朝ドラ「なつぞら」山田天陽のモデル神田日勝の立志伝

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する山田天陽(吉沢亮)のモデルとなる画家の神田日勝(かんだ・にっしょう)の生涯を描く立志伝です。

神田日勝の立志伝

神田日勝の画像神田日勝は、昭和12年(1937年)12月8日に東京市板橋区練馬南町(東京都練馬区練馬)で、父・神田要一の次男(5人兄弟の4番目)として生まれた。母親は神田ハナである。

母・神田ハナが出産予定日に強いくしゃみをしたせいか、神田日勝は仮死状態で生まれた。産婆が逆さづりにして何度も尻をたたいたが、うんともすんとも言わないので、もう諦めてくれとサジを投げた。

母・神田ハナが懇願するので、産婆がもう1度、尻を叩いたら、神田日勝は息を吹き返した。

神田日勝と言う名前は本名で、日中戦争の最中に生まれたため、「日本勝利」を願って「日勝(にっしょう)」と名付けられた。

神田日勝は大人しい子供で、男の子なのに、女の子が履くような赤いサンダルを欲しがり、勧業銀行に勤めていた姉が持ち帰った紙に飛行機や軍艦や戦車を描いていた。三度の飯より絵が好きという感じの子供だったという。

神田日勝の家系に絵で名をなした人は居ないが、母・神田ハナが美人画を書いていたので、その才能を引き継いだのだろう。子供の頃から、絵は上手だった。

神田日勝は7歳で練馬開成国第2民学校に入学したが、その翌年の昭和20年(1945年)8月、父・神田要一は東京大空襲で仕事が困難になったこともあり、北海道を開拓する拓北農兵隊に応募して、一家を率いて北海道十勝地方にある鹿追町へ移住した。

しかし、神田家が北海道鹿追町に到着した翌日に玉音放送が流れ、日本の敗戦を知るのだった。

拓北農兵隊の募集時の条件は良かったが、その条件のほとんどは履行されず、神田家は北海道で帰農したものの、非常に苦しい生活を余儀なくされた。自宅も「拝み小屋」と呼ばれる三角形た簡易な家だった。

農業だけでは生計を立てることが出来ず、父・神田要一は郵便配達・新聞配達の仕事もしていていたが、父・神田要一が新聞配達の最中に自宅が火事になり、焼失してしまう。ストーブの扱いに慣れていないことが原因だった。

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痩馬

北海道・鹿追町へと移り住んだ神田日勝は、笹川小学校に編入した。兄弟そろって絵が上手だったので、絵の上手な兄弟として有名になった。

そして、笹川小学校を卒業して鹿追中学校へ進学すると、鹿追中学校で美術部に入り、15歳の時に兄・神田一明の指導で、油絵を始めた。

そして、神田日勝は兄・神田一明に「僕は勉強はあまり得意でないけど、農業は好のきだから農業を継ぐよ」と言い、中学を卒業すると、16歳で実家の農業を継いだが、高校へ進学しなかったのは家庭の事情があったようだ。

父・神田要一は健康診断で肺に影があると言われ、病院生活をしていたため、神田家に2人を学校へ進学させるほどのゆとりは無く、神田日勝は兄・神田一明を東京芸術大学へ進学させるため、進学を諦めたようだ。

ただ、農業をやりながら野幌高等酪農高校の通信教育を受けていたが、長続きはしなかったようなので、勉強が苦手というのは、まんざら嘘でもなさそうだ。

さて、神田日勝は農業をしながら絵を描いた。子供の頃は風景画を描いていたが、兄・神田一明の影響かリアリズムへと転身しており、19歳の時にベニヤ板に書いた「痩馬」を平原社展に初出品した。

父・神田要一は農業の経験が無く、馬の扱いに慣れていないため、大人しい馬を購入したのだが、老馬だったため、直ぐに死んでしまった。神田家は騙されたのだ。

開拓農家にとって大金を出して買った馬が死ぬと言うのは一大事であり、このエピソード「痩馬」として描かれたようだ。

また、神田日勝は「何事もあまり期待してはいけないよ。自分の目で見なさい」と口癖のように言っていたのも、買った馬が直ぐに死んでしまったからだった。

さて、平原社展に出展した「痩馬」が朝日奨励賞に選ばれ、20歳の時に「馬」で平原社賞に選ばれた。そして、23歳の時に昭和35年(1960年)の全道展で「家」が初入選を果たし、次第に頭角を現していくのだった。

