カムカムエヴリバディのモデル平川唯一の立志伝

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のモデルとなる平川唯一(ひらかわ・ただいち)の立志伝です。

平川唯一の立志伝

平川唯一は明治35年(1902年)2月13日に岡山県上房郡津川村(岡山県高梁市津川町)で、農家の次男として生まれた。

平川唯一は、津川尋常高等小学校を卒業して実家の農業に従事した。初めは母親に手伝ってもらっていたが、14歳からは大人同然として働くようになり、休日も無く、朝早くから夜遅くまで働いた。

遊びたい年頃だったが、周りの子供達も同じように、朝早くから夜遅くまで働いていたので、苦しいとも酷いとも思わなかったという。

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渡米

父親は出稼ぎ移民としてアメリカに渡っており、1度は帰国したのだが、それっきり、帰ってこなかった。

平川唯一は、母親も寂しいだろうと思い、アメリカので働いている父親に「帰ってこなければ、こちらが行く」という脅しの手紙を書くと、父親から「交通費くらいは出してあげるので、アメリカに来なさい」という予想外の返事が来た。

そこで、平川唯一は兄・平川寿美雄と話し合い、兄・平川寿美雄と共にアメリカに渡った。16歳の事である。

もし、このとき、アメリカに渡っていなければ、平川唯一は一生、岡山の山奥で、農業をしていたかもしれないと語っている。

アメリカ生活

アメリカに渡った平川唯一は、父親と一緒に鉄道の仕事をした。1年ほどして、ようやく父親を説き伏せ、母親が待つ岡山県へ帰国させ、当初の目的を達成した。

しかし、平川唯一は、せっかくアメリカへ来たのだから、1年で帰るのは勿体ないと考え、アメリカに残り、シアトルの日本人向け商店で店員として働き始めた。

ところが、日本人向けの商店と言っても、アメリカ人も来るし、日本人でも英語混じりで用件を言うので、英会話ができなければ仕事にならない。

そこで、平川唯一は仕事が終わると、夜学に行ったり、日本語で書いてある英語の手引きを読んで英語を勉強した。

夜学の行き帰りに、刑務所の横を通るのだが、刑務所の横を通る度に、中の囚人が英語で話しかけてくる。

平川唯一は、これは生きた英語を練習するにはちょうど良いと思い、夜学の行き帰りに、囚人を相手に、学んだばかりの英語を使って英会話の練習をするようになった。

しかし、しばらくすると、看守のおまわりさんに見つかってしまい、厳重に注意され、英語の練習相手を失ってしまった。

結局、平川唯一は1年ほど頑張ってみたが、思うように英語が上達しなかったので、思いきって仕事を辞め、アメリカ人のハモンドさんという家に、住み込みのスクールボーイ(書生)として置いてもらった。

すると、ハモンドの奥さんが、アメリカの名前を付けた方が呼びやすいということで、「ハリー」「ジェームス」「デット」などの名前を並べ、平川唯一に好きな選びなさいと言った。

どの名前もピンと来なかったのだが、奥さんが最後に「ジョー」という名前を言ったので、平川唯一は新島襄を連想し、アメリカ名を「ジョー」に決めた。

平川唯一は、新渡戸稲造などの国際的に活躍した人の伝記を読むのが大好きで、脱国してアメリカに渡り、後に帰国して同志社大学を創立した新島襄を尊敬していたのである。

(注釈:新島襄の妻・山本八重は、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれ、NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなっている。)

小学校に入学

住み込みのスクールボーイとなった平川唯一は、17歳でスーウェド小学校に入学し、6歳の子供達と一緒に英語を学んだ。

日本人は勤勉で低賃金でも真面目に働くことから、アメリカでは排日運動が起きていたが、さいわい、平川唯一は差別されることなく、みんなに受け入れられ、同級生からも先生からも親切にしてもらえ、6歳の同級生と遊びながら生きた英語を学んでいった。

さて、平川唯一は日本の尋常小学校を卒業しているので、英語以外は問題が無く、その学年の英語が話せるようになると、飛び級で進級していき、8年通う小学校を3年で卒業して、高校(ブロードウェイ・ハイスクール)へと進学した。

ただし、小学校を半年ほどで卒業する日本人も居るので、3年で小学校を卒業するというのは早いとは言えない。

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高校入学と雄弁大会

ブロードウェイ・ハイスクールへと進学した平川唯一は、驚いた。同級生は年下なのだが、堂々と意見を言い合い、あたかも自分よりも年上のようだったのである。

さらに、平川唯一は高校の恒例行事である雄弁大会を観て感心し、自分も卒業までに雄弁大会に出場するという目標を立て、英語の勉強に励んだ。

その雄弁大会は、歴史的な演説や小説の一節を選んで、効果的に力強く表現するかを競う大会で、毎年、100人以上が大会に申し込み、3会の予選を経て5名が決勝戦に出場できるというものだった。

平川唯一は、雄弁大会の決勝を目指すため、英語の勉強に励み、4年生の時に弁論大会にエントリーした。

そして、平川唯一は毎晩9時になると、民家も人気も無い荒野の丘の上へ行き、大声で演説の練習をしていた。

すると、ある日の夜、パトカーがサイレンを鳴らして近づいてきて、パトカーから下りてきた大男の警察官が、「そこで何をしているんだ」と質問してきた。

平川唯一が「何もしていませんよ」と答えると、警察官は「嘘をつくな。毎晩、警察に電話がかかってきて、丘の上でキチガイが叫んでいるので、なんとかして欲しいというので、捕まえに来たんだ」と告げた。

