「いだてん」のモデル・金栗四三の生涯

NHK大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のモデルとなるマラソンの父・金栗四三の生涯です。

金栗四三の生涯

金栗四三(かなくり・しそう)は、明治24年(1891年)8月20日に、熊本県玉名郡春富村(熊本県玉名郡和水町)で、金栗信彦の子供(男4・女4の7番目)として生まれた。母は金栗シエである。

金栗家は、数代続く造り酒屋を営む地元の名士だが、父・金栗信彦は体が弱いことから、造り酒屋を廃業し、長兄・金栗実次が役場に勤めながら、田畑を耕し、金栗家を支えていた。

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韋駄天(いだてん)への道

明治34年(1901年)4月、金栗四三は幼少より勤勉で、吉地尋常小学校を卒業すると、12km離れた玉名北高等小学校に進学した。

このとき、吉地尋常小学校から玉名北高等小学校へ進学した子供たちは、走って集団登校する習慣があり、金栗四三も毎日、片道12kmを走って通学し、マラソンに必要は基礎体力を養っていった。

明治38年(1905年)3月4日に父・金栗信彦が死去するという不幸に見舞われたが、長兄・金栗実次が学費と寮費を出してくれたため、金栗四三は玉名中学校(玉名高校)へと進学出来た。

金栗四三は玉名中学校では宿舎に入ったが、週末になると走って20km離れた実家に戻り、翌日には走って宿舎に戻るという生活を続けた。

この時は、まだ、走るという行為は移動の手段にしか過ぎず、スポーツとは無縁で、金栗四三は玉名中学校(玉名高校)でも勉強に励み、2年生の時には学費免除の特待生に選ばれている。

金栗四三の進路

金栗四三は、対馬沖で行われた日本連行艦隊VSロシア海軍バルチック艦隊の戦い(日本海海戦)の砲音を聞いて海軍を志しており、海軍兵学校を受験するが、結膜炎が治らず、身体測定で不合格となる。

進学を希望する金栗四三は、長兄・金栗実次から「学費のかからない学校」という条件で進学を許されたので、上海の東亜同文書院大学を目指すが、その前の腕試しとして、軽い気持ちで東京高等師範学校(筑波大学)を受験して合格する。

金栗四三は、東京高等師範学校では出世しても校長止まりだとして、東亜同文書院大学への進学を希望したが、長兄・金栗実次に諭され、東京高等師範学校(筑波大学)へ入学した。

マラソンとの出会い

こうして、金栗四三(20歳)は上京し、明治43年(1910年)4月に東京高等師範学校(筑波大学)の予科に入学した。

この時の校長が、柔道の創始者・嘉納治五郎だった。嘉納治五郎は柔道だけでなく、スポーツ全般を教育に取り入れており、東洋で初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選ばれいた。

嘉納治五郎との出会いが、運動に関わっていなかった金栗四三の運命を左右することになる。

運動を教育に取り入れていた嘉納治五郎は、東京高等師範学校でマラソン大会を開催しており、金栗四三もマラソン大会に出場した。

春のマラソン大会は25位に終わったが、秋のマラソン大会で3位入賞し、予科で初の入賞という快挙を成し遂げ、嘉納治五郎が激賞された。

このため、金栗四三は明治44年(1911年)4月に予科から本科へと進むと、校内のマラソン大会にも勝てない弱小の徒歩部(陸上部)へと入部した。

こうして、金栗四三は徒歩部(陸上部)でマラソンに取り組み、マラソンを開始するのである。

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韋駄天の金栗四三

嘉納治五郎はオリンピックに初参加するため、「大日本体育協会(JOC/日本オリンピック委員会)」を設立し、初代会長に就任し、明治44年(1911年)11月に東京・羽田で日本初のオリンピック予選が開催した。

金栗四三(21歳)は、通常の足袋を履いてマラソンの予選に出場し、25マイルを2時間32分45秒という記録で優勝した。これは世界記録を27分も上回る記録であり、世界を驚かせた。

ただし、嘉納治五郎は、時間とお金の問題から、25マイルを実際には計測しておらず、2万分の1の地図からコンパスを使って25マイルを割り出しており、25マイルに疑惑がもたれている。