神田ミサ子と結婚

神田ミサ子神田日勝は、25歳の時に、青年団の交流で知り合った農家の娘・高野ミサ子(神田ミサ子)と結婚した。

この結婚は少し事情が複雑である。

高野ミサ子(神田ミサ子)は、姉・神田登美子の嫁ぎ先の親戚だが、会ったことは無く、初めて会ったのは青年団の交流会の野球大会だった。

その後、神田日勝が結婚適齢期になったので、姉・神田登美子がタイプの女性を聞くと、神田日勝は「明るい女性」と答えた。

そこで、周囲の人から「ニコニコ太陽」と呼ばれていた明るくて健康的な高野ミサ子(神田ミサ子)が結婚相手に持ち上がり、姉・神田登美子夫婦が間に入って結婚話がまとまった。

こういう経緯があり、仲人も建てているので、見合い結婚でもあり、恋愛結婚でもあるという感じだったのである。

さて、こうして結婚することになったが、神田日勝は下戸で酒が飲めないため、三三九度の杯は妻・高野ミサ子(神田ミサ子)が飲み干した。新婚旅行は十勝温泉へ行ったが、家畜の飼料を心配して、早々に切り上げて帰宅すという有様だった。

さて、神田日勝は次々と絵を出展して、入選させていたが、画家としての収入はほとんど無く、農業収入に頼っていたので、絵の具代にも困るほどで、相当に苦しい生活だった。

神田日勝の絵が初めて売れたのは、結婚から3年後の昭和39年(1964年)、28歳の時だった。主婦の根元サトが全道展で知事賞を得た「ゴミ箱」を5万円で購入してくれた。

昭和38年の5万円は平成の価値で25万円ほどだろう。この年、神田家に長男・神田哲哉が生まれており、お祝いの意味もあったのだろう。

さらに、神田日勝は29歳の時にNHK帯広の農村番組で絵の制作過程が取り上げられたことで、画家としての知名度が上がり、定期的に絵も売れるようになってきた。

まだ、同年、全道展に出展した絵が会友賞を受け、会員推挙となり、新人画家としての地位が確立された。

そのおかげで、30歳の時に自動車学校に通い、自動車の運転免許も取得し、31歳の時に軽トラックを購入した。

ヌードモデルへの執念

神田日勝は、ヌードモデルを雇いたかったが、お金が無いのでモデルを雇えないため、大相撲の写真などを参考にしていた。

そのようななか、知人が帯広の行きつけのクラブで、ホステスを口説き落とし、ホステスがヌードモデルを引き受けてくれることになった。

神田日勝は喜んで帯広へ行こうとしたが、その日の夜は大雪で鹿追町を出ることが出来ず、念願のヌードを描くことが出来なかった。

その後も、神田日勝はヌードモデルを描きたいと知人に相談していたのだが、ニードモデルを描くことはなく、その生涯を閉じることになる。

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農民と画家

トラクターなどの登場による農業に機械化の波が押し寄せても、神田日勝は人力と馬に頼る農業を続けていた。

人力と馬に頼る農業を続けたのは、農業へのこだわりではなく、借金を増やさないという堅実な経営方針が理由だった。そのおかげで、寒冷被害を受けても、ダメージは最小限に抑えられた。

しかし、昭和39年と昭和41年は大規模な寒冷被害で豆が全くとれず、さすがの神田日勝も「農業くらい割に合わないものはない、いずれは出ていきたい」と言い、離農を考えるようになっていた。

画家の収入では生活は出来ず、離農するということは、他の仕事をしながら絵を描くという事を意味していた。

しかし、色彩の変化から離農が噂されると、神田日勝は離農を否定し、生活のために農業を続けると宣言している。

さて、寒冷被害や農業の合理化の影響で、離農者が増えたことにともない、神田日勝は農地を取得して、農地が広くなると、1頭の牛ではどうにもならなくなってきた。

(注釈:神田家の農地は14ヘクタールで、東京ドーム3個分の広さになったが、北海道の一般的な農家の半分の広さだったという。)

一方、トラクターを購入した農家も高額なローンを組んでおり、返済をしなければならないので、自分たちの仕事だけではどうにもならず、手間賃で仕事を引き受けていた。

そこで、神田日勝は、必要なときだけ、組合に頼んでトラクターを派遣してもらい、その間の時間を絵に費やすようになった。

しかし、他人に畑仕事を任せて絵を描いている事に後ろめたさを感じたのか、「俺は農家失格だな」と漏らすようになった。

昭和43年(1968年)、神田日勝が31歳のとき、長女・神田絵理子が生まれる。この年、帯広信用金庫からカレンダーの絵の依頼があった。カレンダーの依頼は1枚10万円という高額で、しかも10年間という約束だった。

