べっぴんさん-岩佐栄輔(松下優也)の実在のモデル

HNKの朝ドラ「べっぴんさん」に登場する岩佐栄輔(いわさ・えいすけ/松下優也)の実在のモデルについて。

べっぴんさん-岩佐栄輔(いわさ・えいすけ)

岩佐栄輔(松下優也)は、野上潔(高良健吾)が戦後、復員した列車の中で出会った人物である。岩佐栄輔は、戦争で家も家族も失ったため、大阪の闇市で物資の横流しをしていた潔を頼った。

岩佐栄輔(松下優也)は、野上潔(高良健吾)のバラック小屋で白飯を食わせて持っていたとき、野上潔(高良健吾)を訪ねてきた坂東すみれ(芳根京子)と出会い、坂東すみれ(芳根京子)に好意を持つようになる。

そして、野上潔(高良健吾)は、大阪・梅田の闇市で物資を横流しする野上潔(高良健吾)と坂東ゆり(蓮佛美沙子)に加わり、野上潔(高良健吾)の右腕として活躍する。

一方、坂東すみれ(芳根京子)は、戦争に出た夫・田中紀夫(永山絢斗)からの連絡は未だに来ず、坂東さくらを抱え、不安な生活を過ごしていた。

岩佐栄輔(松下優也)は、坂東すみれ(芳根京子)にも通い、坂東さくらも岩佐栄輔に懐いていた。

ある日、岩佐栄輔(松下優也)は坂東さくらにオモチャをとと蹴るため、坂東すみれ(芳根京子)の自宅を訪れた。

岩佐栄輔はオモチャを渡して帰ろうとしたが、坂東さくらが岩佐栄輔にしがみついて離れない。

岩佐栄輔は、坂東すみれ(芳根京子)のお手伝い・佐藤喜代(宮田圭子)から、泊って言って欲しいと頼まれ、坂東家に泊る事にした。

すると、坂東さくらは、岩佐栄輔(松下優也)の膝にのり、岩佐栄輔(松下優也)を「パパ」と呼んだ。

久しぶりに家庭を味わった岩佐栄輔は、坂東すみれ(芳根京子)に惹かれていき、坂東すみれ(芳根京子)を支えたいと思うようになった。

しかし、野上潔(高良健吾)は岩佐栄輔(松下優也)の気持ちに気付き、「我々は坂東家に仕える身であり、当主は田中紀夫(永山絢斗)だ」と釘を刺すと、岩佐栄輔(松下優也)は野上潔(高良健吾)を「番頭根性が染みついている」と批判した。

その後、田中紀夫(永山絢斗)も無事に復員するが、田中紀夫(永山絢斗)は、岩佐栄輔(松下優也)が坂東さくらを負んぶし、坂東さくらが岩佐栄輔の事を「パパ」と呼んでいる現場を目撃し、思わず殴りかかるのであった。

岩佐栄輔の実在のモデル

ファッションブランド「エイス」を創業した岩佐栄輔(松下優也)のモデルは、メンズファッションブランド「VAN」の創業者・石津謙介です。

石津謙介は明治44年(1911年)10月20日に、岡山県岡山市片瀬町の紙問屋「郡屋(紙石津)」の次男(5人兄弟の4番目)として生まれた。

実家の紙問屋「郡屋(紙石津)」は、岡山県で最大の紙問屋で、裕福な家庭だった。

石津謙介は1年生の時にお洒落に目覚めた。母・石津緒長はお洒落に敏感だったので、石津謙介の良き理解者となり、石津謙介のお洒落を助長した。

お洒落に力を入れる石津謙介は、学校でも目立つ存在だったが、成績も非常に良く、エリートコースの旧制第一岡山中学に進んだ。

ところが、石津謙介が中学生のとき、慶應義塾大学経済学部へ進学した4歳上の兄・石津良介が映画とマルクス主義に傾倒して「家業を継がない」と言いだした。

父・石津定三から中学卒業と同時に紙問屋「郡屋(紙石津)」を継ぐことを命じられたが、東京に憧れていた石津謙介は、3年制大学への進学を条件に紙問屋「郡屋(紙石津)」を継ぐことを約束した。