すると、平川唯一は高校の雄弁大会に出場するので、スピーチの練習をしていたのだと説明すると、偶然にも警察官は同じ高校の卒業生だったので、「しっかり頑張りなさい。健闘を祈っている」と言い、帰って行った。

こうして、平川唯一は無事に練習を続けることが出来たのだが、翌日、丘の上での一件が新聞に載ったので、学校で冷やかされ、恥ずかしい思いをしたのだった。

さて、弁論大会にエントリーした平川唯一は、英語を母国語とする同級生たちを押しのけて、3回の予選を勝ち抜き、決勝戦に進出した。

流石に優勝する事はできなかったが、審査員3人のうち1人が1位に投票してくれたので、平川唯一は結果に満足し、ハイスクールを卒業すると、ワシントン大学へと進学した。

大学で演劇科に転向

平川唯一は、喋るのが苦手で、一人で黙々と作業する事が好きだったことから、トーマス・エジソンのような発明家になろうと思い、大学では物理学を専攻した。

しかし、1年の学期の成績はAだったものの、2学期はBに落ち、3学期にはCに落ちてしまった。

このため、一番得意な物理学がこれではお先真っ暗だと思い、色々と思案した末に、2年生の1学期からは演劇科へと鞍替えした。

そして、演劇科の発生学で正しい発音を学んだり、脚本を書く技術などを学んだりして、大学の近くの小劇場で舞台「ペール・ギュント」に初出演し、「ツロール・キング」という役を演じた。

この舞台「ペール・ギュント」が小劇場始まって以来の大ヒットとなり、平川唯一も2ヶ月以上、舞台に出演し、昭和10年に首席でワシントン大学を卒業した。

結婚と帰国

平川唯一はワシントン大学を卒業すると、ロサンゼルスへと移り、セントメリーズ・チャーチ教会の副牧師となり、日本文化の普及に務め、昭和11年に現地で日本人女性・滝田ヨネと結婚した。

その一方で、パサディナ小劇場の舞台に出演し、一流の映画俳優と共演した。また、ハリウッド映画「マダム・バタフライ」にも出演した。

そして、昭和12年、平川唯一は長男が誕生したことを切っ掛けに帰国し、NHKラジオの入社試験を受けた。

しかし、平川唯一は、英語のニュースもニュースの解説も注意して見た事がないうえ、ニュース原稿も書いて事がない。

そこで、ヤマをかける事にして、試験当日に朝早く起き、ニュースの責任者になったつもりで、その日の朝刊を読み、海外放送に使えそうなニュースを探したが、その日に限って海外放送に使えそうなニュースは無かった。

しかし、その日の社説は当時の世界情勢を上手く捉えていたので、この社説を海外向けのニュースにアレンジして英語に翻訳した。

すると、その日の試験で、新聞の社説を海外向けニュースに翻訳する問題が出た。

こうして、平川唯一は、見事にヤマが的中し、受験者50数人のなかから、2名の合格者に選ばれ、昭和12年にNHK国際放送のチーフアナウンサーとなり、外国向けのニュースを担当した。

そして、戦時中も海外向けのニュースを担当し、終戦時には、玉音放送を文語調に英訳して、諸外国に向けて朗読放送。GTQのマッカーサーの放送要員も務めた。

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戦後のカムカム英会話

終戦に伴い、外国放送が廃止されたので、平川唯一は昭和20年の秋にNHKを退職し、1ヶ月ほどのんびりとしていたとき、NHKの教養部から英会話放送を担当して欲しいという依頼があった。

平川唯一は、深く考えずに英会話放送を引き受けたのだが、英会話教育については素人だったので、どのような教材を使って、どのように教えればよいのか分からない事に気付き、慌てふためいて、死に物狂いで考えた。

すると、自分は全く英語を喋る事が出来なかったが、大人になってから、アメリカの小学校へ入学して、小さな子供達と一緒に遊びながら英語を学んで、英語を話せる様になった事を思い出した。

そして、それは英語の勉強というよりも、言葉遊びだったことに気付き、赤ちゃんになったつもりで言葉遊びをするという勉強方法を思いついた。

さらに、当時の日本は敗戦の影響で暗かったので、英会話放送で日本の国民を明るく楽しくしたいと考えた。

こうして、平川唯一は、昭和21年2月からNHK第一放送で英語会話講座の放送を開始し、明るくてユーモアに富む英会話の講義を行い、英会話ブームを起こした。

また、平川唯一は、動揺「証城寺の狸囃子」の替え歌で、テーマ曲「カム・カム・エブリバディ」を作詞して、英会話放送で流した。

すると、日本の国歌「君が代」を歌えない子供は居ても、「カム・カム・エブリバディ」を歌えない子供は居ないと言われるほどになり、英会話講座は「カムカム英会話」と呼ばれ、平川唯一は「カムカムおじさん」と呼ばれて人気となった。

その後

戦後に起きた英会話ブームは終焉を迎え、平川唯一のNHKの英会話講座も昭和26年2月に終了した(放送期間は5年)。

昭和26年12月にラジオ東京で英会話講座を再開するが、聴取率は低迷。その後はニッポン放送に移って英会話講座を続けたが、昭和30年に番組は打ち切りとなった。

昭和32年に太平洋テレビに入り、国際部長を経て副社長に就任。昭和51年には勲五等双光旭日章を受章した。

昭和56年(1981年)には「みんなのカムカム英語」を出版して健在ぶりを示したが、平成5年(1993年)8月25日に死去した。93歳だった。

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