兎にも角にも、予選に勝った金栗四三(21歳)と東京帝国大学の三島弥彦が日本代表に選ばれたが、オリンピックに参加するには1800円(現在の価値で約500万円)という大金が必要だった。

お金の問題などもあって、金栗四三は辞退するのだが、嘉納治五郎の説得を受け、日本代表を引き受けた。

お金の問題は東京高等師範学校(筑波大学)の方で後援会が発足し、寄付金1500円が集まり、長兄・金栗実次が残りの300円を用意してくれたので解決し。

こうして、長距離の金栗四三、短距離の三島弥彦が日本代表として、明治45年(大正元年/1912年)7月に開催された第5回ストックホルム・オリンピックに参加したのである。

消えた日本人ランナー

日本はオリンピックに初参加ということもあり、金栗四三は驚きの連続だった。

外国人は体格が大きいし、運動前になぜかマッサージをやっている。外国人はシューズを履いているのに、金栗四三は足袋だったので、外国人から珍しがられた。

また、白夜による寝不足、食事の問題、監督はドクターストップになってしまったため、1人で練習しなければならない。さらに、ストックホルムは舗装道路だったので、足袋で練習していた金栗四三は足を痛めてしまった。

金栗四三と三島弥彦は励まし合って予選に出場したが、短距離の三島弥彦は自己新記録を出しながらも予選で惨敗し、体格の良い外国人には勝てないことを悟った。

一方、マラソンの開催日は35度を超える猛暑に見舞われ、参加者68人のうち半分がリタイアし、うち1人が死亡するという過酷なレースとなった。

満身創痍の状態でマラソンに出場した金栗四三は、折り返し地点を過ぎた頃から疲労に襲われて失速し、26.7キロ地点で、コースを外れて森の中へと消え、意識を失って動けなくなり、農家ペトレ家で介抱された。

その後、金栗四三は、探しに来た林中佐と友枝助教授の2人に支えられながら、宿へと戻り、日本初出場のオリンピックは惨敗に終わった。

帰国途中の明治45年7月30日に明治天皇が崩御したことから、帰国しても大きな話題にはならず、帰国後は東京高等師範学校(筑波大学)に復帰した。

池辺家の養子に入る

大正2年(1913年)、金栗四三(23歳)に養子の話が持ち上がった。

熊本県玉名郡小田村(熊本県玉名市小田)の親戚・池部幾江が、夫に先立たれ、子供も居ないので、金栗四三に池部家を継いで欲しいと頼んできたのだ。

金栗四三(23歳)は、特に断る理由も無いので、「ずっと東京に居てもいいのなら」という条件で、池部家への養子入りを引き受けた。

これに喜んだ池部幾江は、強引に結婚の話しまで進めてしまい、金栗四三は高等師範学校を卒業したら、結婚を前提に、会った事も無い春野スヤと見合いすることになってしまった。

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結婚とベルリン・オリンピック

高等師範学校を卒業したら教師として各地の学校へ赴任していくのだが、金栗四三は第6回ベルリン・オリンピックを目指しており、高等師範学校の研究科へ進学した。

この年、金栗四三(24歳)は、約束通り、熊本県玉名郡小田村(熊本県玉名市小田)を訪れて池部家の養子となり、春野スヤと見合いして翌日、結婚した。

さらに、結婚の翌日、新妻・春野スヤを残したまま、東京へと舞い戻り、マラソンの訓練をしながら、マラソンの普及活動や後輩の指導に務めた。

金栗四三(26歳)はオリンピックは夏に行われることから、猛暑トレーニングや高地トレーニングなど、数々のトレーニングを考え、オリンピックに向けて体を作っていった。

しかし、第6回ベルリン・オリンピックは、第一次世界大戦が長引いたため、中止となってしまい、金栗四三はアスリートとしての最盛期にオリンピックに出場することが出来なかった。

しかし、金栗四三は諦めること無く、4年後の第7回アントワープ・オリンピックを目指してトレーニングを積む一方で、大正5年に高等師範学校の研究科を卒業後は教師として教鞭を取りながら、マラソンの普及活動や後輩の育成に力を入れた。

