「ブギの女王」として活躍した歌手・笠置シヅ子(亀井静子)の芸能界立志伝の後半です。
このページは「ブギの女王-笠置シヅ子の立志伝」からの続きです。
婚約者・吉本穎右(吉本泰典)が昭和22年(1947年)5月19日に死去し、笠置シヅ子(亀井静子)は不安の中で昭和22年6月1日に長女・亀井エイ子を出産した。
笠置シヅ子(亀井静子)は、吉本穎右(吉本泰典)と結婚して、芸能界を引退するつもりだったが、吉本穎右(吉本泰典)が出産前に死去したため、結婚はできなくなった。
笠置シヅ子(亀井静子)は、人生のどん底に突き通されていたが、落ち込んでいる暇など無く、長女・亀井エイ子を自分の手で育てるため、早々に歌手活動の再開を決意し、作曲家・服部良一に「先生、たのんまっせ」と新曲を頼んだ。
このとき、作曲家・服部良一は、「別れのブルース」のような暗い曲に嫌気をさしていたことから、上海公演で李香蘭(山口淑子)に歌わせた「ブギ」を作曲することに決めた。
服部良一は、駅を出たところでパッと曲を思いつき、喫茶店に駆け込んでメモした。そして、完成した曲に、上海で知りあったジャーナリスト鈴木勝に歌詞を当てはめてもらった。
こうして、完成したのが、戦後を代表する名曲「東京ブギウギ」である。
笠置シヅ子(亀井静子)は、「東京ブギウギ」が完成すると、出産から、わずか3ヶ月後の昭和22年(1947年)9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行った。
作詞を担当した鈴木勝が宣伝してGHQの将校を集め、「東京ブギウギ」のレコーディングはアメリカ人将校が観ている中で行われ、「東京ブギウギ」はアメリカ人将校に受け入れられた。
さらに、笠置シヅ子(亀井静子)は、レコーディングでの成功を手土産に、昭和22年9月に大阪の梅田劇場に出演して、「東京ブギウギ」を初披露し、大ヒットを飛ばす。
そして、昭和22年10月には楽町の日本劇場で開催した「踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く」でも披露され、昭和23年1月に「東京ブギウギ」のレコードを発売した。
また、昭和22年10月頃からNHKラジオをでも頻繁に「東京ブギウギ」が流れるようになり、ラジオの電波に乗って「東京ブギウギ」は全国へと広まっていった。
こうして、乳飲み子を抱えてショーに出る笠置シヅ子(亀井静子)は、生活のために夜の街に身を落とした女性(通称「パンパン娘」)から絶大なる支持を得て、「ブギの女王」としてスターダムを駆け上がっていくのであった。
また、この年(昭和22年)、笠置シヅ子(亀井静子)は作曲家・服部良一の「セコハン娘」を歌う。
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笠置シヅ子(亀井静子)が初めて吉本せい(林せい)に会ったのは、「東京ブギウギ」をレコーディングした直後の昭和22年(1947年)9月に大阪の梅田劇場に出演した時だった。
梅田劇場に出演した笠置シヅ子は、長女・亀井エイ子を連れて甲子園(兵庫県西宮市)の吉本家を訪れ、病気の「吉本せい」を見舞った。
これが、笠置シヅ子と「吉本せい」の初対面である。「吉本せい」は、死んだ次男・吉本穎右と同じ結核に感染しており、痩せていた。
通説では、「吉本せい」は1人息子の次男・吉本穎右を溺愛しており、笠置シヅ子との結婚を最後まで反対していたことになっている。
しかし、色々な資料を見てみると、実際の「吉本せい」は、笠置シヅ子の妊娠を切っ掛けに態度を軟化させ、芸能界からの引退を条件に結婚を容認していたようである。
娘の亀井エイ子も「(父と母は)結婚はしたものの、せいさんを始めとする周囲の人たちには認められず、末入籍のままでした。しばらくして、私がお腹の中にいることがわかり、母は主婦に専念するということで、晴れて正式の夫婦として認めていただける、ということになりました」と証言している。
さて、笠置シヅ子が亀井エイ子を連れて甲子園の吉本邸を訪れると、吉本せいは「穎右がこの世に残して行った一番、大きな置き土産だすよって、大切にしてやっておくんなはれ」「この子のために、みなで、あんじようしましょう」と言い、笠置シヅ子に労りの言葉を書けた。
