5回ストックホルム・オリンピックの日本代表は、金栗四三と三島弥彦の2人だけだったが、2度目の出場となる第7回アントワープ・オリンピックの日本代表は全部で15人、長距離だけでも6人も居た。

しかも、金栗四三の経験から、色々と準備や対策が出来ており、前回よりも良い条件でオリンピックに出場することができ、テニスシングルで熊谷一弥が銀メダル、テニスダブルスで熊谷一弥・柏尾誠一郎が銀メダルを取得した。日本初のメダルである。

マラソンに出場した金栗四三は、5位まで順位を上げていたが、足を痛めたため、歩いてゴールにたどり着き、記録は2時間48分45秒で16位に終わった。

この時の敗因は寝不足だったと言われる。若い選手が騒いでいたことが寝不足の原因とか、近くにあった協会の鐘の音が寝不足の原因と言われている。

その後、日本代表はいくつかのグループに別れ、ヨーロッパを視察して帰国する。

このとき、金栗四三はドイツを視察しており、ドイツでスポーツしている婦人を見て、帰国後は女子の体育に力を入れることになる。

女子の体育に力を入れる

第7回アントワープ・オリンピックに出場した日本代表は、いくつかのグループに別れ、ヨーロッパを視察して帰国した。

金栗四三(30歳)のグループはドイツを視察した。ドイツは第一次世界大戦で負け、ドイツ国民は食うや食わずの苦しい状況に置かれていたが、街中の広間や公園で大勢の人がスポーツで汗を流していた。

なかでもスポーツをしている婦人の姿が目立ったので、金栗四三は驚き、「民族の健康と体力の根源は将来、母親となる女性たちのスポーツから」と考え、女性の運動が根付いているドイツは必ず立ち直ると確信するとともに、帰国後は女性への体育教育に力を入れるのである。

さて、金栗四三は独逸学協会中学を休職して第7回アントワープ・オリンピックに参加していた。

しかし、ドイツの視察で女子の体育の必要性を感じたことから、帰国後は独逸学協会中学に復帰せず、嘉納治五郎の紹介で、翌年の大正9年(1920年)に東京女子師範学校(お茶の水女子大学)に就職した。

このころ、女性は大和撫子が理想とされたので、女性に競わせることに対して批判があがるが、金栗四三は宮家や家族を担ぎ出し、文部省や新聞報道を上手く利用して、大正10年(1921年)9月30日に日本初となる女子テニス大会を開催して成功させる。

さらに、金栗四三は大正10年11月に「第1回女子連合競技大会」を開催した。これが、大正12年4月に発足する「関東女子体育連盟」に繋がる。

アメリカ大陸横断マラソン

第1回・箱根駅伝(四大校駅伝競走)は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選として開催されたが、本戦の「アメリカ大陸横断駅伝」は、報知新聞の理解を得られず、立ち消えとなったていた。

箱根駅伝は参加校を増やしながら第2回、第3回と継続していったが、本戦の「アメリカ大陸横断駅伝」が実現することはなかった。

そこで、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)で働き始めた金栗四三は、早稲田大学出身の生田喜代治と相談し、アメリカ大陸を横断するマラソン計画を練る。

しかし、毎日50kmを走ってもアメリカ大陸を横断するには3ヶ月はかかるため、金栗四三は仕事や費用のことを考えて、夢物語として断念した。

ところが、生田喜代治は、アメリカ大陸横断マラソンの夢を諦めきれず、毎日新聞の協賛を得て、明治大学出身の出口林次郎と共にアメリカへと渡ったのである。

そして、アメリカへと渡った生田喜代治と出口林次郎は、アメリカ大陸横断マラソンを実現するために、現地で働いてお金を貯めていたらしい。

別説では、アメリカへ渡ったものの、アメリカ大陸を目の当たりにして、アメリカ大陸横断マラソンを断念して、アメリカで働いていたという。

詳細は不明ながら、アメリカ大陸に渡った生田喜代治は、ロサンゼルスで柔道を教える一方で、レスリングや相撲でも活躍したが、昭和2年(1927年)にメキシコのカンセンシコで事件に巻込まれて死去した。

同じくアメリカ大陸に渡った出口林次郎は、アメリカのコーネル大学に入学した後、ベルリン体育大学を卒業して帰国し、明治大学の教授となり、結局、アメリカ大陸横断マラソンは実現しなかった。

