VANの創業者・石津謙介の立志伝

VAN(ヴァンヂャケット)の創業者で「メンズファッションの神様」「アイビー教の教祖」と呼ばれる石津謙介(いしづ・けんすけ)の立志伝です。

石津謙介(いしづ・けんすけ)の立志伝

石津謙介は明治44年(1911年)10月20日に岡山県岡山市片瀬町36番地(岡山市北区京橋南町6丁目16番地)で、3代続く紙問屋「郡屋(こおりや)」の次男(5人兄弟の4番目)として生まれた。

父は石津定三(いしづ・ていぞう)で、母は石津緒長(いしづ・おます)である。

石津家の周辺に石津家は3件あり、本家は酒問屋を営む「酒石津」で、紙問屋を営む「紙石津」と、金物問屋を営む「鍋石津」は分家である。

この呼び名は「通称」であり、紙問屋の石津家の屋号は「郡屋(こおりや)」である。

紙問屋「郡屋」は代々、男子に恵まれず、養子をもって継いでおり、3代目の父・石津定三も養子である。

紙問屋「郡屋」は、元々、紙の原料を大蔵省に納めていたが、3代目の父・石津定三が紙問屋に発展させ、近所の郵便局と印刷所を共同経営するなどして岡山県で最大の紙問屋となっていたので、石津家は裕福な家庭であった。

父・石津定三は、商売一筋の堅物で、道楽もせず、酒の席も付き合い程度だった。

一方、母・石津緒長は「岡山小町」と評されるほどの美人で、お洒落に敏感だった。母・石津緒長は料理などにも力を入れており、石津謙介に大きな影響を与えることになる。

お洒落に目覚める

石津謙介は、大正7年(1915年)4月に近所の清輝尋常小学校に入学した。父・石津定三が校友会の副会長を務めていた関係から、石津謙介は級長を務めた。

清輝尋常小学校の生徒は着流しに草履という格好だが、級長と副級長は袴が許されており、級長の石津謙介は袴をはいていた。

ところが、石津謙介は、当時に流行していた地下足袋を履いており、袴に地下足袋という奇妙な組み合わせに対し、疑問を持ち始める。

そして、小学1年生のとき、石津謙介は、岡山師範学校附属小学校の生徒が詰襟に金の7つボタンで通っているのを見て「かっこいい」と思い、岡山師範学校附属小学校に転校したいと駄々をこねた。

これが、石津謙介がお洒落に目覚めた瞬間であり、その後の運命を左右する瞬間だった。

さて、このわがままがアッサリと認められて転校が決まり、小学2生から岡山師範学校附属小学校に通うことになった。

そして、老舗の洋服店「花屋」で制服を作り、エナメル仕上げのゴム靴を履いて岡山師範学校附属小学校に通った。

石津謙介は学業も優秀で、小学2年生の3学期から卒業するまで学級長を務めた。また、野球などの遊びにも力を入れた。

そうした一方で、石津謙介は小学5年生の時に初めて電車に乗り、乗り物への興味が目覚めていく。

伯父の石津龍輔が岡山電気軌道の社長だったことから、石津謙介は無料で電車に乗る事が出来たので、電車に乗るのが好きになり、車掌らとも仲良くなった。

第一岡山中学へ進学

4歳上の兄・石津良介が第一岡山中学へと進学しており、石津謙介も岡山師範学校附属小学校を卒業すると、大正13年(1924年)4月に第一岡山中学へと進学した。

第一岡山中学は、岡山藩の藩校を前身とする学校で、第一岡山中学→岡山第六高校→東京帝国大学へと進学するのがエリートコースだった。

第一岡山中学へと進学した石津謙介は、背が小さかったので、背が大きく見えるように、厳しい校則の範囲内で制服を加工するなどして、お洒落に磨きをかけていた。

その一方で、石津謙介は野球が好きだったので野球部に入った。しかし、背が低かったので裏方に徹し、スコアラーとマネージャーを務めた。

他にも水泳やバレーボールもやり、中学4年生の時にスキーも始めた。

また、乗り物に興味を持っていた石津謙介は、岡山電気軌道が待機させいる自動車フォード・ロードスターを乗り回し、自動車の腕を磨いた。

石津家のお家騒動

4歳上の兄・石津良介は優秀だったが、岡山第六高校の受験に失敗し、京都で1年の浪人を経て、東京の慶應義塾大学経済学部へと進学した。

文学好きだった兄・石津良介は、京都の浪人時代に映画に魅了されており、慶應義塾大学の映画研究会に参加する一方で、松竹キネマでシナリオライターのアルバイトをしていた。

