サンヨー食品の創業者・井田毅と井田信夫の家系図

即席ラーメン「サッポロ一番」で有名なサンヨー食品を創業した井田家の家系図の紹介と解説です。

サンヨー食品の創業者の家系図

サンヨー食品の創業者・井田毅の家系図

井田家の家系

サンヨー食品を創業した井田家は、群馬県佐波郡玉村町で、宝永2年(1705年)から続く老舗の酒造メーカー「井田酒造」を営む地元の名士という家系である。

井田家の家督は、田金七の長男・井田聡一郎が家族を相続したが、一家総出で家業「井田酒造」を営んでおり、6男(7人兄弟の6番目)の井田文夫が実質的な経営者だったという。この井田文夫が後に富士製麺(サンヨー食品)を創業することになる。

さて、昭和5年(1930年)に昭和恐慌で家業「井田酒造」の経営が傾くと、井田文夫は新天地を求めて独立し、昭和8年(1933年)に群馬県前橋市千代田町で酒造販売「泉屋酒店」を開業した。

このころ、組合で酒の値引き販売はしないという約束があったが、井田文夫は新参者が普通に商売をしていても勝てないと考え、値引き販売はしないという組合の約束を無視して、安売りをした。

このため、泉屋酒店は組合から除名されたが、安売りが成功して「泉屋酒店」は大いに繁盛した。

戦後はキャバレーなどの登場により、泉屋酒店は取引量を増やし、北関東で最大の酒販売店へと成長したが、飲み屋は倒産や夜逃げも多いので、売り上げが増えても、利益は増えないというジレンマに陥っていた。

そのようななか、親族の細渕久雄が乾麺事業を廃業することになり、井田文夫は細渕久雄の乾麺事業を継承して、昭和28年(1953年)11月30日に群馬県前橋市新町(前橋市朝日町)で「富士製麺」を創業した。この「富士製麺」が後の「サンヨー食品」である。

群馬県は日本でも有数のうどんの産地で、乾麺の激戦区だったため、井田文夫は新潟県へ販路を求めて成功し、富士製麺を群馬県でも1位・2位を争う乾麺製造業者へと成長させたが、昭和33年に登場した即席麺(インスタントラーメン)には懐疑的だった。

即席麺(インスタントラーメン)の将来性を見抜いたのは、井田文夫の長男・井田毅(いだ・たけし)だった。

井田毅の略歴

井田毅(いだ・たけし)は、昭和5年(1930年)1月13日に群馬県佐波郡玉村町で、井田文夫の長男として生まれた。母は井田きくである。

父・井田文夫は、井田家が営む老舗の酒屋「井田酒造」の実質的な経営者だったが、昭和5年に起きた昭和不況で家業の「井田酒造」が傾いたため、新天地を求めて分家し、昭和8年(1933年)に群馬県前橋市千代田町で酒造販売「泉屋酒店」を開業して独立した。

母・井田きくは、群馬郡箕輪町の箕輪城で城代家老を務めた名門・下田家の出身である。

さて、終戦直後は食べるものにも困る有様で、大学へ通うような時代ではなかったが、井田毅は父・井田文夫の勧めで巣鴨経済専門学校(千葉商科大学)へ進学し、卒業後は家業の「泉屋酒店」に就職した。

その後、親族・細渕久雄から乾麺事業を引き継いで、昭和28年(1953年)11月30日に群馬県前橋市新町(前橋市朝日町)で「富士製麺(サンヨー食品)」を創業した。父・井田文夫が社長で、井田毅は専務だった。

そのようななか、井田毅は、昭和33年に日清食品の安藤百福(呉百福)が発売した即席麺「チキンラーメン」を食べて将来性を感じ、即席麺への参入を提案するが、父・井田文夫ら関係者から反対されて断念する。

しかし、乾麺大手の明星食品や群馬県の乾麺業者が続々と即席麺へ参入すると、反対していた父・井田文夫らの考えも変わり始めた。

そこで、井田毅は、東京の酒問屋「太田商店」に修行に出ていた弟・井田信夫と話し合い、井田毅が製造を担当し、弟・井田信夫が販売を担当するということで、即席麺への参入を決め、昭和35年に即席麺の研究を開始した。

そして、昭和36年(1961年)4月に即席麺の販売を開始し、群馬県高崎市に即席ラーメンを作る同じ名前の「富士製麺」があったことから、昭和36年(1961年)7月に「富士製麺」から「サンヨー食品」へと社名を変更した。

しかし、即席麺が全く売れなかったため、即席麺に新規参入する水産加工「日魯漁業(ニチロ)」の下請けを経て、昭和38年(1963年)7月にサンヨー食品のオリジナル商品「ピヨピヨラーメン」を発売した。

そして、サンヨー食品の井田毅は、昭和39年(1964年)8月に発売した業界で初の塩味の即席麺「長崎タンメン」を大ヒットさせた。

この「長崎タンメン」の大ヒットにより、サンヨー食品は大阪にも進出し、日清食品・明星食品・エースコックと並ぶ4大メーカーに躍進した。

さらに、サンヨー食品の井田毅は、札幌ラーメンを参考にして、昭和41年(1966年)1月に「サッポロ一番しょうゆ味」を発売。さらに札幌の味噌ラーメンをヒントにして、昭和43年(1968年)9月に「サッポロ一番みそラーメン」を発売した。