ところで、アメリカ大陸横断マラソンを夢物語として諦めた金栗四三(32歳)は、大正11年(1922年)8月3日から8月24日の20日間で、樺太-東京1300キロを走破した。

第8回パリ・オリンピックに出場

大正12年(1923年)、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)の校長の理解と尽力により、東京女子師範学校を中心に関東女子体育連盟が結成される。

大正13年(1924年)5月、第8回パリ・オリンピックの予選が開催される。

34歳の金栗四三は、マラソン選手としてのピークを越えており、第一線から退いて第8回パリ・オリンピックは教え子に譲ろうと考えていたのだが、「伴走のつもりで」という周囲の声に押されて、仕方なく、予選に出場した。

ところが、不甲斐ないことに教え子達が次々と脱落し、金栗四三は予選で優勝してしまい、不本意ながら3度目の日本代表に選ばれたのである。

しかし、金栗四三は、日本代表に選ばれたからには勝利するため、老体にむち打って激しい特訓を行い、第8回パリ・オリンピックに出場した。

ところが、金栗四三は、32.3キロ付近で意識を失って倒れて落第し、ストックホルム・オリンピックの悪夢の再現となってしまった。

金栗四三は16年間、日本のマラソン界の頂点に立ち続け、3度のオリンピックに出場したが、1度も活躍できず、4年に1度のオリンピックに体調を万全にすることの難しさを痛感した。

こうして、金栗四三は第8回パリ・オリンピックを最後に、第一線を退き、以降は東京女子師範学校(お茶の水女子大学)で教師をしながら、マラソンの普及と選手の育成に力を入れた。

東京を去り、熊本の池部家を継ぐ

昭和5年(1930年)の春、金栗四三(40歳)は、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)で教鞭を執りながら、スポーツの普及活動に力を入れていたが、スポーツ嫌いの校長と対立し、東京女子師範学校を辞めて故郷に帰ることにした。

しかし、周囲から引き留められ、1年だけという約束で、昭和5年の春から「お茶の水高等師範学校」に講師として在籍した。

昭和5年の夏に長兄・金栗実次が危篤になり、駆けつけたが既に死去しており、死に目には会えなかった。

その後、金栗四三は、昭和6年(1931年)の春に「お茶の水高等師範学校」を辞して昭和6年6月に熊本へと帰り、養子に入った熊本県玉名郡小田村(熊本県玉名市小田)の資産家・池部家を継いだ。

方々から校長就任の要請がきたが、義母・池部幾江がようやく戻ってきた金栗四三を放すはずが無い。

池部家は資産家で働く必要は無く、義母・池部幾江が家に居て好きなマラソンをやっればいいと言って金栗四三を手放そうとしないので、金栗四三はこれも親孝行だと思い、校長の話は全て断り、熊本でマラソンをしながら、マラソンの普及活動に専念することにした。

日本全国を走破

金栗四三が熊本の池部家に帰ってきた直後の昭和6年(1931年)7月、栗本義彦が尋ねてきて、九州1週マラソンに付き合って欲しいと頼まれた。

直ぐに話はまとまり、数日後には熊本県庁前から出発し、20日間で九州1周を走破した。

金栗四三は既に「下関-東京」「樺太-東京」を走破しているので、「九州1周」を走破して、日本全国走破を成し遂げた。

金栗足袋でオリンピックの金メダル

明治45年(1912年)、金栗四三は、日本が初出場する第5回ストックホルム・オリンピックの予選に出場したとき、足袋を履いて走った。

外国ではランニングシューズが開発されていたが、当時の日本ではランニングシューズは開発されておらず、ランナーは足袋を履いて走っていた。

しかし、25マイル(約40km)という距離と悪路に足袋が耐えきれず、途中で足袋の底が破れ、金栗四三は裸足でゴールした。

そこで、オリンピックに出場する事になった金栗四三は、東京の足袋屋「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」の足袋職人・黒坂辛作に頼み、明治44年(1911年)に足袋の底を3重に補強した「マラソン足袋」が完成した。

金栗四三は「マラソン足袋」で、明治45年(大正元年/1912年)5月の第5回ストックホルム・オリンピックに出場したのだが、ストックホルムは舗装道路で固かったため、裏を補強しただけの「マラソン足袋」では衝撃を吸収できず、練習の時に膝を痛めてしまった。

