漫才を名付けた橋本鐵彦(橋本鉄彦)の立志伝

「漫才」の名付け親である吉本興業の5代目社長を務めた橋本鐵彦(橋本鉄彦)の生涯を描く立志伝です。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)の生涯

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は明治37年(1904年)5月5日に大分県宇佐市で、父・橋本三郎の長男として生まれた。

しかし、これは戸籍上の誕生日であり、本当の誕生日は明治35年(1902年)3月21日で、戸籍上の誕生日と実際の誕生日が違うのは、ちょっとした理由がある。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)の父方の家系は広島県で藩主付きの儒学者という家系で、父・橋本三郎は東京工業大学を卒業して、大阪の大手メーカーに勤務した後、九州の播磨製鉄所に勤務した。

このとき、父・橋本三郎は親族夫婦の家の2階に下宿しており、下宿先の隣人が女性を紹介した。その女性が母であり、父と母の間に橋本鐵彦(橋本鉄彦)が生まれた。

しかし、父方の家系は藩主付きの儒学者の家系なのに対して、母は農家の娘だったので、両親に結婚を反対されてしまい、結婚は許されず、未婚のまま子供・橋本鐵彦(橋本鉄彦)を産んで同棲していた。

その後、母方の祖母が「子供が生まれて、もう一緒に暮らしているのだから」と取りはからってくれたので、ようやく父と母は正式に結婚できた。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)の本当の誕生日と戸籍上の誕生日が違う理由は、こうした経緯があったからである。

その後、日本大学時代に、日本大学側が徴兵検査のために神戸市役所に照会すると、誕生日が違う事が判明したので、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は学生監に呼び出され、「徴兵検査の年になったので照会してみたら、君は生年月日を偽って入学しているじゃないか」と怒られた。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は神戸市役所へ行き、事情を話すと、担当者は「略式裁判で簡単に直る。貴方を取り上げた産婆さんでも、居ればいいんだが、貴方の産婆さんはもう此の世に居ないかもしれない」と言った。

そこで、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は「徴兵逃れには、このままの方が良い」と考え、戸籍の誕生日を訂正しなかった。

このため、橋本鐵彦(橋本鉄彦)には、戸籍上の誕生日と本当の誕生日があり、普段は本当の誕生日を使い、正式な書類などを書くときは戸籍上の誕生日を使うようになった。

舞台の世界に

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、日本大学専門部社会科に進学しており、日本大学時代に新劇に夢中になり、脚本家の川村花菱や奥川夢郎の元に通い、脚本の書き方を学んだ。

(注釈:東京帝国大学出身という資料もあるが、橋本は日大出身であり、東大出身という資料は間違いである。)

さて、日本大学の同窓生に新劇の女優・五月信子の弟・前川成(まえかわやすし)が居り、前川成が五月信子に橋本鐵彦(橋本鉄彦)を売り込んでくれ、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が芝居の台本を書くことになった。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)が書き上げた台本を川村花菱に読んでもらうと、川村花菱が添削してくれたのだが、ほぼ全部書き直しだった。

ほとんど川村花菱の台本なのだが、五月信子は書き直しの台本で舞台をやってくれ、原稿料として20円くれた。

すると、前川成が売り込み料として10円よこせというので、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は前川成に10円あげた。

これが切っ掛けで、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、五月信子と高橋義信の手伝いをするようになり、大正12年(1923年)に日本大学を中退している。

吉本興業に入社

昭和7年(1932年)、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が東京・浅草で、松竹の「新声劇」で舞台監督をしていたとき、吉本興業が「新声劇」を買い、浅草の昭和座を借りて興行した。

このとき、オーバーの襟を立てステッキを持った、ふてぶてしい顔をした男が、楽屋の入り口の椅子に腰を掛けていた。土足厳禁なのに、男は土足だった。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、浅草のヤクザの親分だと思ったので、こういう人には深入りしてはいけないと考えたが、言うだけのことは言わなければいけないと思い、「ここに土足厳禁と書いてあるでしょ」と注意した。

すると、男はむっとした顔で出て行った。

後で、昭和座の頭取が来て「あの人は大阪から見えている小屋主・吉本の偉い人なんですよ」と教えてくれた。

どこからどうみてもヤクザにしかみえなかったが、やくざ風の男の正体は、吉本興業の総支配人・林正之助だったのである。

その後も、吉本のショーの手伝いをしていると、吉本興業の東京支配人・林弘高から、「実は正之助が君を見込んだらしい。気骨のあるやつだ、大阪に寄越せと言われた。正之助から言われたら、東京で一緒に仕事をやってもらうわけにはいかない」と言われた。

