おんな城主・井伊直虎の立志伝の後半

井伊直政の養母で井伊谷城(静岡県浜松市)の女城主として活躍した井伊直虎(いい・なおとら)の立志伝の後半です。

このページは「女城主・井伊直虎(次郎法師)の立志伝」からの続きになります。

おんな城主・井伊直虎の誕生

井伊直虎の曾祖父・井伊直平が毒殺され、虎松(井伊直政)も三河の鳳来寺へと逃れたので、井伊家は当主不在となった。

(注釈:龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は井伊家の一族だが、伝承によると、南渓瑞聞は養子で井伊一族では無いため、当主にはなれないのだという。)

そこで、永禄8年(1565年)、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は井伊一族と相談し、男性名で出家していた次郎法師(井伊直虎)を還俗させて井伊家の当主にした。

こうして、次郎法師(井伊直虎)が井伊家の当主となり、井伊直虎を名乗るようになる。井伊直虎は井伊谷城の女城主となり、地頭(女地頭)として井伊谷(静岡県浜松市)を納めることになる。

(注釈:地頭とは、租税・軍役など地域の支配権を持つ役職である。一般的に大名に至らない領主のことを地頭と呼ぶ。)

井伊次郎直虎の井伊谷徳政令

永禄8年(1565年)、井伊谷城の女城主となった井伊直虎は、女地頭として政治を行い、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を治めた。

このころ、瀬戸方久という商人・高利貸しが井伊直虎を支援しており、井伊谷の経済で新興勢力として台頭していた。

この瀬戸方久の台頭に危機感を覚えたのが、旧勢力の商人・祝田禰宜である。祝田禰宜は神官であったが、経済的な権力を有し、祝田で勢力を誇っていた。

そこで、瀬戸方久を潰そうと目論む祝田禰宜と、井伊家の転覆を狙う筆頭家老・小野道好(小野政次)の利害が一致し、2人は手を組んだのである。

今川派の小野道好(小野政次)は、祝田禰宜と手を結んで農民を扇動し、主家の今川氏真に徳政令(借金を帳消し令)を求めて訴えを起こさせた。

永禄9年(1566年)、井伊谷の直接支配を目論む今川氏真は、農民の訴えを受けて、井伊谷城の女城主・井伊直虎に徳政令の公布を命じた。

こうして、女城主・井伊直虎は、徳政令を出せば、商人が破綻して井伊家も資金繰りに行き詰まり、徳政令を出さなければ、農民が一揆を起こすという難しい局面を迎えることになった。

これ対して女城主・井伊直虎は、領民に説明する時間が必要だという口実で徳政令(借金を帳消し令)の公布を延期して、その間に徳政令免除などの措置を執り、商人や金融業(寺)を保護し、井伊家の経済を確保していった。

今川氏真から再三にわたり、徳政令(借金を帳消し令)の公布を求められたが、女城主・井伊直虎は主家の今川氏真に毅然とした態度で対応して時間を稼いだ。

この間に、瀬戸方久や龍潭寺は、徳政令免除の措置を受けて保護された。

しかし、ついに、今川氏真からの圧力に耐えられなくなり、井伊直虎は最初の命令から2年後の永禄11年(1568年)11月9日に徳政令(借金を帳消し令)を公布した。

女城主・井伊直虎は、徳政令を延期した2年の間に、各方面に被害が最小限に食い止められるように対策を施し、見事な政治手腕で徳政令の被害を最小限に抑え、井伊家の危機を乗りきった。これが世に言う「井伊直虎の井伊谷徳政令」である。

ところが、今川氏真は、統治能力が無いと言う口実で井伊直虎を地頭職から罷免して、井伊谷を今川家の直轄地とし、今川派の筆頭家老・小野道好(小野政次)を井伊谷城の城代に置いたのである。

こうして井伊直虎は、井伊谷城も井伊谷も失い、井伊谷城を出て、菩提寺の龍潭寺へと身を寄せた。

家老・小野道好(小野政次)の最後

小野道好(小野政次)は井伊直虎を失脚させ、念願の井伊谷を手に入れたが、主家の今川氏真は桶狭間の戦い以降は衰退の一途をたどっていた。

一方、今川家と同盟を結ぶ甲斐(山梨県)の武田信玄は、甲相駿三国同盟を背景に信濃(長野県)へと侵攻し、信濃北部で越後(新潟県)の上杉謙信と対立したが、5度に渡る「川中島の戦い」でも決着が付かなかった。