帰国後、この経験から、東京の足袋屋「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」の足袋職人・黒坂辛作とマラソン足袋の改良に着手した。

こうして、こはぜ(足袋の金具)を取り外し、甲を紐で結び、足袋の裏にゴムを貼り付けたマラソン足袋「金栗足袋」を開発し、大正8年(1919年)に足袋屋「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」が「金栗足袋」の発売を開始した。

金栗四三自身は、大正13年(1924年)5月の第8回パリ・オリンピックで第一線を退いたが、金栗四三が開発した「金栗足袋」はその後も大勢のマラソン選手を支え続けた。

そして、昭和3年(1928年)のアムステルダム・オリンピックでは、「金栗足袋」を履いた山田兼松が4位、津田晴一郎が6位という好成績を収めた。

さらに、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックでは、「金栗足袋」を履いた孫基禎(日韓併合中の朝鮮半島出身)がマラソンで日本初の金メダルを取得した。

また、朝鮮半島出身の南昇竜もベルリン・オリンピックのマラソンに日本代表として出場し、銅メダルを取得している。

金栗四三は3度のオリンピックで惨敗したが、こうして「金栗足袋」によってオリンピック優勝という悲願を成し遂げたのである。

ドイツが聖火リレーを考案

ところで、昭和11年(1936年)にドイツで開催された第11回ベルリン・オリンピックで、聖火リレーが考案され、世界で初めて聖火リレーが採用された。

聖火リレーは、オリンピック発祥の地であるギリシアのオリンピアでトーチに火をともし、このトーチをリレー形式で、オリンピックが開催されるベルリンの競技場まで運ぶというイベントである。

聖火リレーは、ギリシアのオリンピアを出発して、ヨーロッパ5カ国を通過して、無事にドイツのベルリンへと到達し、見事にナチスドイツの威厳を世界に示すと共に、オリンピックを大いに盛り上げた。

ところが、聖火リレーのためにヨーロッパ5カ国の地形を入念に調査したドイツは、第二次世界大戦のとき、この聖火リレーのルートを逆行する形で侵攻したのである。

このため、この聖火リレーは、ナチスドイツのヒトラーが、敵国侵攻の事前調査のために考案したとも言われる。

幻の第12回・東京オリンピック

昭和15年(1940年)が紀元2600年に当たることから、紀元2600年を記念して「日本万国博覧会」や「東京オリンピック」を開催する計画が生まれた。

日本は、昭和6年(1931年)に東京オリンピックの誘致を決定し、昭和11年(1936年)の投票でヘルシンキを破り、第12回・東京オリンピックの開催を勝ち取った。

すると、嘉納治五郎は、東京オリンピックの準備のため、熊本でマラソンの普及活動をしている金栗四三に上京を要請した。

金栗四三(46歳)は、養母・池部幾江の絶大なる応援を受け、妻子を伴って上京し、十文字高等女学校で教師として勤務しながら、東京オリンピックの準備や選手の育成に奔走する。

しかし、翌年の昭和12年(1937年)7月に起きた盧溝橋事件を切っ掛けに、日中戦争へと発展したため、日本政府は東京オリンピック開催派と反対派に別れる。

IOC総会に出席したIOC委員・嘉納治五郎は、IOC総会で批判されながらも、東京オリンピック開催を確認することに成功したが、IOC総会からの帰国途中の昭和13年(1938年)5月4日に急性肺炎で急死してしまう。

東京オリンピックの開催については大いに揉めたが、商工省が「紀元2600年記念日本万国博覧会」の中止を決定したことから、厚生省が東京オリンピックの開催中止を決定した。