石津謙介は成績優秀だったが、6年制大学へ道が閉ざされたため、勉強を止め、お洒落と遊びに励み、不良への道を突き進んだ。

そして、中学4年生の時に、石津謙介は学校の行き帰りに、よくすれ違っていた1歳年下の笠井昌子をナンパして交際を開始した。

石津謙介は中学を卒業して明治大学商科専門部へ進学すると、お洒落に走る一方で、遊んだ。35円(現在で20万円)の仕送りがあったので、お金の心配は無く、大事なのは、どこで、誰と遊ぶかだった。

そして、笠井昌子を東京に呼び寄せて同棲を開始する。これを知った父・石津定三は、激怒して仕送りを止めるが、石津謙介は結婚を約束していると言い、許してもらった。

大学を卒業すると、約束通り、石津謙介は岡山に戻って笠井昌子と結婚し、家業の「郡屋(紙石津)」を継いで4代目となった。

なお、朝ドラ「べっぴんさん」に登場する岩佐栄輔(松下優也)は独身で、人妻・坂東すみれ(芳根京子)に思いを寄せるが、モデルの石津謙介は戦前に結婚している。

さて、やがて、戦争の影響で紙が統制下に置かれ、紙問屋「郡屋(紙石津)」は月の半分も営業できなくなり、石津謙介は廃業を考えていたころ、中国の天津に居た親友・大川照雄から誘いを受けた。

大川照雄の兄・大川正雄が天津で洋品問屋「大川洋行」を経営しており、手伝って欲しいというのだ。

誘いを受けた石津謙介は、家業の紙問屋「郡屋(紙石津)」を廃業して中国の天津へと渡り、洋品問屋「大川洋行」のナンバー3として営業部長を務めた。

中国の天津は租界と言って、中国版の外国人居留地で、天津には日本人が5万人ほど住んでおり、色々な日本企業が進出していた。

メリヤス問屋「佐々木営業部(レナウン)」も天津に進出し、洋品問屋「大川洋行」と取引しており、石津謙介は天津時代に佐々木営業部の尾上清と出会った。

その後、石津謙介らは戦況の悪化を見て、洋品問屋「大川洋行」を鐘紡サービスに売却し、兵役を逃れるため、ダイナマイトに使用するグリセリン工場で働いた。

終戦後、石津謙介は軍需工場で働いていたことから逮捕されたが、英語が話せたことから通訳として重宝され、昭和22年(1947年)4月1日に家族を連れて無事に佐世保湾へ帰国した。

実家が岡山大空襲で焼けていたので、石津謙介は土地を売却し、芸者遊びをしていたときに、佐々木営業部(レナウン)の尾上清に誘われて大阪に出た。

尾上清は「有信実業」という会社を設立しており、石津謙介は有信実業の営業部長となって、PX(米軍向け販売店)から横流しで活躍した。

その後、尾上清が4階建てのビルを購入し、有信実業は1階で販売店「レナウン・サービス・ステーション」を開いた。さらに、神戸のデザイナー田中千代を招いて、隣に婦人部門「田中千代デザインルーム」を開いた。

田中千代は、後に皇后陛下(昭和天皇の皇后/香淳皇后)の衣装相談役を務め、「皇后様のデザイナー」となる人物である。

石津謙介は、PXから横流しした生地を使って紳士服を作って売った。余りにも高級品だったので、密輸品の疑いを掛けられた程の品質で、服は飛ぶように売れた。

このため、ビル3階に入っていた佐々木営業部(レナウン)の事務所が手狭になり、尾上清は神戸・三宮センター街に大金を投じて店舗を建設し、「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を神戸に移転した。