それからしばらくして、吉本に入る、入らないは別にして、一度、大阪に行ってくれと頼まれ、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は大阪へと向かった。

大阪に着いた橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、吉本興業の事務所へ行った後、創業者・吉本せい(林せい)に挨拶するため、落語家に連れられて吉本家の本宅を訪れた。

すると、吉本せい(林せい)から「貴方のことは林(正之助)から聞いている。私は今まで林の前を歩いていましたが、これからは林の後ろを歩きます。従って、貴方が林の相談相手になって言うことは言って下さい」と頼まれた。

こうして、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は昭和7年10月に吉本興業に入社したのである。

東京帝国大学(東大)を出ても月給50円という時代に、林正之助は月給70円をくれたうえ、給料とは別に林正之助が3円をくれた。

このころ、洋服を着ていたのは橋本鐵彦(橋本鉄彦)と中谷だけで、みんな和服だったので、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は林正之助に「貴方はゴルフの服装の写真があるじゃないか。あの服装をしたら行動するのに楽でしょう」と言い、洋服を着るように勧めた。

すると、林正之助は橋本鐵彦(橋本鉄彦)の助言を聞き、寄席や劇場の主任連中の服装を洋服に替えさせた。

また、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が帳簿も筆書いているようでは仕事にならないと助言すると、林正之助は橋本鐵彦(橋本鉄彦)の言う事には素直に従い、寄席や劇場を改革した。

このため、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、寄席や劇場の支配人や主任から嫌われた。

エンタツ・アチャコの早慶戦を目撃

漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の野球ネタ「早慶戦」は、昭和8年10月22日起きた「水原リンゴ事件」を観戦して作られたネタだとされている。

しかし、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は昭和8年正月過ぎに、南地花月(法善寺花月)で、「エンタツ・アチャコ」の野球ネタ「早慶戦」を見ている。

このため、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、横山エンタツは野球好きなので、野球ネタ「早慶戦」を作り、やっていたところに、「水原リンゴ事件」が起きたので、「水原リンゴ事件」の後にネタを処理して練り上げたのではないかと推測している。

なお、他にも「水原リンゴ事件」よりも前に「エンタツ・アチャコ」の野球ネタ「早慶戦」を観たという証言があり、野球ネタ「早慶戦」には漫才作家・秋田實(秋田実)の手が入っているとされている。

漫才と命名

昭和7年10月に吉本興業に入った橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、吉本の寄席を廻って勉強し、昭和8年(1933年)1月に「文藝部」「宣伝部」「映画部」を設立して、3部門の統括する責任者になった。

ところで、元々、漫才は「萬歳」「万歳」と表記し、正月を祝う門付けの芸だったが、明治時代の後半に江州音頭の玉子屋円辰が「萬歳」から祝い事という要素を排除し、演芸としての「万歳」を確立した。

この「万歳」は、歌や踊りの間に「喋り」を挟むというスタイルが一般的で、「万歳」のメーンは歌や踊りであり、「喋り」は添え物だった。

しかし、昭和5年5月に結成した「エンタツ・アチャコ」が、「万歳」から歌や踊りを排除し、添え物だった「喋り」だけで構成した「喋くり万歳」を確立し、これを「2人漫談」と称して舞台に上がっていた。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、「エンタツ・アチャコ」の「喋くり万歳」を観て、「もはや万歳ではない」と考え、「万歳」に変わる新しい名称を付けることにした。

そして、社内で「万歳」の新名称を募集して、「モダン萬歳」「滑稽コント」「ユーモア対話」「二コニコ問答」などの名称があがったが、今ひとつだった。

このころ、トーキ映画の登場によって、活動写真時代に活躍していた弁士が失業し、失業した弁士が「漫談」を名乗り、大辻司郎や徳川夢声が漫談家として活躍していた。

そこで、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、「漫」の字なら何にでも使えると考え、「万歳」の表記を「漫才」とすることに決め、吉本興業の「文藝部」から発行する「吉本演芸通信」で、「万歳」から「漫才」へと表記を変更する事を発表したのである。

これは、漫才を発掘して育てた吉本興業の林正之助に相談しておらず、林正之助には事後承諾させる形だったが、林正之助は橋本鐵彦(橋本鉄彦)の言う事は無条件に受け入れた。