日本初の駅伝

大正6年(1917)は、東京が都に定められてから50年にあたり、「東京奠都50年記念博覧会」が開催されることになった。

読売新聞は「東京奠都50年記念博覧会」に協賛する形で、京都から東京まで、東海道五十三次を走るリレー形式のマラソン(駅伝)の開催を考え、金栗四三に相談した。

金栗四三は、嘉納治五郎を大会長に担ぎ上げ、大正6年(1917年)4月27日に、読売新聞の主宰で、日本初の駅伝「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」を開催した。

日本初の駅伝「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」は、京都の三条大橋から東京・上野の不忍池まで、3日間で総距離508キロメートルの23区を走るリレー形式のマラソンだった。

長距離ランナーを集めるのは難しい時代で、関西はチームが成立せず、関東チームと中部チームの対決となり、日本初の駅伝は金栗四三がアンカーを務める関東チームが勝利した。

箱根駅伝の創設

大正8年(1921年)10月、埼玉県巣鴨市にある小学校の運動会で審判を務めた帰りの汽車の中で、金栗四三・沢田英一・野口源三郎の3人が話し合っていたときのことである。

沢田英一は大正8年6月に札幌-東京を21日間で完走しており、金栗四三も大正8年7月に下関-東京を20日間で完走していた。

そこで、海外に出て長距離を走りたいという話になり、アメリカ大陸の西から東へと横断する「アメリカ大陸横断駅伝」という構想が生まれた。

駅伝形式にしたのは、効率よく大勢の選手を育成するという金栗四三の考えがあったからである。

金栗四三は、早速、予選を行うため、陸上に理解のある報知新聞に話を持ち込み、報知新聞の賛同を得た。

長距離を10人揃えるのは難しい事から、参加校は「早稲田大学」「慶應大学」「明治大学」「東京高等師範学校」の4校だったが、各大学は部員を強化して次は参加したいと乗り気だった。

このため、

コースの候補に「日光-東京」「水戸-東京」「箱根-東京」が候補に挙がったが、最終的には箱根をアメリカのロッキー山脈に見立てて、「箱根-東京」というコースが決定した。

そして、金栗四三は「鍛錬には極寒か猛暑がよい」という考えだったので、予選は最も寒い2月に開催されることになった。

こうして、大正9年(大正9年)2月14日午後1時に第1回・箱根駅伝がスタートしたのである。

事前に、箱根を担当する各大学の走者が近道を探しているという情報が入っていたので、往路の第5区箱根では、箱根の青年団が松明を炊き、道案内と監視を兼ねて走者に伴走してくれた。

翌日の復路も無事に終了し、第1回・箱根駅伝は、東京高等師範学校が優勝し、明治大学が2位、早稲田大学が3位、明治大学が4位に終わった。

しかし、本戦の「アメリカ大陸横断駅伝」は、報知新聞の理解を得られなかったので、計画は立ち消えとなり、予選の箱根駅伝だけが残り、現在まで続いている。

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3度のオリンピック

金栗四三(30歳)は、大正9年(1920年)の第7回アントワープ・オリンピックに出場したが、途中で足を痛めたため、記録は2時間48分45秒で16位に終わった。

その帰りにドイツを視察しており、ドイツでスポーツをしている婦人を見て、女子の体育の必要性を痛感し、帰国後は女子の体育教育に力を入れ、日本初となる「女子テニス大会」や「第1回女子連合競技大会」を開催した。

そして、大正11年(1922年)8月には、樺太-東京1300キロを走破した。

さて、金栗四三はアスリートしてのピークを過ぎていたため、大正13年(1924年)の第8回パリ・オリンピックは門下生に譲ろうと考えていたが、予選に出場した門下生は次々と脱落したため、予選に優勝してしまう。

金栗四三(34歳)は、老体にむち打って第8回パリ・オリンピックに出場したが、睡眠不足が祟り、32.3キロ付近で意識を失って倒れてリタイアしてしまった。

こうして、金栗四三は3度のオリンピックに出場したが、リタイア2回と15位と散々な成績に終わり、第一線を退いて、マラソンの普及や選手の育成に専念する。

金栗足袋で世界制覇

金栗四三は、日本初のオリンピック代表予選に出場したとき、足袋を履いて出場したのだが、足袋は25マイル(約40km)という長距離には耐えきれず、終盤で底が破れ、裸足でゴールした。