これを受けて、日本政府は昭和13年7月に東京オリンピックの開催中止を決議し、オリンピックを返上したのである。

このため、第12回大会はフィンランドのヘルシンキで開催されることになったが、第12回ヘルシンキ・オリンピックも第二次世界大戦のため、開催されなかった。

金栗四三は、第一次世界大戦の影響で第6回ベルリン・オリンピックに出場できなかった無念を思い出し、第12回大会に出場できない選手の悲劇に泣いた。

さて、東京オリンピックの中止が決まると、金栗四三は十文字高等女学校でを辞めて、青葉女学校へ移り、青葉女学校でスポーツの普及や指導に専念していた。

その後、戦況が悪化したため、スポーツどころではなくなり、金栗四三も昭和20年(1945年)3月に青葉女学校を辞めて、熊本の池部家へ疎開し、畑仕事に精を出した。

そして、昭和20年8月15日に玉音放送を聞き、日本は終戦を迎えた。

金栗四三の戦後

戦後は物資不足でスポーツをするような状況ではなかったが、昭和20年の暮れには日本体育協会が再発足し、日本のスポーツ界は陸上競技から復興を始めた。

昭和21年(1946年)に入ると、スポーツ仲間が熊本に戻ってきており、金栗四三(56歳)を中心に「熊本体育会」を再発足する話し合いが行われ、昭和21年4月に「熊本県体育協会」が発足し、会長に金栗四三、副会長に宇土虎雄が就任した。

金栗四三は戦後の物資不足のなかでもマラソンの普及活動に務め、昭和21年11月3日には運動会「第1回・県民体育祭」を開催した。

昭和22年には箱根駅伝が復活し、昭和22年12月5日には熊本県で「第1回・金栗賞朝日マラソン」が開催される。この「金栗賞朝日マラソン」は、後に「福岡国際マラソン」に発展する。

また、金栗四三は教育委員長の選挙を勝ち抜き、昭和23年11月には初代・熊本県教育委員長に就任したが、実直な性格で要領よく立ち回ると言うことが出来なかったので、役人に嫌われ、翌年の選挙で落選してしまう。

国際舞台への復帰と原爆少年・田中茂樹

IOC(国際オリンピック委員会)には「スポーツと政治は別」という基本理念があり、日本がオリンピックに参加することに問題は無かった。

しかし、開催国のイギリスが日本とドイツの参加を拒否したため、日本は戦後初となる昭和23年(1948年)の第14回ロンドン・オリンピックには参加できなかった。

このため、日本陸上界の照準は、昭和27年の第15回ヘルシンキ・オリンピックに向けられた。

日本は国際陸上競技連盟から除名されていたが、着実に復興して国内大会を充実させ、昭和25年(1950年)ごろから、各種目ごとに続々と世界の舞台へと復帰を始める。

このようななか、昭和25年2月10日に佐賀県で開催した「西部マラソン20キロ」で手応えを掴んだ金栗四三(60歳)は、第15回ヘルシンキ・オリンピックを見据え、有力選手を集めて合宿の開催を計画した。

昭和25年3月、金栗四三は、ボストン・マラソンに参加するべく、ボストンの体育協会へ手紙を書くと、「スポーツの世界に国境は無し。貴国選手の来征を歓迎する」との返事を得た。

この返事を得た金栗四三は、昭和25年3月から西田勝雄・田中茂樹ら有力選手うを集め、強化合宿を開始。昭和25年8月には金栗四三を監督とする「オリンピック・マラソンに優勝する会」が発足した。

合宿の効果は直ぐに現れ、昭和25年12月に広島で開催された「金栗賞朝日マラソン」で各選手は好成績を残した。

このとき、金栗四三は、秋田出身の山田敬蔵を発掘している。

そして、昭和26年4月に開催された第55回ボストン・マラソンに日本は初参加し、「金栗足袋」を履いた田中茂樹が2時間27分45秒の記録で優勝した。

田中茂樹は、広島出身だったことから、「原爆少年」の異名で世界を驚かせた。

その他の選手も上位に入賞し、日本陸上は華々しく国際舞台に復帰した。

このため、日本のマラソンは、国民の期待を背負って昭和27年(1952年)の第15回ヘルシンキ・オリンピックへに出場するが、原爆少年の田中茂樹が25位、山田敬蔵が26位、内川義高が棄権と惨敗に終わっていまう。

山田敬蔵がカナグリシューズで優勝

第15回ヘルシンキ・オリンピックへで日本のマラソンが惨敗したことから、国民の期待は失望に変わった。

これを受けた日本陸上連盟は、消極的になり、翌年のボストン・マラソンへの参加を中止すると言い出した。

金栗四三は日本陸上連盟の反対を押し切り、ボストン・マラソンを出場するのだが、日本陸上連盟が反対しているので監督のなり手が無く、自ら監督を務めた。

こうして、金栗四三(63歳)が率いる日本勢は、昭和28年(1953年)4月19日に開催された第57回ボストン・マラソンに参加した。

ところで、マラソン足袋「金栗足袋」を開発した金栗四三は、金栗足袋を進化させ、日本初の国産ランニングシューズ「カナグリシューズ」を開発していた。

愛弟子の山田敬蔵は、「カナグリシューズ」を履いて第15回ヘルシンキ・オリンピックに出場して、終盤にある「心臓破りの丘」を突破。2時間18分51秒という驚異的な世界新記録で優勝し、第15回ヘルシンキ・オリンピックの雪辱を果たした。