一方、万歳師は歴史のある「万歳」の表記を変えることに反発し、芸人を代表として漫談の花月亭九里丸(渡辺力蔵)が苦情を言いに来た。

しかし、既に万歳に祝い事の要素など無く、三流で下品で低俗な芸に成り下がっており、万歳師など差別される職業だったので、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が言って聞かせると、花月亭九里丸(渡辺力蔵)は「漫才」という表記に納得し、芸人やメディアへの説得を引き受けた。

花月亭九里丸(渡辺力蔵)は、発音が不明瞭なうえに早口だったので、芸人としてはイマイチだが、吉本芸人のプロデューサー的な存在だったので、「漫才」という表記に反対していた芸人らは、花月亭九里丸(渡辺力蔵)が言うのなら、ということで、「漫才」という表記を受け入れた。

しかし、メディアの抵抗は強く、「漫才」という表記は簡単には普及せず、「漫才」が定着するまで数年を要することになる。

なお、林正之助が「万歳」を「漫才」という表記に変えたという説があるが、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は「変えたのは私です。(中略)それで、漫才に表記を改めるよう正之助の了解をとったんです。東京から引っ張ってきただけに、正之助は私の言ったことを何でも鵜呑みにしてくれました」と明言している。

林正之助はなんでも自分の手柄にしてしまうので、皇軍慰問団「わらわし隊」という名称を考案したのも林正之助という資料もあるが、実際に「わらわし隊」を考案したのは、長沖一だとされている。

吉本の頭脳陣を形成

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、「エンタツ・アチャコ」の漫才に衝撃を受け、「エンタツ・アチャコ」のネタをノートにメモしたのだが、後から読んでも面白くないので「これが漫才か」と驚いた。

そこで、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、「エンタツ・アチャコ」の横山エンタツにネタの解説をしてもらい、それを原稿にまとめ、週刊朝日の大久保恒次に持ち込んだが、朝日新聞に漫才なんて載せられないと断られた。

しかし、直ぐに大久保恒次が、「この前は原稿を突き返したが、週刊朝日にイエローページが出来たので、埋め草代わりに使いたい」と言ってきた。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は感謝して掲載を頼むと、これが評判が良かったので、今度は毎日新聞の上田長太郎が原稿を欲しいと言ってきた。

このため、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、漫才には台本が大事だと気付き、朝日新聞で面白い解説を書いていた秋田實(秋田実)に目を付けた。

このとき、既に秋田實(秋田実)は毎日新聞の文芸委員・白石凡の紹介で「エンタツ・アチャコ」と会っており、「エンタツ・アチャコ」などに台本を書いていたが、橋本鐵彦(橋本鉄彦)はそのことを知らなかったのだろう。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は朝日新聞の人を通じて、秋田實(秋田実)を招いたが、秋田實(秋田実)は「名前も知らない人に会ってもしょうが無い」と断ってきた。

しかし、諦めきれない橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、藤沢桓夫や毎日新聞の山口廣一などの協力を得て、秋田實(秋田実)に会い、「今度、文芸部と映画部と宣伝部を作って、私がその担当部長になる。だから吉本へ入っても普通の社員とは遭う。私の手伝いのつもりで来ればいい。小遣いぐらいとれるんだから。自由にやったらいい」と説得し、何とか口説き落とした。

そして、秋田實(秋田実)が吉本興業に入ると、文芸春秋で小説を書こうとしている長沖一という友人が居るから、一緒に面倒を見て欲しいというので、東京に居た長沖一を呼び寄せて、吉本興業に招いた。

さらに、京都帝国大学出身の吉田留三郎なども招き入れ、吉本興業の頭脳陣を形成し、頭脳陣が漫才の台本を書いた。

ただ、長沖一は、漫才の台本は書かず、「漫才の相談所」という表札を上げ、芸人の相談相手になっていた。

しかし、寄席や劇場の支配人らは「こっちは大学を出ていなくても興行に関しては博士だ」と言って、吉本興業に誕生した秋田實(秋田実)を含めた頭脳陣を嫌った。

吉本興業のラジオ解禁

大正14年に始まったラジオ放送は、昭和3年11月に行われる昭和天皇の即位式を全国放送するため、急速に発展し、全国各地に中継放送網を構築した。

こうして、昭和に入ってラジオが普及してくると、演芸界は「無料で落語が聞けるようになれば、誰も寄席に来なくなる」という懸念が広まった。

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、ラジオに対して非常に強い危機感を持っており、所属芸人に吉本興業が指定する場所以外での出演を禁じ、吉本興業に無断で出演した場合は、借金を全額返済するという念書を取るという厳しい措置を講じた。

