一色大二郎のファミリア改革と村井ミヨ子

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の生涯を描く実話「ファミリアの創業者・坂野惇子の立志伝」の第39話「一色大二郎のファミリア改革と村井ミヨ子」です。

第39話より前のあらすじは、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

田村駒を離脱してファミリアへ

昭和25年(1951年)6月に勃発した朝鮮戦争の影響で、繊維業界は「ガチャマン景気」と呼ばれる好景気に恵まれるなか、大阪の繊維問屋「田村駒商店」の2代目・田村駒治郎は、昭和26年(1951年)3月11日にアメリカへと渡り、毛糸の原料となる毛屑を大量に買い付けた。

しかし、4ヶ月後の昭和26年(1951年)7月に朝鮮戦争が停戦交渉に入り、繊維相場は急落。2代目・田村駒治郎がアメリカで買い付けた毛屑が日本に届いた時には、相場は半値以下となっていた。

2代目・田村駒治郎は、この損失を子会社的存在の和泉毛糸に押しつけたため、和泉毛糸が倒産。田村駒商店は、和泉毛糸が倒産した影響で、3億3800万円の不良債権を抱えてしまった。

経営が悪化した田村駒商店は、粉飾決算で銀行から融資を取り付けて生きながらえていたが、不況の影響で赤字は雪だるま式に増大して経営破綻してしまう。

こうして、田村駒商店は、進退が窮まり、昭和29年(1954年)9月にメーンバンクの三和銀行に粉飾決算を告白して支援を求めたのである。

さて、三和銀行の主導で、三和銀行(三菱東京UFJ銀行)・第一物産(三井物産)・常盤鋼材の3社が田村駒商店の支援に乗り出し、田村駒商店は「田村駒常盤」へと社名を変更して三和銀行の傘下に入った。

支援企業の、三和銀行(三菱東京UFJ銀行)・第一物産(三井物産)・常盤鋼材から取締役が送り込まれたが、2代目・田村駒治郎は何とか社長の座に留まった。しかし、もはや名目だけの社長であった。

社長に留まった2代目・田村駒治郎は、呼吸困難を伴う心臓発作を繰り返しながらも再建に向けて奔走して激務を続け、昭和36年(1961年)1月21日早朝に心臓発作で死去してしまう。

2代目・田村駒治郎の死後は社長を置かず、支援する三和銀行(三菱東京UFJ銀行)出身の直原一雄、第一物産(三井物産)出身の斎藤静夫、常盤鋼材出身の黒田宗次郎の代表取締役3人によって田村駒常盤(田村駒)は運営されるようになった。

こうして、田村駒トロイカ体制時代が到来し、2代目・田村駒治郎の死去をもって、田村駒常盤(田村駒)は名実ともに田村家の手から離れることになった。

このようななか、2代目・田村駒治郎が死去した翌年の昭和37年(1962年)6月に田村駒常盤(田村駒)の取締役総務部長をしていた一色大二郎が辞職する。

そして、田村駒常盤を辞めた一色大二郎は、ファミリアに招かれてファミリアの相談役に就任した。

さらに、昭和37年(1962年)7月には田村駒常盤で監査を務めていた田村家の田村寛次郎田村陽(飯田陽)が辞職し、妻らが創業した子供服ブランド「ファミリア」へと移った。

ただし、田村家は完全に田村駒常盤(田村駒)から去っておらず、2代目・田村駒治郎の長男・田村忠嗣が3代目・田村駒治郎を襲名して田村駒常盤(田村駒商店)へと入っている。

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一色大二郎のファミリア改革

坂野惇子らが創業した子供服ブランド「ファミリア」は、昭和31年(1956年)5月に東京の数寄屋橋阪急に出店して東京出店を果たした。さらに、昭和34年(1959年)に美智子皇后の出産に際してお仕度を仰せつかり、皇室御用達ブランドになっていた。

ファミリアは、物作りに対しては一切の妥協を許さない会社であったが、名前の通り、家族的な会社であり、社員は社長の坂野通夫を「坂野さん」、坂野惇子を「坂野の奥さん」、田村光子を「田村の奥さん」などと、名前で呼び合っていた。

しかし、会社としてファミリアを大きくしていくうえでは、「坂野の奥さん」「田村の奥さん」などと呼び合うのは相応しくなかった。

そこで、ファミリアの社長・坂野通夫は、田村駒常盤(田村駒)を退職した取締役総務部長の一色大二郎を相談役としてファミリアに迎え入れ、ファミリアの改革を行ったのである。

ファミリアの相談役となった一色大二郎は、「坂野の奥さん」「田村の奥さん」などと名前で呼び合うことを禁止し、「社長」「部長」と役職名で呼び合うように指導した。

しかし、女性が大半という職場だったこともあり、社内からの反発は強く、この改革は相当に苦労した。

ファミリア創業メンバー・村井ミヨ子(中井ミヨ子)も、一色大二郎の改革で相当に苦労した1人である。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ファミリアの前身となる「ベビーショップ・モトヤ」を創業する前から、坂野家に遊びに行くと、坂野惇子の長女・坂野光子と一緒になって、坂野惇子のことを「おかあちゃま、おかあちゃま」と呼んで遊んでいた。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)はファミリア創業メンバーのなかで最年少で、田村光子と16歳、坂野惇子と5歳、田村江つ子(榎並江つ子)と4歳離れており、村井ミヨ子(中井ミヨ子)にとって坂野惇子は「おかあちゃま」だったのである。

ベビーショップ・モトヤ時代、店番を務めていた村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、お客様の前では坂野惇子は「坂野さん」と呼んでいたのだが、それすらも苦痛だった。

第40話「「ファミリア品質を守った田村光子と岡本研究所の立志伝」へ続く。」へ続く。

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