そこで、東京の足袋屋「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」とマラソン用の足袋を試行錯誤して、足袋の底を補強した「マラソン足袋」を作り、「マラソン足袋」で第5回ストックホルム・オリンピックに挑んだ。

しかし、ストックホルムの道は舗装されていたことから、底を補強しただけの「マラソン足袋」では足への負担が大きく、練習中に膝を負傷してしまった。

そこで、金栗四三は、ストックホルム・オリンピックから帰国すると、東京の足袋屋「播磨屋足袋店(ハリマヤ)」と試行錯誤を重ね、底をゴム底にし、こはぜ(足袋の金具)を取り外し、甲を紐で結ぶ「金栗足袋」を大正8年(1919年)に完成させた。

この「金栗足袋」が日本のランニングシューズの原型である。「金栗足袋」は、足の先は親指の所で2つに割れており、足袋とシューズの中間のような履き物で、日本のランナーを支えることになる。

昭和3年(1928年)のアムステルダム・オリンピックでは、「金栗足袋」を履いた山田兼松が4位、津田晴一郎が6位という好成績を収めた。

さらに、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックでは、「金栗足袋」を履いた孫基禎(日韓併合中の朝鮮半島出身)がマラソンで日本初の金メダルを取得した。

金栗四三は3度のオリンピックで惨敗したが、試行錯誤を重ねて開発した「金栗足袋」で、オリンピック優勝という悲願を成し遂げたのである。

この「金栗足袋」は、日本初のランニングシューズ「カナグリシューズ」へと発展することになる。

恩師・嘉納治五郎の死

池部家の養子に入っていた金栗四三は、東京を離れ、昭和6年6月に熊本県玉名郡小田村(熊本県玉名市小田)へと戻り、資産家・池部家を継いだ。

方々から校長の誘いがあったが、義母・池部幾江が金栗四三を手放そうとしなかったので、校長の話は全て断り、熊本でマラソンの普及活動に専念する。

昭和6年(1931年)7月には、栗本義彦と組んで九州一周を完走。腕に「下関-東京」「樺太-東京」を走破しているので、日本全国走破という偉業を達成した。

昭和11年(1936年)に東京がヘルシンキを破ってオリンピックの誘致を勝ち取ると、金栗四三(46歳)は嘉納治五郎からの要請を受けて上京し、オリンピックの準備や選手の育成に奔走した。

しかし、日中戦争の影響で、日本は昭和13年7月に東京オリンピックの開催中止を決議し、オリンピックを返上し、東京オリンピックは幻となった。

しかも、IOC委員の嘉納治五郎はIOC総会からの帰りに急死し、金栗四三は恩師を失ってしまった。

金栗四三は大きなショックを受けながらも、東京に留まってマラソンの普及活動に務めていたが、戦況の悪化から、昭和20年(1945年)3月に熊本県の池部家へ疎開し、昭和20年8月15日に玉音放送を聞いた。

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世界の舞台へ復帰-原爆ボーイ・田中茂樹

スポーツ界の戦後の復興は早く、昭和20年(1945年)の暮れには東京で「日本体育協会」が発足した。熊本県でも金栗四三が昭和21年4月に「熊本県体育協会」が発足させ、初代会長に就任した。

そして、金栗四三は、昭和21年11月3日には運動会「第1回・県民体育祭」を開催し、昭和22年には「第1回・金栗賞朝日マラソン」が開催した。

日本は、開催国のイギリスから参加を拒否されたため、昭和23年(1948年)のロンドン・オリンピックには出場できなかったが、昭和22年には箱根駅伝も再開され、国内での大会は充実していった。

このようななか、金栗四三は昭和24年に秋田出身のランナー田中茂樹を発掘し、昭和25年にオリンピック出場を目指して強化合宿を開始。昭和25年8月には金栗四三を監督とする「オリンピック・マラソンに優勝する会」が発足した。

そして、日本はオリンピックの前哨戦として、昭和26年4月に開催された第55回ボストン・マラソンに日本は初参加し、「金栗足袋」を履いた田中茂樹が優勝した。

田中茂樹は、広島出身ということから「原爆ボーイ」として世界にその名を轟かせ、日本マラソンは華々しく、世界舞台に復帰を果たしたのである。

その後、日本マラソンは、日本全国民の期待を背負って、昭和27年(1952年)の第15回ヘルシンキ・オリンピックに出場するが、原爆ボーイ・田中茂樹が25位、愛弟子の山田敬蔵が26位、内川義高は棄権という日本は惨敗に終わった。