そして、映画とマルクス主義に傾倒した兄・石津良介は、昭和2年(1927年)8月に夏休みで帰郷したとき、家業を継がないと宣言したのである。

困った父・石津定三は、次男の石津謙介に紙問屋「郡屋」を継がせることにした。しかも、大学へ行かせると、兄・石津良介の二の舞になると考え、中学を卒業すると同時に紙問屋「郡屋」を継ぐ事を厳命したのである。

しかし、モダンボーイの石津謙介は、兄・石津良介から東京の話しを聞いて東京に憧れ、東京の大学へ進学しようと考えていたので、この話から逃げようと頑張った。

この石津家の騒動は、最終的に、石津謙介が3年制大学(短期大学)へ進学することを条件に、紙問屋「郡屋」を継ぐ約束をしたので終結した。

6年制大学への進学を断たれた石津謙介は、勉強する必要が無くなったため、勉強を止めて遊びやお洒落に力を入れ、不良となった。

明治大学商科専門部へと進学

6年制大学へは進学できなくなったが、3年制大学(短期大学)でも東京へ行けることには変わりは無い。

石津謙介は3年間の東京生活を有意義に遊ぶために、兄・石津良介と相談して、明治大学商科専門部へ進学する事に決め、第一岡山中学を卒業すると、昭和4年(1929年)4月に明治大学商科専門部へと進学した。

明治大学商科専門部を選んだのは、学問のレベルではなく、スポーツが有名だから選んだ。出席日数がなくても卒業できる事も大きな要因だっただろう。

第一岡山中学はエリート校だったので、明治大学商科専門部に進学するのなら、卒業証書は出せないと言われたのだが、石津謙介は卒業論文を書くことで何とか卒業を認めてもらう事ができた。

ただ、石津謙介は卒業論文でマルクス主義について書いたので、0点をつけられるなど、一悶着あったが、なんとか卒業が認められ、明治大学商科専門部へと進学したのである。

こうして、晴れて上京した石津謙介は、毎月35円(初任給程度)の仕送りを得て、東京で遊び三昧の日々を過ごすことになる。

上京した石津謙介は、昭和4年(1929年)に初めてスーツを作り、ジャケットも購入した。ジャケットは当時の価格で50円もしたという。

さて、乗り物好きの石津謙介は、神田鈴木商店からバイク「インディアン・スカウト750cc」を借りて、友達4人とバイク部を設立した。

その後、自動車の運転免許を取得したので、バイク部を自動車部へと発展させた。これが明治大学自動車部の始まりである。

そして、石津謙介は、兄・石津良介の知人から中古車フォードを50円買い取り、円タク(個人タクシー)を始め、円タクで小遣いを稼ぎ、高級クラブなどにも遊びに行った。

自動車の購入代金50円は1年ほどで取り戻したのだが、やがて自動車が盗まれたので、友達4人と飛行機部を設立した。資材を購入して勉強に励んだが、飛行機は完成せず、空港の貸し飛行機を操縦した。

