おんな城主・井伊直虎の立志伝

井伊直政の養母で、井伊谷城(静岡県浜松市)の女城主として活躍した井伊直虎(いい・なおとら)の立志伝です。

おんな城主・井伊直虎の概要

井伊直虎は、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する井伊谷城の城主・井伊直盛の長女として生まれた。誕生日も不明。母親は正室・友椿尼(新野親矩の妹)である。

井伊直虎は後に名乗ることになる男性名で、生まれた時は女性名だったはずだが、女性名は伝わっていない。

女性だったが、僧(男性)として出家して「次郎法師」を名乗ったが、井伊家断絶の危機を迎え、還俗して男性名の「井伊直虎」を名乗った。そして、井伊直政に家督を譲ると、尼として出家して「祐圓尼」を名乗った。

井伊直虎の家系図と背景

井伊直虎の家系図

井伊家は遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する国人(豪族)である。

応仁の乱の後、井伊家は遠江(静岡県西部)の守護大名・斯波義達に属して、遠江国へと侵攻してきた駿河(静岡県の中部・北東部)の守護大名・今川家に抵抗していた。

しかし、井伊家21代当主・井伊直宗(井伊直虎の祖父)のとき、駿河の今川氏親(今川義元の父)に攻められて降伏し、今川氏親に仕えるようになった。

やがて、今川氏親は遠江を平定し、駿河・遠江の守護代となった。

その後、21代当主・井伊直宗は、主家の今川義元に従って三河田原城を攻め、天文11年(1542年)1月29日に討死した。

21代当主・井伊直宗の死により、井伊直宗の子・井伊直盛が家督を相続し、井伊家の22代当主になった。この22代当主・井伊直盛が井伊直虎の父である。

亀之丞(井伊直親)と婚約

井伊家の22代当主・井伊直盛は、子供が娘・井伊直虎だけで、跡取りが居なかった。

そこで、一族・井伊直満の子・亀之丞(井伊直親=9歳)を婿養子に迎え、娘・井伊直虎と婚約させることにした。

(井伊直虎の年齢は不明で、亀之丞のプラス・マイナス2歳という説が多い。)

しかし、井伊家の筆頭家老・小野道高(小野政直)は、この結婚に不満を持った。

筆頭家老・小野道高(小野政直)は、主家の今川家から送り込まれたスパイとも言われる今川派で、井伊直満を激しく嫌っていた。

このまま、亀之丞(井伊直親)が井伊直虎と結婚すれば、憎き井伊直満の子・亀之丞(井伊直親)が将来、井伊家の当主になってしまう。

そこで、筆頭家老・小野道高(小野政直)は、この結婚を阻止するため、天文13年(1544年)12月、主家の今川義元に「井伊直満と井伊義直に謀反の疑い有り」と讒訴したのである。

これを受けた今川義元は、井伊直満と井伊義直の兄弟を審問して自害させたうえ、井伊直満の子・亀之丞(井伊直親)も処刑しようとした。

この危機を救ったのが、井伊家の家老・今村藤七郎(今村正実)である。

家老・今村藤七郎(今村正実)は9歳の亀之丞(井伊直親)を連れて屋敷を脱出して身を隠し、「亀之丞は病死。今村藤七郎(今村正実)は切腹した」と噂を流した。

そして、家老・今村藤七郎(今村正実)は、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞を頼り、和尚・南渓瑞聞の紹介で、信州国伊那郡市田村にある松源寺に身を隠した。

こうして、家老・今村藤七郎(今村正実)と亀之丞(井伊直親)は、信州国伊那郡市田村にある松源寺で、地元有力者の庇護を受けて10年を過ごすことになる。

そして、この10年の間に、亀之丞(井伊直親)は代官・塩沢氏の娘を妻に迎え、2人の子供を儲けた。(注釈:ただし、正式な結婚ではないようである。)

なお、亀之丞(井伊直親)は井伊家で唯一の男児であるため、亀之丞(井伊直親)の生死は井伊家内でも秘密にされた。

亀之丞(井伊直親)の復帰

讒訴した筆頭家老・小野道高(小野政直)は井伊家で大きな影響力を持っていたため、父・井伊直盛は、井伊家の混乱を恐れて、筆頭家老・小野道高(小野政直)を処分することが出来ずに讒訴を黙殺していた。

しかし、讒訴から10年後の天文23年(1554年)に筆頭家老・小野道高(小野政直)が病死する。

父・井伊直盛は、筆頭家老・小野道高(小野政直)が死んだ事を切っ掛けに、主家の今川義元に亀之丞(井伊直親)の助命嘆願を行い、亀之丞(井伊直親)は赦免された。

こうして、恩赦を受けた亀之丞(井伊直親)は、家老・今村藤七郎(今村藤正実)と共に井伊谷に戻った。

亀之丞(井伊直親)は松源寺に隠れていた10年の間に地元の有力者・塩沢氏の娘を妻にしていたが、井伊家に認められた正式な結婚ではなかったので、妻と男児を残し、娘だけを連れ、井伊谷へと帰ったという。