サンヨー食品は「サッポロ一番」シリーズで攻勢をかけ、昭和46年には日清食品を抜いて業界トップに輝いた。

その後、日清食品が「カップヌードル」を発売して、業界トップに返り咲くが、サンヨー食品は袋麺では業界1位をキープしており、「カップの日清、袋のサンヨー」と呼ばれた。

昭和50年10月23日に父・井田文夫が脳卒中(脳溢血)で死去すると、井田毅が社長に就任し、弟・井田信夫が社長に就任した。

不動産投資に失敗したエースコックの創業者・村岡慶二から相談を受けると、昭和56年(1981年)7月にサンヨー食品がエースコックの発行株式6割を取得してエースコックを傘下に収めた。

また、昭和57年(1982年)7月に市原ゴルフクラブを取得し、ゴルフ場の経営にも乗り出した。

その後、井田毅は、間質性肺炎で倒れたことを切っ掛けに、平成10年(1998年)6月の株主総会で、長男・井田純一郎に社長を譲って相談役へと退き、サンヨー食品を長男・井田純一郎に任せて、出社も止めた。

しかし、平成11年(1999年)4月に中国の即席ラーメン王者「頂益(現在の康師傅=カンシーフ)」が経営危機に陥っているというニュースが飛び込んでくると、井田毅は戦線に復帰し、「頂益(康師傅)」を支援して、「頂益(康師傅)」を傘下に収めた。

こうして、井田毅は世界シェア推定1位のサンヨーグループを築き上げたが、平成25年(2013年)8月20日に肺炎で死去した。83歳だった

妻・柴崎喜代子の略歴

井田毅の妻・柴崎喜代子は、昭和10年に群馬県北群馬郡吉岡町で柴崎源喜の長女として生まれた。母は柴崎千代である。

柴崎源喜は、大正3年(1914年)に創業した老舗の酒造業「柴崎酒造」を営む地元の名士である。柴崎酒造は現在も続いており、賞にも選ばれ、雑誌などにも登場する名門である。

柴崎喜代子は渋川女子高校を卒業して、昭和33年に井田毅と見合い結婚した。

柴崎喜代子が井田毅と結婚した2年後に、井田毅がインスタントラーメンの開発に着手したので、料理の得意な柴崎喜代子はスープ作りを担当した。

井田喜代子は、絶対味覚のようなものをもっており、味見をしただけで何が足りないのか分かったといい、サンヨー食品のインスタントラーメンの味が良いと言われるのは、井田喜代子の味見を受けて洗練されるからである。

長男・井田純一郎の略歴

サンヨー食品の三代目社長となる井田純一郎は、昭和37年(1962年)3月10日に井田毅の長男として生まれた。母親は井田喜代子である。

井田純一郎は、前橋高校を卒業して立教大学へ進学。サンヨー食品を継ぐことは考えておらず、立教大学を卒業後は富士銀行に勤め、課長代理まで出世した。

しかし、父・井田毅が平成3年(1991年)に大腸癌の手術を受けることになったため、富士銀行を辞めてサンヨー食品に入社することを決めた。

さいわい、父・井田毅は手術が成功して回復したので、井田純一郎は富士銀行を辞めるのは早いかもしれないと思ったが、予定通りに富士銀行を退職して、平成4年(1992年)4月にサンヨー食品へ入社し、社長室室長に就任した。

しかし、父・井田毅は平成10年(1998年)2月に間質性肺炎で倒れたことを切っ掛けに、平成10年6月の株主総会で長男・井田純一郎を指名した。これが役員全員に受け入れられ、井田純一郎がサンヨー食品の社長に就任した。

弟・井田信夫の略歴

井田信夫は大学を卒業後、東京の酒問屋「太田商店」に就職していたが、兄・井田毅から即席麺(インスタントラーメン)への参入を相談されたため、酒問屋「太田商店」を辞めて富士製麺(サンヨー食品)に入社し、父・井田文夫とともに営業を担当した。

しかし、即席麺が全く売れなかったため、元々は即席麺への参入に反対だった父・井田文夫は怒って即席麺には関わるのを止めた。

このため、その後は井田信夫が営業を担当した。

こうした経緯があるため、サンヨー食品という会社自体は父・井田文夫が創業したが、実質的な創業者は井田毅と井田信夫の兄弟だと言われることもある。

その後、井田信夫は、昭和39年(1964年)に常務取締役に就任。昭和50年(1975年)10月23日に父・井田文夫が死去すると、兄・井田毅が社長に就任し、井田信夫が副社長に就任した。

井田信夫は長年にわたってサンヨー食品を支えてきたが、平成10年(1998年)6月に兄・井田毅が長男・井田純一郎に社長を譲って相談役に退くと、井田信夫も相談役に退き、平成27年(2015年)8月27日に死去した。

なお、さらに詳しく知りたい方は「サンヨー食品の創業者・井田毅の立志伝」をご覧ください。

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