そうした一方で、大学2年生の時にスポーツにはまった。特にボクシングが好きだったが、殴られるのが嫌なので、もっぱらセコンドと観戦が主だった。冬はスキーに没頭した。

妻・笠井昌子との出会い

石津謙介の妻・笠井昌子は、岡山の中央市場にある乾物問屋「丸儀」の娘ある。石津謙介よりも1歳下で、岡山高等女学校研究科の女学生だった。

2人の出会いについては若干の食い違いがあり、石津謙介の記憶によると、妻・笠井昌子と出会ったのは中学5年生の時である。

石津謙介の通学中に中央市場があり、妻・笠井昌子と良くすれ違っていたので、石津謙介が妻・笠井昌子に声を掛けたのが出会いだという。つまり、ナンパである。

一方、妻・笠井昌子の記憶によると、石津謙介と出会ったのは、昭和4年の夏、石津謙介が明治大学商科専門部の1年生の時だった。

石津謙介と兄・石津良介が夏休みで帰省しており、笠井昌子が友達に誘われて石津家に遊びに行き、初めて石津謙介と出会ったのだという。

この出会いはどちらが正しいのかは分からないが、その後、2人は交際するようになり、禁止されている喫茶店へ行ってコーヒーを飲んだり、映画を観に行ったりした。

男子グループと女子グループがそれぞれにキャンプに出かけ、キャンプ場で合流して交際を深めていった。

岡山は古風だったので、男女交際には厳しかったが、2人は気にせずに交際したので、モダンボーイとモダンガールのカップルとして目立ち、「不良」として注目される存在となった。

笠井昌子との同棲

昭和6年、笠井昌子は駆け落ちした友達に、石津良介の住所を紹介したのだが、駆け落ちした女性の実家から捜索願が出た。

駆け落ちした男性がマルクス主義に傾倒していたので、赤狩りをしていた特高警察が男性を捕まえるため、笠井昌子を連行して駆け落ち先を尋問した。

この一件で恐ろしい思いをした笠井昌子は、岡山に居るのが怖くなり、石津謙介の誘いを受けて上京し、同棲を開始する。

しかし、笠井昌子の母親が迎えに来たので、同棲は5日間程度で終わった。

その後、笠井昌子との交際が父・石津定三の知るところとなり、父・石津定三が激怒したため、石津謙介は仕送りを止められてしまうが、結婚を約束していると言い、父・石津定三を説得した。

紙問屋「郡屋」を継ぐ

石津謙介は昭和7年(1932年)3月に明治大学商科専門部を卒業すると、父親との約束通りに岡山へ戻り、紙問屋「郡屋」を継いで4代目となった。

さらに、同年4月に兄・石津良介夫婦との合同結婚式を挙げ、恋人・笠井昌子と結婚した。

石津謙介は紙問屋「郡屋」を継いだが、東京生活で道楽に拍車がかかっており、ドイツからグライダーの設計図を取り寄せ、ドイツ語の分かる岡山大学の医師に翻訳してもらってグライダーを完成させ、航空局の検査に合格した。

さらに、愛国飛行場で行われた1ヶ月にわたる合同訓練に参加し、滑空士養成教官の免許を取得した。石津謙介は日本で61番目の合格者だった。

大阪のスポーツメーカー「美津濃(ミズノ)」が飛行訓練用のグライダーの生産を始めると、石津謙介の美津濃に招かれてグライダーの教官を務めた。

なお、石津謙介は、飛行機の操縦を教えていたことから、「戦時召集延期者」として、徴兵を免除されることになる。

紙問屋「郡屋」の廃業

石津謙介は昭和10年に長男・石津祥助、昭和12年に次男・石津裕介、昭和14年に三男・石津啓介を儲けており、私生活は順調だった。

石津謙介は道楽に走っても、紙問屋「郡屋」の方は番頭が居たので、商売には影響なかった。

しかし、戦況の悪化から、昭和13年(1938年)に紙の統制が始まり、紙問屋「郡屋」を取り巻く環境は悪化し、昭和14年(1939年)に入ると、紙の統制はさらに厳しくなった。

紙問屋「郡屋」は月に10日ほどしか営業できないような状態で、父・石津定三は商売の事で常にイライラしており、4代目の石津謙介は廃業か存続の判断を迫られていた。

このようななか、石津謙介は、親友・大川照雄から中国の天津へ行かないかと誘われた。

親友・大川照雄は親戚の洋品店「スミナ」で働いていたのだが、中国の天津で洋品問屋「大川洋行」を経営している兄・大川正雄の世話にことになったので、一緒に行かないかというのである。

石津謙介は、ちょうど廃業を考えていたので、親友・大川照雄の誘いを受け、昭和14年(1939年)8月に妻子を残して中国の天津へと渡り、洋品問屋「大川洋行」に就職してファッションの世界に足を踏み入れた。

