インスタントラーメンの発明者は台湾人だった

日本初(世界初)のインスタントラーメン(即席麺)の発明者は誰かという問題が必ず起きるので、知られざる即席麺の歴史を紹介する。

はじめに

インスタントラーメンの発明者には諸説あるので、発明の歴史を紹介するのだが、最終的にはインスタントラーメン(即席麺/即席ラーメン)をどのように定義するのか、という問題になる。

この定義が非常に難しいのだが、現在の感覚ではなく、当時はチキンラーメンが「湯をかけるると、2分で出来る魔法のラーメン」と呼ばれたことからも分かるように、当時は即席性が重視されていたので、即席性を追求した麺をインスタントラーメンと定義する。

即席性を追求していない乾麺、鍋に入れて数分間煮込むラーメンなどは、「乾麺」または「半即席ラーメン」に分類されるため、インスタントラーメンには含まない。

インスタントラーメン前史

日本で初めて麺の開発に取り組んだのは、佐賀県の真崎照郷だとされる。真崎照郷は明治16年(1883年)に製麺機を開発した。当時の製麺は手作業だったが、真崎照郷の発明により、製麺の機械化が始まった。

それ以降、麺類については大きな進歩は無かったが、戦時中にも麺類の研究がされており、第二次世界大戦の時に兵士の携帯食料として、インスタントラーメン的な物は存在したが、即席性があったかは不明である。

そして、戦後、早い時期からインスタントラーメン的な物は販売されたのだが、これは資料が無いのでなんとも言えない。

戦後、麺開発が盛んになるのは、配給制だった小麦が昭和27年(1952年)6月に自由化されて以降のことである。

まず、製麺業「都一」の田村良雄が、昭和27年(1952年)10月に特許「屈曲乾麺の製法」を出願し、屈曲乾麺の生産を開始しする。

さらに、「都一」の田村良雄が、昭和29年(1954年)2月に特許「屈曲麺類製造装置」を出願した。

この「屈曲乾麺の製法」「屈曲麺類製造装置」という2つの特許は、インスタントラーメンの基礎となる特許だが、「都一製麺」が製造していたのは乾麺である。「都一製麺」は自社のポリシーからインスタントラーメンではないと否定している。

そして、昭和30年(1955年)に、京都府の松浦喜市郎が「携帯用即席味付麺類製造法」という特許を出願している。

松浦喜市郎は「人造米」を発明した有名な発明家で、松浦喜市郎の「携帯用即席味付麺類製造法」が、特許上で初めて即席性を追求した味付け麺である。

しかし、あくまでも味付けた乾麺であり、実際に即席性があったかと言われると、疑問で、インスタントラーメンとまでは言えないだろう。

また、昭和30年に松田産業(おやつカンパニー)が「味付中華麺」を発売しているが、「味付中華麺」は味を付けた乾麺なので、インスタントラーメンには入らない。

このように、インスタントラーメンに向けて着実に進化はしているなか、各産業の技術を飛躍的に発展させる出来事が日本で起きた。

それが「第1次南極観測隊」であり、この「第1次南極観測隊」こそが、日本初のインスタントラーメンの確立に大きく関わるのである。

第1次南極観測隊とインスタントラーメン

昭和32年から昭和33年にかけて、科学のオリンピック「国際地球観測年」が開催されることになり、日本も「国際地球観測年」に参加することになった。

南極地域観測は「国際地球観測年」の一部門に過ぎず、当初は、朝日新聞が科学者を支援して南極に派遣するという計画だった。

しかし、想定していた予算では、南極へ行くことが出来ない事が判明し、朝日新聞の事業は国家事業へと発展し、「南極地域観測」となった。これが第1次南極観測隊が発足した経緯である。

このとき、学者が南極で1年を過ごすことは不可能なので、登山家が集められて「第1南極越冬隊」が編成されたのだが、第1次南極越冬隊に関する費用は国家予算から出ず、義援金でまかなわれることになった。