このカレンダーの仕事が安定収入に繋がったこともあり、お金になる絵が描けることで、農家失格という後ろめたさも薄らいだという。

しかし、お金はトラクター作業代や農地取得費用やアトリエ建設費(自作)の費用などに消えていき、決して生活が楽になったわけではなかった。

神田日勝の死去

神田日勝は、ある人に手相を見てもらうと「10年以内に死ぬ」と言われて、死について考え始めたのか、自分が子供に出来る事は借金を残さないことだと考えるとともに、自分が死んでも妻や子供が生活できるようにと、小さな絵を大量に描き始めた。

昭和45年(1970年)、32歳の神田日勝は、画家と農家という二足のワラジで多忙な日々に追われており、春ごろから発熱や微熱が続くようになるが、医者嫌いだったため、病院へは行かず、解熱剤を飲みながら画家と農業を続けた。

しかし、どうしても発熱が収まらないため、病院へ行くことを決めると、心が落ち着いたのか、3人目の子供を作るため、妻・高野ミサ子(神田ミサ子)を抱いた。

昭和45年(1970年)8月、神田日勝は病院で診察を受けると、このまま入院した方が良いと言われ、入院した。

それでも、絵の仕事があるので、神田日勝は許可を得て、自宅へ絵の具とキャンパスを取りに帰るが、病院へ戻ると様態が悪化。絵に手を付けること無く、原因不明のまま病状は悪化していき、赤十字病院へと移された。

神田日勝は、何も知らされていなかったが、急に病院が代わり、両親と子供まで見舞いに来たことから、死を悟り、妻・高野ミサ子(神田ミサ子)に「君は、する事がいっぱいあっていいなあ、僕はすることがなくなってしまった」と語った。

さて、神田日勝は、3人目はダメだったことを知らず、3人目の子供が生まれることを楽しみにしていた。

妻・高野ミサ子(神田ミサ子)は、医師から神田日勝の余命宣告を受けており、3人目の事を報告するかどうか、非常に悩んだが、3人目がダメだったことを明かすと、神田日勝は黙ってしまった。

その日の夜、神田日勝は32歳で死去した。昭和53年(1978年)8月25日のことである。死因は腎盂炎による敗血症だった。

当初の戒名は「春耕院日勝居士」だったが、「画家だったことが分かる方が良い」という意見があり、戒名は「晴耕院画道日勝居士」へと変更された。

「馬」という作品を描きかけていたのだが、途中で絶命してしまったため、「馬」は馬の前半分しか描かれていない。

死後

神田家は北海道・鹿追町で最後の開拓民だったが、人力と馬に頼っていた農業は、神田日勝が死ぬと継続できなくなり、妻・神田ミサ子は家と田畑を手放して離農することを決めた。

小学生の長男・神田哲哉は「僕が馬の世話をするから」と言い、転校を嫌がったが、いかんせん子供だったので、馬に引きずられてしまい、それを見ていた妻・神田ミサ子は泣いた。

49日の法要の日、兄・神田一明が、神田日勝の親友・米山将治と激しい口論をした。

そして、口論が終わると、兄・神田一明は、神田ミサ子に「米山なら大丈夫だ」と言い、神田日勝の絵は全て神田ミサ子の物で、自分は遺作に関わらないので、遺作は米山将治に任せるように助言した。

こうして、米山将治が遺作の後見人となり、後に神田日勝記念美術館の初代館長を務めた。

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家系図

神田日勝と妻・神田ミサ子の家系図

家系図の解説については「神田日勝と妻・神田ミサ子の家系図」をご覧ください。

備考

  1. 神田日勝はフランスの農民画家フランソワ・ミレーになぞらえて、「農民画家」「日本のミレー」「現代のミレー」と呼ばれることがあったが、「ミレーのような過去の画家と一緒にされては困る」と怒った。
  2. また、「農民画家」と呼ばれた事も嫌い、「画家である、農家である」と言った。「農民画家」と呼ばれることを嫌い、離農しようとしていたという説もある。
  3. 神田日勝は魚が好きで、妻・神田ミサ子が鰯を煮付けにして出すと、頭と骨を観たかったと言い、鰯を煮付けにしたことを怒った。
  4. 雨の日は農作業をせずに1日中、絵を描いていられるので機嫌が良かった。妻・神田ミサ子が用事で出かけた日は農作業をしなかった。
  5. 絵に専念するために仕事を紹介してくれたり、土地を提供してくれたりする人もいたが、神田日勝はその話を断り、農業を続けた。
  6. 神田日勝の生涯で残した作品のほとんどがベニヤ板に描いた作品である。ベニヤ板に描いた理由は、キャンパスを買うお金が無いからだった。ただし、販売目的の絵はキャンパスに描いた。

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