「吉本せい」も夫・吉本泰三に先立たれ、子供4人を抱えながら、吉本興業を切り盛りしてきた経験があり、笠置シヅ子の立場がよく理解できたのだろう。
吉本せいは、「アンタも難儀なことやな。この先、この子を抱えて舞台に立たなならん。なんやったら、ワテが預かってあげてもよろしいがな」と言い、亀井エイ子を引き取りたいと申し出た。
しかし、マネージャーの山内義富や吉本興業の前田米一に戸籍の問題について調べてもらうと、戦後の新憲法でも、認知するべき父親が死んでいると、入籍は難しいという事だった。
裁判をすれば、亀井エイ子の入籍は認められるだろうが、世間を騒がせて吉本家の親族に迷惑をかけるのは不本意なので、籍の問題は諦めた。
そして、笠置シヅ子は、自分が養子に出された過去から、長女・亀井エイ子にも同じ思いをさせるのを忍びなく思い、長女・亀井エイ子を自分の手で育てる事を決め、シングルマザーという道を選んだのであった。
吉本興業は演芸で吉本王国を築いたが、戦争で全て失ったため、戦後は演芸を捨てて、GHQの慰安所として開いた京都・銀座のキャバレー「グランド京都」と映画館の経営で戦後の復興を果たした。
吉本興業の創業者である吉本せい(林せい)は、戦後の吉本興業には関わっておらず、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業合弁会社」から「吉本興業株式会社」へと改組すると、吉本せい(林せい)は会長へと退き、名実ともに吉本興業を弟の林正之助に託していた。
吉本せい(林せい)は、最愛の次男・吉本穎右(吉本泰典)が死去して以降、急速に衰えており、日本赤十字病院に入院したが、肺結核で昭和25年(1950年)3月14日に死去した。享年61だった。
笠置シヅ子(亀井静子)は「東京ブギウギ」でブレイクする一方で、「日本の喜劇王」と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一に認められて、相手役に抜擢され、舞台でも大当たりさせて映画にも出演した。
このようななか、笠置シヅ子(亀井静子)のモノマネをして話題となっていた少女・美空ひばり(加藤和枝)が、昭和23年(1948年)5月1日に横浜国際劇場の「第1回国際祭り」で、小唄勝太郎の前歌を務める。
このとき、美空ひばり(加藤和枝)は、笠置シヅ子(亀井静子)の曲「セコハン娘」を歌い、横浜国際劇場の支配人・福島博(福島通人)に認められ、横浜国際劇場の準専属となった。
さらに、支配人・福島博(福島通人)は、横浜国際劇場のオーナーと方針が対立していたこともあり、横浜国際劇場の支配人を辞めて、美空ひばり(加藤和枝)のマネージャーへと転身した。
この年(昭和23年)の10月、笠置シヅ子(亀井静子)は横浜国際劇場の「恒例秋の国際祭り」に出演し、美空ひばり(加藤和枝)と初対面して共演した。
美空ひばり(加藤和枝)は、まだ歌手デビューしておらず、単なる前唄(前座)なので、笠置シヅ子(亀井静子)は美空ひばり(加藤和枝)を知らなかったと思われる。
笠置シヅ子(亀井静子)は、単純に子供の美空ひばり(加藤和枝)を可愛がって、楽屋で一緒に写真も撮っており、美空ひばり(加藤和枝)は憧れの笠置先生が写真を撮ってくれたことを喜んでいる。
これが、笠置シヅ子(亀井静子)と美空ひばり(加藤和枝)の出会いだった。
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2人が横浜国際劇場の「恒例秋の国際祭り」で共演してから3ヶ月後の昭和24年(1949年)1月、美空ひばり(加藤和枝)は日劇の舞台「ラブ・パレード」に出演することになった。
美空ひばり(加藤和枝)は、ブギを歌う少女の役を演じることになったので、笠置シヅ子(亀井静子)に新曲「ヘイヘイブギ」の使用許可を求め、「ヘイヘイブギ」を作曲した服部良一からも指導を受け、練習を開始した。
ところが、舞台「ラブ・パレード」の本番の直前になって、笠置シヅ子(亀井静子)が「ヘイヘイブギ」の使用を禁止したのである。禁止した理由は分からない。
驚いた美空ひばり(加藤和枝)側は、事情を説明して交渉しても、笠置シヅ子(亀井静子)は「ヘイヘイブギ」の使用を認めなかった。ただ、本番5分前になって「東京ブギウギ」の使用を認めた。