ところが、当時は生地が統制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)が小売りに進出する事に批判が殺到したため、神戸に移転した「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」は、オープン直後に撤退を余儀なくされた。

このとき、佐々木営業部(レナウン)を創業した佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)が神戸・三宮センター街で子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を開いていた。

そこで、尾上清は「レナウン・サービス・ステーション」の店舗を坂野惇子(佐々木惇子)に譲った。

店舗を譲り受けた坂野惇子(佐々木惇子)は、「レナウン・サービス・ステーション」に移転するのを機に、法人化して「株式会社ファミリア」を設立した。これが、後に皇室御用達の子供服ブランドとなる「ファミリア」である。

さて、神戸から撤退した石津謙介は、東京のレナウン研究所に移籍していたが、定期的に大阪に戻って、有信実業の高木一雄と組み、服を作って売っていた。

朝鮮特需の影響で日本は「ガチャマン景気」と呼ばれる好景気に見舞われており、服は飛ぶように売れ、石津謙介は独立への思いを強めていき、昭和25年(1950年)12月に佐々木営業部(レナウン)を退社した。

尾上清が退職金代わりに大阪府大阪市南区北炭屋町を与えてくれたので、石津謙介はバラックにミシンを持ち込み、昭和26年(1951年)4月に大川照雄、高木一雄とともに「石津商店」を設立した。

そして、廃刊した風刺雑誌「VAN」の編集長・伊藤逸平から「VAN」の使用を許されたので、石津商店の設立から3ヶ月後の昭和26年7月に「有限会社ヴァンヂャケット」へと改組した。

当初は中高年向けの服を作っていたが、石津謙介は世界視察旅行で訪れたアメリカでアイビーリーグの学生に衝撃を受け、アイビールック路線をとるようになった。

そして、石津謙介は天津時代に知り合った俳優・信欣三を通じて俳優と親交を結び、俳優に「VAN」の服を提供した。

また、戦後初の一般向け男性ファッション誌「男の服飾」に参画した。

これが良い宣伝となり、「VAN」は爆発的な人気となっていき、昭和30年(1955年)に「株式会社ヴァンヂャケット」へと改組し、東京へ進出した。

昭和34年(1959年)ごろから、東京・銀座の「みゆき通り」に、アイビールックで「VAN」や「JUN」の紙袋をもった若者が大量に集まるようになっていた。

集まった若者は「みゆき族」と呼ばれ、社会現象になるが、大人達からは「銀座の乞食」と揶揄されて嫌われる存在だった。

「みゆき族」はアイビールックに「VAN」の紙袋を持っていた事から、石津謙介は「みゆき族」の親玉だと思われた。

昭和39年(1964年)、東京オリンピックを開催する事もあり、石津謙介の所にも「みゆき族をなんとかしろ」という苦情が来た。

そこで、石津謙介は「来場者にはVANの紙袋をプレゼント」と書いたイベントのポスターを配り、「みゆき族」を集めて自主解散を促すと、「みゆき族」は自主消滅していった。

さて、石津謙介は遊び好きで、「宴会部長」という異名を取ったほど陽気な性格だった。そして、利益は全て社員に還元するという方針だったので、色々な事を企画した。

しかし、時代はジーンズなどのカジュアルファッションへと転換期を迎えていたこともあり、週刊新潮に「石津一族の散漫経営」と叩かれてしまい、その影響で、メーンバンクの三和銀行から融資を打ち切られてしまった。

そこで、石津謙介は昭和44年(1969年)に取引先の丸紅から融資を得たのだが、その結果、ヴァンヂャケットは丸紅・三菱商事・伊藤忠商事の資本を受け入れることになり、商社体制を迎えた。

石津謙介はアメリカのアイビールックで会社を急成長させたが、石津謙介はヨーロッパ文化が好きで、アメリカの文化は嫌いだった。あくまでも、アイビールックは商売に利用していただけだった。