しかし、昭和5年(1930年)に落語家の初代・桂春団治が吉本興業の禁を破って、ラジオに無断出演したので、吉本興業は初代・桂春団治に差し押さえを執行するという事件があった。

このとき、吉本興業は初代・桂春団治を出演させたJOBK(NHK大阪)に対しても厳しい対応を取り、JOBK(NHK大阪)も吉本興業のギャラ搾取などを暴露して応戦したため、両社は険悪な関係になった。

JOBK(NHK大阪)は、吉本興業と対立する一方で、JOAK(NHK東京)と激しく競い合っていたが、大阪の演芸界を牛耳る吉本興業を欠いており、演芸番組の充実が難しかった。

そこで、JOBK(NHK大阪)は、昭和9年に人気漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」に目を付け、「エンタツ・アチャコ」をラジオ放送に出演させようと考えて動いた。

吉本興業の林正之助は、依然としてラジオ放送に対して強い危機感を抱いていたが、東京の方では、ラジオ放送の翌日に客が増えることが分かり始めていた。

そこで、JOBK(NHK大阪)に賛同する形で、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は「今後の経営を考えるのなら、ラジオの力を認めないわけには行かない」と林正之助を説得し、林正之助にラジオ解禁を認めさせた。

林正之助は橋本鐵彦(橋本鉄彦)の言う事は何でも認めたので、寄席の支配人や主任らは、「御大(林正之助)は東京から連れて来た奴(橋本鉄彦)の言うことやったら聞くんやな」と、これ見よがしに嫌味を言った。

こうして、昭和9年(1934年)6月10日にJOBK(NHK大阪)が、「エンタツ・アチャコ」の出演する法善寺の「南地花月」の寄席を中継放送した。

しかし、JOBK(NHK大阪)は、「漫才」という表記を使用する事を拒否したので、「エンタツ・アチャコ」は「2人漫談」として出演し、野球ネタの「早慶戦」をやった。

この間に、吉本興業は、漫才の東京進出を果たし、昭和9年(1934年)4月に東京・新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催した。このとき、東京で初めて「漫才」という表記が使用された。

徴兵の思い出

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、赤紙(召集令状)ではなく、白紙(徴用令状)で、姫路の39連隊に入隊し、8ヶ月目に中国の瀋陽へ補充兵として派遣された。このとき、中学を卒業していたことから、上等兵に出世した。

その後、戦時に応召されたとき、入隊の日付で、伍長に出世して本隊に配属された。

しかし、秋田實(秋田実)は何も経験していないので、戦闘名簿を確認した准尉から「お前みたいなやつは当隊の邪魔者だから、大隊本部との連絡係をやれ」と命じられ、連絡係となった。

連絡係は、本部へ行って連絡を聞いてくるだけなので、非常に楽だったうえ、安全だったので、連絡係のおかげで戦争で命を落とさずにすんだ。

吉本の慰問団

橋本鐵彦(橋本鉄彦)の部隊が広東を攻略して三水という所へ進撃したとき、吉本興業の芸人が戦地慰問に来た。

吉本興業は皇軍慰問団「わらわし隊」などを派遣していたが、この慰問団は四国の会社が吉本興業から芸人を借りて戦地慰問団として派遣したものだった。

この戦地慰問に来た芸人が、酔っ払って、「捕虜を殺して見せてくれ」と無理を言って兵士を困らせた。

それを聞いた橋本鐵彦(橋本鉄彦)が行ってみると、吉本興業の芸人だったので驚き、「大阪に報告するぞ」と叱って、吉本興業の芸人を水たまりに叩きつけた。

ところが、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、部隊長から「慰問に来た芸人に、そんなことをするとは、なんたることだ」と、こっぴどく怒られてしまった。

その後は、橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、戦闘詳報を記録する部隊本部勤務なり、戦闘の詳細を記録した。

戦後の吉本興業

吉本興業は、戦争で全ての寄席や小屋を失ったので、林正之助は退職金代わりに借金を棒引きし、全芸人を解雇した。

しかし、ドケチの花菱アチャコは、吉本興業の芸人が自分だけになれば、仕事が来たときに仕事を独占できると考え、頑として首を縦に振らず、「行く所もおまへん、残しとんなはれ」と懇願して吉本興業に残った。

こうして、吉本興業は演芸を捨て、戦後はキャバレー「グランド京都」と映画館の経営で戦後の復興を遂げる。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、吉本興業に残った花菱アチャコの為に映画や舞台の仕事を作り、花菱アチャコをフル活用した。