このため、第1次南極越冬隊の隊長・西堀栄三郎が各企業に支援を要請しており、1000社を超す企業が第1次南極観測隊を支援した。

このとき、南極に関する多の情報は少なく、ほぼ未開の地であり、最悪のケースが想定され、各企業に高い技術力が求められたので、日本の技術発展に大きく寄与したのである。

当然、1年間の南極生活で食料は重要な問題なので、様々な保存食が研究・開発された。インスタントラーメンもその1つだった。

第1次南極観測隊が正式に発表されたのは、昭和30年(1955年)9月27日の朝日新聞朝刊で、この昭和30年を切っ掛けに、インスタント食品も開発が進み、インスタントラーメンの発展に大きく関わったのである。

さて、インスタントラーメンを製造する技術自体は第二次正解大戦中に確立していたと言われ、第1次越冬隊の中でもインスタントラーメンの開発に成功していたらしのだが、味が悪かったらしい。

このため、最終的に、第1次南極観測隊にインタンとラーメンを提供したのが、大阪・阿倍野で中華料理店を営む在日台湾人・張国文(東明商行)だった。

第1次南極観測隊が日本を出発したのは、昭和31年(1956年)11月8日なので、それまでに張国文(東明商行)のインスタントラーメンは完成していたことになる。

(ただし、張国文がインスタントラーメンを発売したのは、2年後の昭和33年である。)

したがって、資料上で確認できるインスタントラーメンの発明者は、東明商行の張国文ということになるのが、ゼロから発明したのかというと疑問で、実は張国文の故郷・台湾にはインスタントラーメンの原型となる「鶏糸麺(ケーシーメン)」という料理があるのだ。

インスタントラーメンのルーツは台湾

中国の清の時代に「伊府麺(イーフーメン)」という麺を油で揚げた料理がある。伊府麺がインスタントラーメンの原型と言われるが、伊府麺は、あくまでも調理法の1つであり、インスタントラーメンではない。

この伊府麺が台湾に渡り、台湾で「鶏糸麺(ケーシーメン)」という料理になった。鶏糸麺は素麺を油で揚げた料理である。この「ケーシーメン」が名古屋名物「きしめん」の語源になっているという説もある。

さて、在日台湾人が台湾から「鶏糸麺」を取り寄せて食べたのだが、やがて日本で「鶏糸麺」を作って食べるようになった。

神戸の在日台湾人は、麺を油で揚げるときに、金網に入れて成形するという工夫をしており、これがチキンラーメンの原型とも言われる。

戦後も早い時期から、インスタントラーメンらしきものは販売されていたので、在日台湾人が「鶏糸麺」を販売していた可能性もあるが、詳しいことは分からない。

ただ、第1次南極観測隊が発表された昭和30年(1955年)ごろから、在日台湾人の間で「鶏糸麺」を改良して販売するような動きが活発になってきたようだ。

しかし、この時点でインスタントラーメンは注目されるような商品では無かったので、、この辺も資料が無いので、正確なことは分からない。

インスタントラーメンが注目されるようになるのは、日清食品の安藤百福(呉百福)が発売した「チキンラーメン」が昭和34年(1959年)にヒットしたことが切っ掛けである。

チキンラーメンとミッチーブーム

話は複雑になるのだが、チキンラーメンがヒットする経緯を紹介するには、東京の在日台湾人・陳栄泰(大和通商)のことをから紹介しなければならない。

陳栄泰は、大和通商の社長で、昭和33年(1958年)4月に東京・日本橋の三越百貨店などで、インスタントラーメン「ヤマトの鶏糸麺(ケーシーメン)」を発売した。

「ヤマトの鶏糸麺」は、素麺を金網で形成して、油で揚げたもので、湯をかければ食べらたが、味付け麺では無かった。

さて、大和通商の陳栄泰は、即席麺「ヤマトの鶏糸麺」を関西で販売することに決め、関西販売を担当したのが在日台湾人・許炎亭(井上炎亭)である。

この許炎亭(井上炎亭)が昭和33年の夏ごろに、在日台湾人の安藤百福(呉百福)と再会し、安藤百福(呉百福)にインスタントラーメン「ヤマトの鶏糸麺」のことを教えた。

安藤百福(呉百福)は、華僑向けの信用組合「大阪華銀」の理事長を務めたいが、大豆相場に投資して失敗し、昭和32年(1957年)9月に信用組合「大阪華銀」を倒産させ、横領・背任の罪で執行猶予付き有罪判決を受けていた。