このため、石津謙介は、商社に自由を奪われたこともあり、ヴァンヂャケットから心は離れていった。実際、石津謙介はヴァンヂャケットを売却しようとしたが、これは丸紅に阻止された。

昭和40年代後半、石津謙介の気持ちとは裏腹に、ヴァンヂャケットは商社体制下で、売上げを伸ばし続けていったが、その一方で売れ残った在庫を処分するために苦労するようになった。

そして、崩壊の切っ掛けは、昭和48年(1973年)の第1次オイルショックだった。オイルショックで繊維業界が悲鳴を上げるなか、ヴァンヂャケットは黒字を計上した。

そこで、ヴァンヂャケットは強気に出て増産した。これが仇となり、大量の在庫が残ってしまった。このため、ヴァンヂャケットは大量の在庫を処分するため、大規模なバーゲンセールを開始した。

こうして、バーゲンセールの常連になった「VAN」は、若者が憧れる高級ブランドから、バーゲンセールの格安ブランドへと落ちてしまったのである。

しかし、ヴァンヂャケットの売上げは右肩上がりで、昭和50年(1975年)に売上452億円を記録した。

ところが、この昭和50年にヴァンヂャケットは140億円分という大量の在庫を抱え、創業以来で初の赤字に転落し、17億7000万円の赤字を計上した。

既にヴァンヂャケットから気持ちの離れていた石津謙介は、社長を長男・石津祥介に譲った。

悪い事は続いた。翌年の昭和51年(1976年)に「丸紅ショック」が起きた。ヴァンヂャケットの経営母体の一角を占める丸紅の社長・檜山廣がロッキード事件で逮捕されたのだ。

ヴァンヂャケットは、支援企業に支援を要請し、丸紅・三菱商事・伊藤忠商事から役員を受け入れ、不動産の処分を進めた。

しかし、暖冬が続いたため、冬物衣料が売れず、昭和53年(1978年)4月6日に東京地裁へ会社更生法を申請した。負債総額は500億円で、戦後のアパレル業界では最大の倒産だった。

石津謙介は再建計画を提出したが、丸紅・三菱商事に認められず、泥沼の末、ヴァンヂャケットは昭和53年10月12日に破産宣告を受けた。負債総額は350億円だった

ヴァンヂャケットは倒産したが、創業者の石津謙介は「商社がヴァンヂャケットを倒産させた」と思っていたようで、責任を感じていなかったし、全てを失っても、元々、裸一貫で始めたので、心は晴れやかだった。

ヴァンヂャケットが倒産した後、石津謙介は松屋の山中鏆に招かれ、松屋でアドバイザーのような事をやったりしていたようである。

一方、ヴァンヂャケットの倒産の後、メンズ雑誌「ポパイ」「ホットドッグプレス」によって、再びアイビーブームが訪れた。

また、石津謙介は中国政府からモスクワオリンピックに出場するための制服を依頼されてデザインを手がけた。

結局、中国がモスクワオリンピックをボイコットしたので、制服は日の目を見なかったが、石津謙介はデザイナーとしての活動を続けた。

石津謙介を尊敬する人は多く、デザイン・執筆・公演などの依頼も多く、石津謙介は昭和57年(1982年)12月に石津事務所を設立した。

そして、晩年まで活動を続けたが、平成17年(2005年)5月24日に死去した。死因は肺炎で、享年95だった。

なお、朝ドラ「べっぴんさん」に登場する岩佐栄輔(松下優也)は陰気な性格に描かれているが、モデルの石津謙介は「宴会部長」と呼ばれた時期があり、非常に陽気で遊び好きで、80歳になっても6人のガールフレンドが居た。

朝ドラ「べっぴんさん」の登場人物の実在のモデル一覧は「べっぴんさん-登場人物・キャスト・モデルまとめ」をご覧ください。

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