2時間18分51秒という記録は、新聞社が「10分間違えているのではないか」と確認の電話を入れるほどの大記録だった。

金栗四三は、山田敬蔵に駆け寄り、「山田君、ありがとう。山田君、ありがとう」と言って涙を流した。

こうして、山田敬蔵は、第15回ヘルシンキ・オリンピックで惨敗したという日本陸上界の汚名を見事に返上し、日本のマラソンここにありということを、世界に知らしめた。

さらに、昭和30年の第59回ボストン・マラソンで、浜村秀雄が2時間18分22秒の記録で優勝する。

こうして日本マラソンは世界の舞台で活躍したのだが、オリンピックでは活躍できず、オリンピックでメダルを取得するには、昭和37年(1962年)の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取得する円谷幸吉まで待たなければならない。

オリンピック世界最長記録

昭和42年(1967年)の春、スエーデンのオリンピック委員会から招待状が届いた。金栗四三が77歳のことである。

スエーデンのオリンピック委員会は、明治45年にステーデンで開催した第5回ストックホルム・オリンピックから55周年を迎えるにあたり、昭和42年3月に55周年記念行事として国際親善イベントを開催することになった。

そこで、第5回ストックホルム・オリンピックの記録を確認したところ、金栗四三の記録が抜けていることが判明したのである。

金栗四三は、第5回ストックホルム・オリンピックに出場して、26.7キロ地点で意識を失って棄権したたのだが、地元の農家ペトレ家で介抱され、その後、探しに来た仲間に連れられて宿に引きあげたので、協議本部には何も届け出ていなかった。

このため、金栗四三は「棄権」として処理されておらず、スエーデンのオリンピック委員会は、金栗四三に第5回ストックホルム・オリンピックを完走して欲しいと要請したのである。

金栗四三は思わぬ要請に喜び、55年振りにスエーデンへと渡り、農家ペトレ家を訪れ、55年前に介抱してくれたペドレ氏の息子にお礼を述べ、思い出話に花を咲かせた。

その後、車でストックホルムの記念球場へ向かい、金栗四三はユニホームに着替える間もなく、私服のままで、数十メートルを走ってテープを切り、55年ぶりにゴールしたのである。

すると、「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。記録は通算54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3であります。これで第5回オリンピック・ストックホルム大会は全ての日程を終了しました」というアナウンスが流れ、スタンドから拍手がわき起こった。

金栗四三は、拍手に答え、「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子供と10人の孫に恵まれました」とコメントした。

こうして、金栗四三は非公式ながら、5時間32分20秒3というオリンピックのマラソン最長記録保持者となった。

スポーツ界で初の紫綬褒章

金栗四三(75歳)は、マラソン界への貢献が認められ、昭和30年(1955年)11月3日に紫綬褒章を授章した。このとき、馬術の神様・遊佐幸平も紫綬褒章を授章している。

紫綬褒章を授章するのはスーツ界では、金栗四三と遊佐幸平が初である。

翌年の昭和31年(1956年)には、紫綬褒章の授章を記念して「熊日30キロ招待マラソン」を開催した。

そして、昭和33年(1958年)には朝日文化賞を受賞し、昭和37年(1962年)11月1日には玉名市名誉市民に選ばれた。

熊本走ろう会

昭和47年(1972年)1月、金栗四三らは相談し、年寄りを集めて、順位に関係無く、健康のためのマラソンを開催するため、「熊本走老会」を発足し、初代会長に就任した。

しかし、若い人たちも増えたので、「走老会」では都合が悪いということで「熊本走ろう会」へと改称した。

金栗四三の死去

金栗四三は熊本県玉名市小田で住みながら、ときどき、小学校でマラソンを教えていたが、昭和58年(1983年)11月13日に肺炎で死去。従五位銀杯が下賜された。享年93。生涯の走行距離は25万㎞(地球6周)と言われる。

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