安藤百福(呉百福)が「大阪華銀」の理事長で、許炎亭(井上炎亭)が「大阪華銀」の理事兼顧問という関係だった。

安藤百福(呉百福)は「ヤマトの鶏糸麺」に興味を持ち、許炎亭(井上炎亭)と一緒に「ヤマトの鶏糸麺」の関西代理店「三倉物産」を設立した。許炎亭が社長で、安藤百福(呉百福)は株主だった。

既に許炎亭(井上炎亭)が関西代理店「三倉物産」を設立しており、安藤百福を雇ったという資料もある。

そして、許炎亭(井上炎亭)が「ヤマトの鶏糸麺」を英語に直して「チキンラーメン」という名前で販売したという。

やがて、東京で生産して関西まで運ぶのはコストがかかるということで、大阪で生産することになり、安藤百福(呉百福)は陳栄泰から「チキンラーメン」の製法を学び、「三倉物産」を引き継いで、大阪で製造・販売するようになった。1袋1円のロイヤリティを払う契約だったという。

しかし、安藤百福(呉百福)は最初の2ヶ月しかロイヤリティーを払わなかったという証言があるので、安藤百福(呉百福)は「チキンラーメン」に改良を加えたり、製法を変えりして、現在の「チキンラーメン」と同じように、味付け麺へと移行したものだと考えられる。

ところが、安藤百福(呉百福)の販売するチキンラーメンも全く売れなかったので、許炎亭(井上炎亭)に相談した。

このころ、明仁皇太子(平成の今上天皇)と平民・正田美智子の婚約が決まり、「ミッチーブーム」が起きていた。ご成婚パレードを観るために、高価なテレビが普及したと言うほどの大ブームだった。

そして、正田美智子の実家が日清製粉の創業家で、父親が日清製粉の社長・正田英三郎だったため、マスコミは連日のように「日清製粉」を取り上げていた。

そこで、許炎亭(井上炎亭)が、日清製粉にちなんだ名前を付ければ売れるのではかとアドバイスすると、安藤百福(呉百福)は小膝をたたいて「そうだと」と言い、昭和33年(1958年)12月20日に社名を「日清食品」へと変更した。

そうして、安藤百福は「日清」を前面に打ち出して宣伝すると、「チキンラーメン」はミッチーブームの波に乗って昭和34年(1959年)に爆発的にヒットしたのである。

ところで、昭和31年の第1次南極観測隊にインスタントラーメンを提供した東明商行の張国文は、どうしていたのかというと、理由は不明だが、昭和33年の春頃に「えびラーメン(長寿麺)」を発売している。

チキンラーメンと特許紛争

チキンラーメンが昭和34年に大ヒットすると、張国文(東明商行)・陳栄泰(大和通商)・安藤百福(日清食品)という3人の在日台湾人が特許を主張して争った。

特許を申請した順番に紹介すると、まず、大和通商の陳栄泰は、昭和33年(1958年)11月27日に特許「素麺を馬蹄形状の鶏糸麺に加工する方法」を申請した。

次いで、東明商行の張国文が昭和33年12月18日に特許「味付乾麺の製法」を申請した。

これに遅れて、日清食品の安藤百福(呉百福)が昭和34年(1959年)1月22日に、義母・安藤須磨の名義で、特許「即席ラーメン製造法」を申請した。

さらに、エースコックの村岡慶二が昭和35年2月10日に特許「即席中華麺製造法」を申請して、第4の特許として泥沼の特許紛争に参戦した。

この特許紛争は約6年にわたる複雑な争いなので、結果だけを紹介する。

まず、安藤百福(日清食品)が張国文(東明商行)から2300万円(現在の価値で約3億円)で特許を買い取った。

そして、食糧庁の和解勧告を受け、安藤百福(日清食品)と陳栄泰(大和通商)が和解した。

最後に、エースコック(村岡慶二)が安藤百福(日清食品)に特許を譲渡し、安藤百福(日清食品)の特許を無料で使用するという形で和解した。

こうして、安藤百福(呉百福)は、特許紛争を納め、昭和39年(1964年)6月に、全国の有力メーカー56社が加盟する「日本ラーメンエ業協会」を設立して、その会長に就任し、インスタントラーメン業界のトップに立ったのである。

インスタントラーメン発明者の結論

昭和33年(1958年)よりも前に、インスタントラーメン的な物は存在していた事は事実であるが、それらの物は特許を申請しておらず、詳しい製法が分からないため、インスタントラーメンかどうか判断できない。