そして、しばらくすると、日本に残してきた妻子も天津に呼び寄せた。

天津の大川洋行時代

中国の天津は租界(中国の外国人居留地)で、5万人ほどの日本人が住んでおり、日本企業も進出していた。ただ、租界と言っても人口の8割は中国人だった。

大川兄弟の兄・大川正雄が経営する洋品問屋「大川洋行」は、小さな洋品店で、弟・大川照雄がナンバー2になり、石津謙介はいきなりナンバー3として営業部長を任された。

天津には様々な国の租界があり、デザイナーも居たし、工場もあったので、石津謙介は英語と中国語を勉強して、外国人との折衝あたり、東京時代に蓄積したファッションセンスを活かして様々な服を企画販売して業績を伸ばしていった。

その一方で、洋品問屋「大川洋行」は現地新聞「天津日報」に広告をだしていたので、石津謙介は広告も担当した。

佐々木営業部の尾上清と出会う

佐々木営業部(レナウン)は日本最大のメリヤス問屋で、中国の天津に支店を出しており、洋品問屋「大川洋行」は主に佐々木営業部(レナウン)から生地を仕入れていた。

尾上清は、佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上設蔵の長男で、明治44年(1911年)5月23日に生まれた。

石津謙介が明治44年(1911年)10月20日に生まれているので、尾上清と石津謙介は同じ年である

尾上清は佐々木営業部(レナウン)に就職していたが、昭和13年に徴兵され、陸軍歩兵中尉として天津の独立高射砲中隊に配属されていた。

このころ、中国・天津の日本人は戦争の特需によって景気が良く、花街も賑やかで、遊び人の尾上清は、何かについて中隊を抜け出し、花街で豪遊していた。

そして、尾上清の豪遊の資金源が、佐々木営業部(レナウン)の天津支店であり、洋品問屋「大川洋行」だったのである。

洋品問屋「大川洋行」は取引先である佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上設蔵から「尾上清が行くので、よろしく頼む」と頼まれていたのだ。

そして、尾上清は豪快で面倒見が良かったので、石津謙介も尾上清の世話になって豪遊し、「宴会部長」の異名を取った。

その一方で、石津謙介は滑空士養成教官の免許を持っていたので、中国の天津でも中学生に飛行機の操縦を指導しており、「戦時召集延期者」として兵役を免れていた。

デザイナーとしてデビュー

昭和16年(1941年)12月8日には日本が真珠湾攻撃を行い、第二次世界大戦に参戦して以降、次第に戦況は悪化していき、佐々木営業部(レナウン)などが撤退していく。

しかし、中国の天津は、日本の本土とは状況が違い、依然として好景気が続いていた。

昭和17年(1942年)、佐々木営業部(レナウン)の撤退により、生地の仕入れがストップしたので、洋品問屋「大川洋行」は自社工場を建設し、石津謙介は製造部門の責任者となった。

そして、石津謙介はスコッチテリア(犬の種類)をデザインしたネクタイをデザインして昭和17年末に販売すると、1500本を売る大ヒットとなった。これが、石津謙介のデザイナーとしてのデビューである。

さて、洋品問屋「大川洋行」は上海など数カ所に店舗を展開し、昭和18年(1943年)3月には年商360万円を記録し、日本一の洋品店へと成長した。これは、百貨店を除く洋服店で日本一の売上げである。

このような間も、日本の戦況は刻々と悪化していたが、日本の本土とは対照的に、中国の天津に住む日本人は好景気に沸いていた。

しかし、洋品問屋「大川洋行」にも戦況の悪化は伝わっており、いつまでも好景気が続くはずがないと考えた大川正雄・大川照雄・石津謙介の3人は話し合い、昭和18年(1943年)9月に洋品問屋「大川洋行」を鐘紡サービスに売却した。

翌日、大川正雄・大川照雄・石津謙介は、従業員とともに頭を丸めて、海軍に志願した。これは徴兵逃れが目的だったという。

石津謙介は外国語が出来たことから、海軍武官府付となり、ダイナマイトに使用するグリセリン工場の総務部長に配属された。

中国から落花生を買い入れて、グリセリンを製造するが、敗戦に敗戦を重ねる日本軍に届けることができず、クリセリンで石けんを作るると、中国人に飛ぶように売れた。

その後、石津謙介は外国人の財産を没収する任務を経て、工場長代理となり、昭和20年(1945年)8月15日に玉音放送を聴いて終戦を迎えた。

石津謙介の戦後

戦後、石津謙介は家族とともに中国軍に捕らえられ、人質として海軍武官府の倉庫に軟禁された。中国軍は海軍武官府から身代金を受け取ると、1人ずつ人質を解放していった。

そして、昭和20年(1945年)10月に進駐軍が天津に入った。進駐軍が英語と中国語を話せる邦人を募集したことから、石津謙介はアメリカ憲兵隊の通訳となった。

この時の相棒がアイビーリーグ出身のオブライエン中尉だった。アイビーリーグとはアメリカ東海岸の名門8校からなるリーグで、石津謙介はオブライエン中尉からアイビーリーグの話を聞き、興奮した。