吉本興業が演芸に復帰

昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が勃発して、日本に居た米兵が去ったため、吉本興業のドル箱だった米軍将校の慰安所「キャバレー・グランド京都」は昭和27年(1952年)1月に営業を終えた。

また、テレビの登場によって映画業界は傾き始めており、映画館を経営する吉本興業に陰りが見えていた。

このようななか、松竹が、映画館にしていた道頓堀の角座を漫才寄席として再開するというニュースが飛び込んで来た。

実は、戦前の吉本興業に居た漫才作者・秋田實(秋田実)が戦後、漫才の復権に奔走しており、松竹が秋田實(秋田実)に協力を要請していた。

要請を受けた秋田實(秋田実)は、いきなり角座で失敗すれば、二度と漫才の復権は出来ないと考え、小手調べとして、昭和33年(1958年)3月に道頓堀の中座で、ミスワカナの13回忌追善興行「漫才顔見世大会」を開催したのだ。

この「漫才顔見世大会」が大成功したので、松竹は映画館にしていた道頓堀の角座を漫才寄席として再開し、秋田實の「上方演芸」と勝忠男の「新生プロ」を合併させ、「松竹新演芸」(後の松竹芸能)を発足したのである。

この動きを察知した吉本興業の事業部長・八田竹男は、林正之助に演芸復帰を訴えるが、林正之助は「映画がダメになったわけではない」と言い拒否した。

しかし、事業部長・八田竹男は、橋本鐵彦(橋本鉄彦)や中邨秀雄と作戦を練り、秘策を考えていた。

朝日と毎日は、犬猿の仲だったが、放送免許の関係で、昭和31年に民放テレビ局「大阪テレビ」を設立していた。

しかし、朝日と毎日の険悪な関係はいかんともしがたく、放送免許の問題が解決すると、「大阪テレビ」は朝日放送と毎日放送に別れる事になった。

このとき、後発組になる「毎日放送」は、どこの芸能事務所とも提携していなかったので、吉本興業は毎日放送と提携して演芸に復帰するという作戦を立てたのである。

この秘策でなんとか林正之助を説得し、吉本興業は演芸復帰を決め、昭和34年3月1日の毎日放送の放送初日に、映画館だった「うめだ花月劇場」から「吉本ヴァラエティ・アチャコの迷月赤城山」(後の吉本新喜劇)を放送した。

初日は入場者17人だったので、林正之助は「お前ら吉本を潰す気か。腹を切れ」と激怒したが、番組中に「うめだ花月劇場から放送中」というテロップを入れると、次第次第に入場客は増えていき、昭和35年の正月には入場数600人の「うめだ花月劇場」に3500人を動員した。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)の死去

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は、林正之助の右腕として活躍し、吉本興業が公式な場に出るときは、林正之助の代わりに出席した。

そして、昭和38年に林正之助が入院を余儀なくされると、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が代表取締役専務に就任して、林正之助の代役を務めた。

その後、林正之助は症状が悪化したため、「東京吉本」として吉本興業から独立していた弟・林弘高を招いて、吉本興業の3代目社長を任せた。

林弘高は東京からスタッフを連れて来て、しかも演芸を軽視したため、吉本興業の演芸派の橋本鐵彦(橋本鉄彦)・八田竹男・中邨秀雄らと激しく対立する。

林弘高は演芸を軽視してボーリング場の経営など多角化を進めるが、昭和41年に脳軟化症で倒れ、昭和44年4月に社長を辞任し、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が社長代行を勤めた。

林正之助は「マーキュリーレコード乗っ取り事件」で逮捕されていた関係で直ぐには復帰できず、昭和45年5月に4代目社長として復帰する。

そして、林正之助が昭和48年(1973年)5月に会長へと退くと、橋本鐵彦(橋本鉄彦)が「創業一族以外として初」の社長として、吉本興業の5代目社長に就任した。

橋本鐵彦(橋本鉄彦)は4年間、社長を務めたが、昭和52年に社長を八田竹男に譲り、相談役へと退き、昭和54年には監査役に就任した。

その後も橋本鐵彦(橋本鉄彦)は演芸界の重鎮、吉本興業の生き字引として活躍していたが、平成13年(2001年)4月9日に脳梗塞で死去した。戸籍上では享年98、本当の誕生日では享年100歳。喪主は長男・和彦が務めた。

なお、橋本鐵彦(橋本鉄彦)の関係者の生涯を知りたい方は、「わろてんか-吉本せいの関係者の立志伝」をご覧ください。

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