そこで、武田信玄は外交方針を転換し、弱体の一途をたどっていた同盟国・今川氏真と手切りし、織田信長・徳川家康と同盟を結んだ。

そして、武田信玄は徳川家康と領土分割の密約を結び、今川氏真の領土へと侵攻を開始したのである。

このため、遠江(静岡県)の国人は、徳川家康・武田信玄・今川氏真の誰に属するかの選択を迫られる。

遠江(静岡県)の国人の多くは武田信玄に属する事を選んだようだが、失脚して井伊谷城を失った井伊直虎は、徳川家康に属することを選んだ。

すると、今川家に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が、井伊直虎に味方し、三河国の徳川家康を遠江国(静岡県)へ引き入れて道案内した。

家老・小野道好(小野政次)は、徳川軍に攻められると、戦わずして井伊谷城を捨てて逃げたが、徳川家康に捕らえられ、事実無根で讒訴したとして、永禄12(1569年)4月7日に処刑され、獄門磔にされた。

その後、小野道好(小野政次)の息子2人も捕らえられて処刑された。

もう1人の女城主・お田鶴の方(椿姫)

お田鶴の方(椿姫)は、夫・飯尾連竜の亡き後、引馬城の女城主となって引馬城を守ったが、遠江国(静岡県)へと侵攻してきた徳川家康に攻められ、300騎を率いて討って出て、徳川軍を相手に討死した。

今川家の滅亡

徳川家康・武田信玄の侵攻を受けた今川氏真は、武田信玄に攻められ、駿府城を捨てて家臣・朝比奈泰朝の居城・掛川城へと逃れたが、今度は徳川家康に包囲されてしまう。

今川氏真は掛川城で半年ほど籠城したが、永禄12年(1569年)5月17日に家臣の助命と引き換えに掛川城を開城し、同盟国の北条氏の元へ身を寄せ、大名としての今川家は滅亡した。

こうして、三河(愛知県東部)の徳川家康は遠江(静岡県西部)を平定し、三河・遠江の2国持ちの大名となったのである。

なお、徳川家康が遠江(静岡県西部)を平定した後、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が井伊谷を支配しており、井伊直虎がどうなったかは不明である。

浜松城の誕生の由来

三河(愛知県東部)・遠江(静岡県西部)の2国持ちの大名となった徳川家康は、これまでの居城・岡崎城では西に寄りすぎていたので、新しい拠点を近江国見付(静岡県磐田市見付)に決め、永禄12年(1569)に城之崎城の普請を開始した。

しかし、武田信玄との関係が悪化したため、状況は一変する。

城之崎城の西には天竜川という大きな川が流れており、東側から武田信玄に攻められると、徳川家康は城之崎城の西を流れる天竜川に退路を断たれてしまうことになる。

そこで、徳川家康は、元亀元年(1570)に城之崎城の普請を中止し、天竜川の西にある曳馬城を新たな拠点と定め、曳馬城を拡張して「浜松城」と名付けた。

武田信玄の西上作戦

武田信玄は織田信長・徳川家康と同盟を結び、徳川家康を組んで今川氏真を滅ぼしたが、武田信玄が遠江国(静岡県)へと触手を伸ばしてきたため、徳川家康と関係が悪化する。

一方、武田信玄は第1次信長包囲網には参加せず、織田信長との友好関係を保っていたが、武田信玄は信心深かったため、織田信長の比叡山の焼き討ちに激怒し、織田信長との関係を悪化させる。

このため、甲斐(山梨県)の武田信玄は、足利義昭の第2次信長包囲網に呼応して、西上作戦を開始し、元亀3年(1572年)9月に徳川家康の三河国・遠江国へと侵攻したのである。

武田信玄の侵攻を受け、徳川方の井伊谷城は武田家の家臣・山県昌景に攻め落とされ、徳川家康も三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗してしまう。

徳川家康が武田信玄に大敗し、脱糞しながら浜松城へ逃げ帰ったというのが、この三方ヶ原の戦いである。

一方、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝したが、直ぐには三河(愛知県東部)へ侵攻せず、井伊家旧領土の刑部村に10日ほど滞在して年を越した。

この10日間の滞在は、武田信玄の発病が原因だとも言われる。

その後、武田信玄は三河(愛知県東部)へと侵攻したが、西上作戦中の元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が死去したため、武田軍は撤退を開始する。

すると、徳川家康は反撃に転じ、武田信玄に奪われた領土を回復していき、井伊谷も再び徳川家康の領土となった。

虎松(井伊直政)のお目見え

井伊直虎は、井伊家の筆頭家老・小野道好(小野政次)に失脚させられて以降、何をしていたのかは分からない。

井伊谷は井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が支配しており、武田信玄の侵攻を受けた時も、井伊直虎は何をしていたか分からない。