さて、石津謙介は武装解除した日本人を管理する任務に就き、ここで、二等兵だった俳優の信欣三と知り合い、意気投合する。

ところで、武装解除した日本は数千人に登り、日に日に不満が高まっていき、アメリカ軍に対して暴動を起こす直前になっていた。

そこで、石津謙介は英語が話せる民間人と相談して、昭和20年(1945年)12月31日に大晦日のパーティーを開催した。しかし、参加した日本人将校は仏頂面で酒を飲むだけだった。

そこで、「宴会部長」の異名を取る石津謙介は、座布団取りゲームを開催。負けた者は顔にスミを塗られるという罰ゲーム付で、アメリカ人が楽しんで参加したので、次第に日本人将校も胸を開いて打ち解けていった。

以降、日本人とアメリカ人の間で、野球やバスケットボールの試合が行われるようになった。

天津の日本人はアメリカ人と交流しており、蒋介石も「日本人に危害を加えたら厳罰処す」という立て札を立ててくれたので、天津では中国人による暴動が起きず、比較的恵まれており、石津謙介は家族とともに無事に引きあげてくることができた。

石津謙介の帰国後

石津謙介は妻子を連れて昭和22年(1947年)4月1日に佐世保湾の捕虜収容所に帰国した。その後、汽車で8時間かけて故郷の岡山に戻り、8年ぶりに岡山の地を踏んだ。

しかし、岡山は昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲で焼け野原となっており、石津謙介の実家の紙問屋「郡屋」も焼失していた。

こんとき、妻の兄・笠井義一郎が岡山県倉敷市水島に居たので、石津謙介は笠井義一郎の元に身を寄せた後、岡山県倉敷市の三菱重工水島工場の社宅を借りて住んだ。

そこへ、写真家になっていた兄・石津良介が中国から帰国してきたので、実家の土地を売却し、兄・石津良介とお金を分けた。

石津謙介は、岡山・大阪・東京へと行ってみたが、焼け野原になっており、何をしていいのか分からなかった。

しかし、土地を売って当面のお金はあったので、遊び好きの性格が顔を出し、岡山で置屋をやっている友達の所へ行って芸者遊びをしをしながら、時節の到来を待った。

このようなか、石津謙介は繊維卸「佐々木営業部(レナウン)」の社長・尾上清から、小売部門「有信実業」に誘われたのである。

有信実業に入社

佐々木営業部(レナウン)は、日本一のメリヤス問屋に成長していたが、戦時中の企業整備により、江商(兼松)に吸収合併されて消滅した。

尾上清は、戦後に復員すると江商(兼松)の衣料部長に招かれ、江商(兼松)の衣料部長時代に関連会社「有信実業」を設立し、隠匿物資の横流しをしていた。

有信実業は、かなり派手に儲けていたようで、尾上清は昭和21年(1946年)に隠匿物資の横流しで逮捕されている。

このようななか、尾上清は、佐々木営業部(レナウン)の創業者・佐々木八十八から佐々木営業部の再建を託され、昭和22年(1947年)に江商(兼松)から佐々木営業部を独立させ、佐々木営業部を再開したのである。

さて、尾上清はいち早く既製服に着目していたが、尾上清は「私にファッションが分からない。分かるのはビジネスだけだ。ファッションはファッションを分かる人を呼べばいい」という考えだった。

そこで、尾上清は、日本一の洋品問屋「大川洋行」を築いた大川正雄・大川照雄・石津謙介の3人を招き、兄・大川正雄が有信実業の社長、弟・大川照雄が副社長、石津謙介が営業部長に就任したのである。