カナグリシューズと山田敬蔵

第15回ヘルシンキ・オリンピックの惨敗により、国民の期待は失望に代わった。日本陸上連盟は次のボストン・マラソンの出場を中止すると言い出した。

しかし、金栗四三(63歳)は日本陸上連盟の反対を押し切り、昭和28年(1953年)4月の第57回ボストン・マラソンに出場する。

金栗四三と東京の足袋屋「ハリマヤ」は、「金栗足袋」を発展させた日本初のマラソンシューズ「カナグリシューズ」を開発しており、「カナグリシューズ」でレースに挑んだ愛弟子の山田敬蔵は難関の「心臓破りの丘」を突破し、2時間18分51秒という驚異的な世界新記録を叩き出して優勝して、世界を驚かせた。

愛弟子の山田敬蔵と「カナグリシューズ」が世界を制したため、金栗四三は「山田君ありがとう。山田君ありがとう」と言って自分のことのように涙を流して喜んだ。

しかし、後に、ボストン・マラソンは運営側のミスで距離が短かったことが判明し、山田敬蔵の世界新記録は幻となってしまった。

その後、昭和30年(1955年)の第59回ボストン・マラソンで、浜村秀雄が2時間18分22秒の記録で優勝して日本マラソン界を盛り上げた。

しかし、日本マラソンは、オリンピックという檜舞台では活躍できず、メダルを取るのは昭和37年(1962年)の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取得する円谷幸吉まで待たなければならない。

消えた日本人-55年目のコール

昭和42年(1967年)は第5回ストックホルム・オリンピックから55周年に当たるため、スエーデンは55周年記念行事として国際親善イベントを開催することにした。

そこで、スエーデンのオリンピック委員会が当時の資料を調べていると、オリンピックに出場した金栗四三の記録が無く、行方不明扱いになっていることが判明した。

金栗四三は26.7キロ地点で意識を失って倒れ、農家ペトレ家で介抱されていたのだが、競技本部に届けずに帰国したため、「棄権」として処理されず、「行方不明」という扱いになっていたのである。

このため、スエーデンのオリンピック委員会は、金栗四三に手紙を送り、「まだ、どこかを走っているのだと思われる。ゴールすることを要請する」と要請し、55周年記念の国際親善イベントのチケットを贈った。

金栗四三(77歳)は思わぬ要請に喜んでストックホルムを訪れ、昭和42年(1967年)3月20日に農家ペトレ家を訪れて、礼を言い、昔話に花を咲かせた。

その後、記念会場を訪れ、着替える間もなく、数十メートルを走ってゴールテープを切り、ゴールした。

すると、「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。記録は通算54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3であります。これで第5回オリンピック・ストックホルム大会は全ての日程を終了しました」というアナウンスが流れ、スタンドから拍手がわき起こった。

金栗四三がインタビューに対して「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、6人の子供と10人の孫に恵まれました」とコメントすると、再び会場は拍手に包まれた。

金栗四三の功績

金栗四三は日本初のオリンピック選手として日本のマラソン界を牽引し、3度のオリンピックに出場した。オリンピックでは惨敗したが、16年間にわたり、日本国内では敵無しであった。

そうした一方で、マラソンの普及活動や選手の育成に力を入れ、「東京興都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走」「箱根駅伝」「西部マラソン20キロ大会(金栗杯玉名ハーフマラソン大会)」「金栗賞朝日マラソン(福岡国際マラソン)」などを開催した。

また、ドイツを視察したときに女子体育教育の必要性を感じ、日本初の女子テニス大会を開催するなど、女子の体育教育にも力を入れた。

また、熊本県体育協会の初代会長や、熊本県教育委員長の初代教育委員長、全国マラソン連盟の会長などを務めた。

こうした数々の功績が認められ、金栗四三(75歳)は昭和30年(1955年)11月3日に、スポーツ人としては初の紫綬褒章を受章。昭和39年には勲四等旭日小綬章した。昭和58年(1983年)11月13日に死去し、従五位銀杯が下賜された。享年93。

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