しかし、美空ひばり(加藤和枝)は、「東京ブギウギ」を練習していなかったので、本番の出だしがワンテンポ送れ、「東京」の部分が歌えず、「ブギウギ」の部分から歌い出したのであった。
この遺恨が、後々、笠置シヅ子(亀井静子)と美空ひばり(加藤和枝)の対立へと発展することになる。
横浜国際劇場の支配人を辞めてマネージャーとなった福島博(福島通人)は、美空ひばり(加藤和枝)を「ベビー笠置」として売り込んで成功し、昭和24年(1949年)7月の映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ブギウギ」で美空ひばり(加藤和枝)を歌手デビューさせる。
当初、レコード会社「コロムビア」は、美空ひばり(加藤和枝)に笠置シヅ子(亀井静子)の「ヘイヘイブギー」を歌わせ、「物真似VS本物」として売り出そうとしていたが、笠置シヅ子(亀井静子)側が拒否したため、美空ひばり(加藤和枝)は「河童ブギウギ」で歌手デビューすることになったのだという。
美空ひばり(加藤和枝)のデビュー曲「河童ブギウギ」はヒットしなかったが、昭和24年10月の映画「悲しき口笛」で主演と主題歌を担当し、主題歌「悲しき口笛」で45万枚を売り上げてヒットさせる。
美空ひばり(加藤和枝)の本当のデビュー曲「河童ブギウギ」だが、レコードでは主題歌「悲しき口笛」がA面、「河童ブギウギ」がB面になったため、美空ひばり(加藤和枝)のデビュー曲は「悲しき口笛」という扱いになった。
笠置シヅ子(亀井静子)は、昭和23年(1948年)に「さくらブギウギ」「ヘイヘイブギー」「博多ブギウギ」「大阪ブギウギ」などを発表する。
さらに、昭和24年(1949年)には「名古屋ブギー」「ハリウッドブギ」「情熱娘」などを発表。次々に「ご当地ブギ」をヒットさせ、「ブギの女王」としての地位を確立し、歌手・映画・舞台と各方面で活躍していった。
このころ、日本もアメリカもブギの全盛期だったが、戦後は海外旅行や円の持ち出しが厳しく規制されており、自由に海外旅行は出来ず、アメリカに渡るためには「慰問」などの名目が必要だったのである。
そこで、笠置シヅ子(亀井静子)は、日系人を慰問するという名目で、昭和25年(1950年)6月から4ヶ月、アメリカ公演を行うことにした。
ところが、昭和25年4月になると、美空ひばり(加藤和枝)が「太平洋戦争で殊勲をたてた二世部隊の第百大隊の記念塔建設基金募集興行」として、昭和25年5月にアメリカ公演を行うことが判明した。
これは、笠置シヅ子(亀井静子)のマネージャー山内義富がギャンブルとヒロポンに溺れて笠置シヅ子(亀井静子)のお金を使い込み、美空ひばり(加藤和枝)側に情報を流していたらしく、情報を掴んだ美空ひばり(加藤和枝)側が先手を打ったのだ。
後手にまわってしまった笠置シヅ子(亀井静子)の興行主は「美空ひばり(加藤和枝)が歌ったあとに、笠置シヅ子(亀井静子)が売ったのでは興行の価値が下がる」と言い、作曲家・服部良一に対策を求めた。
そこで、作曲家・服部良一は、日本音楽著作権協会(JASRAC)を通じて、美空ひばり(加藤和枝)側に、作曲家・服部良一の曲を演奏することも歌うことも禁じたのである。世に言う「笠置シヅ子のブギ禁止令」である。
また、潔癖な性格の笠置シヅ子(亀井静子)も、これまで苦楽をともにしてきたマネージャー山内義富をクビにした。
さて、このとき、美空ひばり(加藤和枝)は精華学園中学1年生の14歳で、自分の持ち歌が2~3曲しかなかったため、笠置シヅ子(亀井静子)のブギを禁止されると、ほとんど歌える歌が無かった。
そこで、美空ひばり(加藤和枝)は2~3曲しか歌えないのなら、行っても仕方が無いと言い、アメリカ公演の中止を考えた。
しかし、美空ひばり(加藤和枝)の母・加藤喜美枝は、第百大隊の記念塔を建設する基金のため、という名目でアメリカ公演を断行した。
また、美空ひばり(加藤和枝)を受け入れるハワイの第百大隊も、「日本の法律はアメリカには及ばない。アメリカでは著作権さえ払えば誰の曲でも自由に歌える。心配なら、責任は第百大隊が取るという保証書を書きましょう」と言い、美空ひばり(加藤和枝)にブギを歌わせた。