レナウン・サービス・ステーション

有信実業の営業部長となった石津謙介は、英語が出来たので、PX(アメリカ軍向け販売店)からの横流しで活躍した。

さて、尾上清が、大阪心斎橋筋にある4階建てビルを購入すると、有信実業は1階で紳士服部門「レナウン・サービス・ステーション」と婦人服部門「田中千代デザインルーム」を開き、2階で高級クラブを開いた。

田中千代は、佐々木営業部(レナウン)と付き合いのある神戸のデザイナーで、後に皇后陛下(昭和天皇の皇后/香淳皇后)の衣装相談役を務め、「皇后様のデザイナー」となる人物である。

さて、石津謙介はPX(米軍向け販売店)からの横流し品を使って服を作り販売していた。横流し品を使っていたので、品質が良く、商品は飛ぶように売れた。

余りにも品質が良いので、MPから密輸品の疑いをかけられ、その度にMPを工場へ連れて行き、国産品であることを証明した。ただ、密輸品の疑いはかけられたが、PXからの横流しについては何も言われなかった。

一方、田中千代も、昭和22年(1947年)10月に大阪の文楽座で、戦後の日本人として初のファッションショーを開催し、大きな反響を呼んだ。

このため、ビル3階に入っていた佐々木営業部(レナウン)は手狭になり、ビル1階も使うことにした。

そこで、尾上清は神戸・三宮センター街に大金を投じて店舗を建設し、「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を神戸に移転した。

ところが、この頃は生地が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)が小売りに進出することに批判が殺到し、神戸・三宮センター街に移転した「レナウン・サービス・ステーション」は開店直後に撤退を余儀なくされた。

このとき、レナウン・サービス・ステーションの隣の小さな店舗で、坂野惇子(佐々木惇子)が子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を営業していた。

坂野惇子(佐々木惇子)は、佐々木営業部(レナウン)を創業した佐々木八十八の三女で、戦後、主婦仲間3人とともに子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を創業していたのである。

そこで、尾上清は坂野惇子(佐々木惇子)を支援して、坂野惇子(佐々木惇子)にレナウン・サービス・ステーションの店舗を譲った。

坂野惇子(佐々木惇子)は、レナウン・サービス・ステーションへ移転するのを機に法人化して「株式会社ファミリア」を設立し、昭和25年(1950年)4月12日にベビーショップ「ファミリア」を創業した。これが後に皇室御用達になる子供服ブランド「ファミリア」である。

石津商店の設立

神戸から撤退した後、大川正雄と大川照雄は有信実業に残ったが、石津謙介は尾上清に招かれ、東京のレナウン研究室へと移籍した。

しかし、石津謙介は、土曜日・日曜日には大阪へと戻り、有信実業の高木一雄と組んで服を作り、販売していた。

世間は昭和25年に勃発した朝鮮戦争にともなう朝鮮特需の影響で好景気に沸いており、石津謙介が作った服は飛ぶように売れ、石津謙介は独立への思いを強めていった。

石津謙介は、サラリーマンという体質では無かったこともあり、昭和25年(1950年)12月、石津謙介は独立するため、佐々木営業部(レナウン)を円満退社した。

このとき、尾上清は石津謙介に「いつまでも仕立屋ではダメだ。レナウンは女物の既製服やるから、男物の既製服をやれ」と助言した。

さらに、尾上清は、石津謙介が大阪時代に住んでいた大阪府大阪市南区北炭屋町の社宅(バラック)を退職金代わりに石津謙介に与えた。

そこで、石津謙介はバラックにミシンを持ち込み、昭和26年(1951年)4月に有信実業の大川照雄・高木一雄とともに「石津商店」を設立した。

そして、石津謙介の「ケン」と、高木一雄の「タカギ」から「ケンタッキー」というブランドを始めた。

石津商店は、上質な生地を使った高級な服を生産した。石津商店の服は驚くほど高かったが、朝鮮特需の影響で大勢の成金が誕生しており、石津商店の高級服は飛ぶように売れた。

問屋が商品の服を取りに来る程で、作った側から売れていき、石津商店は急激に成長していった。

そして、石津謙介は石津商店の設立から3ヶ月後に「有限会社ヴァンヂャケット」を設立し、ファッションブランド「VAN」が誕生するのである。

石津謙介の立志伝の後半-VANの創業者と倒産」へ続く。

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