井伊直虎の出家

井伊直虎は井伊直親(亀之丞)の許嫁だったが、井伊直親(亀之丞)が既に結婚して子供も生まれている事を知り、出家を決意する。

驚いたが両親は龍潭寺の住職・南渓瑞聞に尼の名前を付けないで欲しいと頼んだが、井伊直虎は南渓瑞聞に尼の名前を付けて欲しいと頼んだ。

そこで、龍潭寺の住職・南渓瑞聞は、井伊家総領の名前が「備中次郎」だったことから、井伊直虎に「次郎法師」という男性名を名付け、僧として出家させた。

男性は出家しても還俗すれば家督を相続できるが、女性は一度出家して尼となると、還俗する事が出来なかったので、万が一に備えて、僧として出家させたのだという。

父・井伊直盛は、井伊直虎が出家してしまったため、亀之丞(井伊直親)を正式に養子として迎えると、井伊一族の奥山朝利の娘と結婚させた。

これ以降、亀之丞(井伊直親)は「井伊直親」を名乗るようになる。

織田信長の野望-桶狭間の戦い

井伊直親(亀之丞)が井伊家に復帰してから4年後の永禄2年(1559年)、尾張(愛知県西部)の織田信長が尾張の統一を果たした。

一方、駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元は、武田信玄・北条氏康・今川義元の三者で結んだ三国同盟「甲相駿三国同盟」を背景に、永禄3年(1560年)5月に2万5000の軍勢で尾張(愛知県西部)へと侵攻した。

父・井伊直盛は今川義元5000の先鋒を務め、今川義元に従って出陣したが、桶狭間で織田信長2000の奇襲攻撃を受け、今川義元と共に討死してしまう。世に言う「桶狭間の戦い」である。

桶狭間の戦いで、父・井伊直盛のほか、重臣16名が討死(もしくは切腹)しており、井伊家は大きな被害を受けた。

このとき、桶狭間の戦いで討死(もしくは切腹)した井伊直盛は、家臣・奥山孫市郎に「小野道好(小野政次)と中野越後(中野直由)に留守を任せてきたが、小野道好(小野政次)は主従の関係が心許ないので、井伊谷を中野越後(中野直由)に預け、時期を見て井伊直親(亀之丞)を引馬城へ移すように井伊直平に伝えて欲しい」と遺言したという。

一方、桶狭間の戦いで勝利した織田信長は、天下に織田信長の名をとどろかせた。

他方、今川義元の支配下にあった三河(愛知県東部)の松平元康(徳川家康)は、今川義元が戦死した混乱に乗じ、岡崎城(愛知県岡崎市)を取り返して今川家から独立し、翌年の永禄4年(1561年)に織田信長と清洲同盟を結んだ。

家老・小野道好(小野政次)の讒訴

さて、父・井伊直盛が桶狭間の戦いで討死したため、養子の井伊直親(亀之丞)が家督を相続して井伊家23代当主となった。

そして、桶狭間の戦いの翌年の永禄4年(1561年)2月9日、井伊直親(亀之丞)に嫡男・虎松(井伊直政)が生まれる。母親は、奥山朝利の娘である。

ところで、以前に讒訴した筆頭家老・小野道高(小野政直)の死後は、その子もしくは一族の小野道好(小野政次)が井伊家の筆頭家老を務めていた。

小野道好(小野政次)も小野道高(小野政直)に引き続き、今川派で、井伊家の失脚を狙っていたようだ。

永禄3年(1560年)12月、筆頭家老・小野道好(小野政次)は、井伊家で勢力を伸ばしていた井伊一族の奥山朝利を誅殺する。

さらに、筆頭家老・小野道好(小野政次)は永禄5年(1562年)、主家の今川氏真(桶狭間の戦いで討死した今川義元の子)に「井伊直親(亀之丞)が徳川家康や織田信長に通じて謀反を企てている」と讒訴したのである。

このころ、三河(愛知県東部)の徳川家康は井伊谷方面に触手を伸ばしており、井伊直親(亀之丞)は鷹狩りと称して城を抜け出して、徳川家の家臣と密談を繰り返していたという。

小野道好(小野政次)の讒訴を受けた今川氏真は、激怒して井伊家を攻めようとしたが、今川家の重臣・新野親矩に止められた。

この今川家の重臣・新野親矩は、井伊家と縁戚関係にあり、新野親矩の妹(友椿尼)が井伊直虎の母親である。

さて、新野親矩に止められたため、今川氏真は井伊討伐を中止し、井伊直親(亀之丞)を駿府城へ呼んで釈明させることにした。

井伊直親(亀之丞)は釈明のために、今川氏真の駿府城へ向かおうとしたが、掛川に差し掛かったところで、今川家の重臣で掛川城の城主・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に襲われ、井伊直親(亀之丞)と家臣19人は誅殺された。