さて、井伊家の菩提寺・龍潭寺は、武田信玄の侵攻を受けて焼失したが、武田信玄の死により、武田家の脅威は去ると、龍潭寺は再建が進み、天正2年(1574年)12月14日、龍潭寺で井伊家の23代当主・井伊直親(亀之丞)の13年忌が行われた。

23代当主・井伊直親(亀之丞)は、井伊直政の許嫁だった人物で、虎松(井伊直政)の父親である。

このとき、龍潭寺の住職・南渓瑞聞(南渓和尚)は、鳳来寺に身を寄せていた虎松(井伊直政)と母・奥山氏を呼んでいた。

このとき、南渓瑞聞(南渓和尚)は井伊一族と話し合い、井伊一族で唯一の男子・虎松(井伊直政)を徳川家康にお目見えさせることに決めた。

そして、南渓瑞聞(南渓和尚)は、虎松(井伊直政)の母・奥山氏と松下源太郎(松下清景)を結婚させ、虎松(井伊直政)を松下源太郎(松下清景)の養子にして井伊家から除籍し、浜松の松下源太郎(松下清景)宅に住まわせた。

鳳来寺が虎松(井伊直政)の返還を求めてきたが、南渓瑞聞(南渓和尚)は粘り強く交渉して鳳来寺を納得させ、虎松(井伊直政)を勝ち取った。

そして、天正3年(1575年)2月、井伊直虎は徳川家康の行動を調べ上げ、15歳になった虎松(井伊直政)に小袖を着せ、徳川家康を待ち伏せた。

徳川家康は浜松城を出て鷹狩りに向かっていたところ、風貌がどこなく上品で優れた面差しの少年を見かけた。それが、虎松(井伊直政)だった。

徳川家康は、虎松(井伊直政)を浜松城へ呼び寄せて父親の由来を聞くと、虎松(井伊直政)の父親・井伊直親(亀之丞)は家臣の讒訴によって今川氏真に処刑されたことを知り、これを哀れみ、300石で小姓として召し抱えた。

また、一説によると、徳川家康は井伊直親(亀之丞)と遠江(静岡県西部)侵攻の密談を重ねていたので、井伊直親(亀之丞)の子と知り、虎松(井伊直政)を召し抱えたという。

そして、徳川家康は、虎松(井伊直政)が松下源太郎(松下清景)の養子担っていることを知ると、虎松(井伊直政)に井伊姓を名乗る事を命じ、徳川家康の幼名「竹千代」から「千代」の字を与え、「万千代」と名乗らせた。

井伊直虎の死去

井伊直虎は、虎松(井伊直政)を徳川家康に出仕させた事を切っ掛けに、万千代(井伊直政)に井伊家の当主を譲り、万千代(井伊直政)は井伊家24代当主となった。

井伊直虎は井伊家の家系図では当主として数えられていないが、万千代(井伊直政)に家督を譲って、その役を終えると、菩提寺の龍潭寺に入り、今度は尼として出家し、「祐圓尼」と名乗り、万千代(井伊直政)の活躍を見守った。

そして、祐圓尼(井伊直虎)は万千代(井伊直政)が元服した年の天正10年(1582年)8月26日に死去した。

井伊直虎の死後

万千代(井伊直政)は元服が遅く、天正10年(1582年)に22歳で元服した。以降、井伊直政と名を改め、武田勝頼との戦いで数々の功績を挙げて頭角を現した。

天正10年(1582年)に織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼすと、徳川家康は井伊直政に、武田家の家臣・山県昌景の赤備えを復活させ、井伊直政は精鋭部隊「赤備え部隊」を指揮する大将となった。

また、井伊直政は徳川家康の養女・唐梅院を正室に迎えて徳川一門の仲間入りをし、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)4万石に出世した。

井伊直政は精鋭部隊「赤備え部隊」を率いて数々の戦いで功績を挙げ、北条征伐の後に上野国箕輪城(群馬県高崎市)12万石を拝領して大名格になり、異例の早さで出世していく。

やがて、井伊直政は、本多忠勝・榊原康政・酒井忠次と共に徳川家を代表する家臣「徳川四天王」と呼ばれるようになり、関ヶ原の合戦の後、石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を加増され、佐和山藩(彦根藩)18万石の藩主となった。

しかし、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)2月1日に死去した。

佐和山藩は彦根城の完成とともに、彦根藩となり、彦根藩・井伊家は、江戸幕府の大老5人を排出し、譜代大名の筆頭となった。

諸大名が江戸幕府の命令で領地替えをするなか、彦根藩・井伊家は一度も領地替えをすることなく、西国の監視役として重責を全うした。

そして、幕末には、桜田門外の変で殺される彦根藩の第15代藩主・井伊直弼を排出し、彦根藩・井伊家は明治4年の廃藩置県まで続いた。

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