そこで、特許を出願した張国文(東明商行)・陳栄泰(大和通商)・安藤百福(日清食品)の3人に限定して考える。

まず、最初の特許を出願した陳栄泰(大和通商)の特許だが、陳栄泰(大和通商)の特許は「味付け麺」ではないため、昭和34年ごろの感覚を重視すれば、インスタントラーメンでは無いと考えるのが妥当だろう。

陳栄泰(大和通商)の特許は、麺を揚げる油の温度を「50度」としていたのだが、特許紛争のなかで「150度」へと訂正したこともあり、特許の成立が大幅に遅れたという事情もある。

張国文(東明商行)の特許を購入した安藤百福(日清食品)も、陳栄泰(大和通商)の特許をインスタントラーメの特許としては認めなかったため、陳栄泰(大和通商)の特許を購入しなかったと証言している。

このため、張国文(東明商行)の特許は、インスタントラーメンではなく、インタンとラーメの原型となった台湾料理の「鶏糸麺」の製法特許と考えるのが妥当だと考える。

したがって、実質的にインスタントラーメンの特許となるのは、張国文(東明商行)と安藤百福(日清食品)の特許である。

この2つの特許は酷似しており、大きな違いは味付けの行程で、張国文(東明商行)の特許は麺をスープに浸すのに対し、安藤百福(日清食品)の特許は麺にスープを噴霧する。

当時の法律では、インスタントラーメンという商品では特許が取れず、製法で特許を取得していた。

そして、製法が少し違えば、特許が取得できたという事情があり、両方とも特許が成立したのだが、工業生産するという点から考ると、張国文(東明商行)の特許の方が優れていたという。

このため、当時の事情を考えると、名実ともに張国文(東明商行)がインスタントラーメンの発明者と言える。

インスタントラーメン発明者のまとめ

最初にインスタントラーメンを開発したのが張国文(東明商行)で、張国文(東明商行)は安藤百福(日清食品)に特許を売却して業界から去った。

最初にインスタントラーメンの特許を主張したのが、陳栄泰(大和通商)だったが、張国文(東明商行)の会社はラーメンが売れずに倒産した。

最初に商業的に成功したのが安藤百福(日清食品)で、安藤百福(日清食品)は紆余曲折がありながらも、日清食品を大きくして、成功した。

昭和34年にインスタントラーメンに参入したエースコック(村岡慶二)も、台湾の「鶏糸麺(ケーシーメン)」を参考して「エースラーメン」を開発したと証言しており、インスタントラーメンのルーツは台湾の「鶏糸麺」というのが、当時の業界の共通認識だったようだ。

しかし、長きにわたる泥沼の特許紛争に振り回された関係業者は、「我々はインスタントラーメンが作れれば、誰が発明者でもいい」と黙認したので、現在の安藤百福(呉百福)が開発したということで定着したようだ。

電話の発明者はグラハム・ベルではなかった?

一般的に電話の発明者はグラハム・ベルとされているが、実際に電話の技術を発明したのはイライシャ・グレイで、ベルはグレイの発明を見て電話を開発した。

しかも、ベルとグレイは同じ日(1876年2月14日)に電話の特許を出願したのだが、ベルの方が2時間早く特許を出願したため、電話の特許はベルのものとなった。

しかし、ベルやグレイよりも先に電話を発明していた人物が居た。それは発明王のトーマス・エジソンである。

発明王のトーマス・エジソンはベルよりも1足先に電話を完成させており、1ヶ月前の1986年1月14日に特許を出願していたのだが、書類の不備で受理されなかったため、ベルに特許を取得されてしまったのだ。

その後、トーマス・エジソンは炭素を使用した「カーボンマイク」を開発して電話の音質を向上させたて特許を取得し、グラハム・ベルと泥沼の特許訴訟を起こしたのである。

ところが、グラハム・ベルよりも16年前の1860年にドイツのフィリップ・ライスが「テレフォン(電話)」を発明しており、電話の発明者はフィリップ・ライスだという説もあるのだ。

このように本当の発明者は別にいたというのは良くある話で、次ぎは世界初のカップラーメンにまつわる秘話を紹介した。

カップラーメンの発明者の日清食品の安藤百福ではない?」へ続く。

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