こうして、家老の小野氏は2代にわたり讒訴し、井伊家は窮地に陥った。

このとき、今川義元は2歳の虎松(井伊直政)も誅殺するように命じていたので、虎松(井伊直政)も命を狙われたが、今川家の重臣・新野親矩(新野左馬助)が危機を察知して虎松(井伊直政)を匿ったので、虎松(井伊直政)は難を逃れた。

祖父・井伊直平の返り咲き

23代当主・井伊直親(亀之丞)が誅殺されたため、井伊家の男性は井伊直虎の曾祖父・井伊直平と、2歳の虎松(井伊直政)だけとなる。

曾祖父・井伊直平は井伊家19代当主を務めた人物で、既に隠居していたが、23代当主・井伊直親(亀之丞)が誅殺されて井伊家の当主が不在となったことを受け、井伊家の当主に復帰した。

もう1人の女城主・椿姫(お田鶴の方)

今川家は永禄3年(1560年)5月の「桶狭間の戦い」で織田信長に大敗して以降、衰退の一途をたどり、遠江(静岡県西部)では今川家の支配力が弱っていた。

そこへ、三河(愛知県東部)の徳川家康が遠江へと調略の手を伸ばしてきたため、遠江の国人が相次いで今川氏に反旗を翻し、遠江は混乱期に突入する。世に言う「遠州錯乱」である。

このようななか、永禄6年(1563年)、今川氏真に属していた遠江・犬居城(静岡県浜松市)の城主・天野景貫が、今川氏の衰退を見て、三河の徳川家康に寝返った。

怒った今川氏真は井伊家に天野景貫討伐の命を下す。

曾祖父・井伊直平は、今川氏真の命令を受け、天野景貫の居城・犬居城(静岡県浜松市)へと向かう。その途中で今川方の引馬城(ひくま城)に立ち寄った。

引馬城(ひくま城)は静岡県浜松市にある城で、「曳馬城」「引間城」とも表記する。引馬城は後に徳川家康が改修して浜松城と呼ばれるようになる。

さて、引馬城の城主は今川家の家老・飯尾連竜で、飯尾連竜の妻はお田鶴の方(椿姫)である。

井伊直平も飯尾連竜も今川家の家臣だったが、両氏は遠江(静岡県西部)で勢力争いをしていた。(注釈:飯尾連竜は徳川家康に内通していたという説もある。)

そこで、飯尾連竜の妻・お田鶴の方(椿姫)は一計を案じ、引馬城に立ち寄った井伊直平に毒入り茶を飲ませて、井伊直平を暗殺したのである。

(注釈:ただし、井伊直平は75歳、別説では85歳という高齢だったので、お田鶴の方に毒殺されたのではなく、単なる急死だったという説もある。)

すると、今川氏真は、引馬城の城主・飯尾連竜が離反したと思い、井伊家に引馬城を攻めを命じ、井伊家は永禄7年(1564年)に引馬城を攻めた。

しかし、井伊家は引馬城を落とせなかったうえ、虎松(井伊直政)を保護していた今川家の重臣・新野親矩(新野左馬助)などが討死、井伊谷を預かっていた井伊家の重臣・中野信濃守(中野直由)などが討死し、井伊家は大きな被害を出した。

さて、引馬城の城主・飯尾連竜は、徳川家への寝返りを否定し、えん罪を主張した。

すると、引馬城を攻め落とせなかった今川氏真は一計を案じ、引馬城の城主・飯尾連竜に和睦を持ちかけて駿府へと呼び寄せ、引馬城の城主・飯尾連竜を誅殺したのである。

このため、引馬城の飯尾家は大混乱になり、家臣は逃げてしまい、僅かな家臣と兵士が残るだけとなった。

そこで、城主・飯尾連竜の妻・お田鶴の方(椿姫)が、亡き夫・飯尾連竜の後を継ぎ、引馬城の女城主となるのである。

虎松(井伊直政)の暗殺計画

さて、引馬城の城主・飯尾連竜を誅殺した今川氏真は、虎松(井伊直政)が生きている事を知り、虎松(井伊直政)も誅殺しようとした。

このとき、井伊家の男性は幼い虎松(井伊直政)だけとなっていた。虎松(井伊直政)が死ねば、井伊家の男系は断絶することになる。

この危機を救ったのが、今川家の重臣・新野親矩(新野左馬助)の妻である。新野親矩(新野左馬助)の妻は、虎松(井伊直政)を出家させて寺に入れ、虎松(井伊直政)を守った。

新野親矩(新野左馬助)と妻は、2度に渡り虎松(井伊直政)を救い井伊家断絶の危機を救ったため、井伊家から「井伊氏1000年の歴史で、最大の危機を救った」と評価されている。

さて、虎松(井伊直政)は出家したが、それでも命を狙われたため、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は虎松(井伊直政)を三河の鳳来寺へと移して虎松(井伊直政)を守った。

こうして、曾祖父・井伊直平が毒殺され、虎松(井伊直政)も三河の鳳来寺へと逃れたので、井伊家は当主不在となり、女性の井伊直虎が井伊家の当主になるのであった。

おんな城主・井伊直虎の立志伝の後半」へ続く。

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