こうして、笠置シヅ子(亀井静子)は、美空ひばり(加藤和枝)にアメリカ興行を先行され、美空ひばり(加藤和枝)の後を追う形でアメリカへと渡り、4ヶ月にわたるアメリカ興行を行った。
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昭和25年(1950年)5月にアメリカに渡った美空ひばり(加藤和枝)は、7月に帰国。昭和25年(1950年)6月にアメリカに渡った笠置シヅ子(亀井静子)は10月に帰国した。
帰国後、笠置シヅ子(亀井静子)も美空ひばり(加藤和枝)も「アメリカ帰り」として注目を集め、美空ひばり(加藤和枝)は「東京キッド」をヒットさせ、笠置シヅ子(亀井静子)も「買物ブギ」をヒットさせた。
2人は同じレコード会社「コロムビア」に所属していたが、美空ひばり(加藤和枝)がブギ禁止令を無視してアメリカ公演でブギを歌ったことから、2人の関係は悪化しており、帰国後、2人が共演することは無かった。
しかし、このままでは営業的に問題があると考えたのか、美空ひばり(加藤和枝)のマネージャー福島博(福島通人)が、作曲家・服部良一の元を訪れて謝罪し、笠置シヅ子(亀井静子)と美空ひばり(加藤和枝)の和解が成った。
こうして、笠置シヅ子(亀井静子)と美空ひばり(加藤和枝)は、昭和26年(1951年)2月11日にNHK歌謡番組「今週の明星」(「唄の明星」は間違い)で共演した。
こうして、笠置シヅ子(亀井静子)は「大ブギ」、美空ひばり(加藤和枝)は「小ブギ」として世間の注目を集めた。
さらに、昭和26年4月には、作曲家・服部良一が銀座商店街の依頼で作曲した「銀ブラ娘」を美空ひばり(加藤和枝)に提供し、美空ひばり(加藤和枝)は「銀ブラ娘」のレコードを発売した。
しかし、この和解は表面上だけだったらしく、作曲家・服部良一が美空ひばり(加藤和枝)に書いた曲は「銀ブラ娘」の1曲だけで、美空ひばり(加藤和枝)も「銀ブラ娘」をほとんど歌わなかった。
昭和25年(1950年)6月、笠置シヅ子(亀井静子)は、東京大学の総長・南原繁から、君の生い立ちについて話しておきたい、という電話を受けた。
南原繁は、香川県大川郡相生村(香川県東かがわ市)の出身で、戦後初の東京大学の総長を務める人物である。
笠置シヅ子(亀井静子)の実父・三谷陳平も香川県大川郡相生村(香川県東かがわ市)の出身であり、南原繁は実父・三谷陳平の友達だったのである。
驚いた笠置シヅ子(亀井静子)は、直ぐに会いたいと返事したが、アメリカ公演に出発する直前だったので、実際に会えたのは、アメリカ公演から帰国後の昭和26年(1951年)2月の事だった。
既に笠置シヅ子(亀井静子)は、18歳の時に三谷家の法事に行き、自分が養子で、実父が三谷陳平だと知っていたが、南原繁から初めて実父・三谷陳平と実母・谷口鳴尾の詳細を聞くことになった。
それから2ヶ月後の昭和26年4月に、笠置シヅ子(亀井静子)の後援会が発足し、東大総長・南原繁が後援会長に就任した。
笠置シヅ子(亀井静子)は夜の女性(パンパン娘)から絶大な支持を集めており、後援会の大半は、夜の女性(パンパン娘)だった。
美空ひばり(加藤和枝)の人気はうなぎ登りで、昭和26年(1951年)の雑誌「平凡パンチ」4月号の人気投票で、笠置シヅ子(亀井静子)は10位、美空ひばり(加藤和枝)は3位となった。
時期は不明ながら、笠置シヅ子(亀井静子)は、「子供と猫には勝てぬ」と漏らしたという。
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昭和27年(1952年)1月3日、NHKラジオ番組「紅白歌合戦」が放送される。第1回・紅白歌合戦は、単発の正月番組で、紅組7組・白組7組が出演する1時間番組だった。
第1回・紅白歌合戦が好評だったため、昭和28年1月3日にNHKラジオ番組「第2回・紅白歌合戦」が放送される。第2回・紅白歌合戦は90分に延長され、紅組12組・白組12組が出場した。
そして、第4回・紅白歌合戦からテレビ放送へと変更するとともに、正月番組から大晦日番組へと変更されたため、昭和28年は正月に第3回、年末に第4回が放送され、2度も紅白歌合戦が放送された。
「ブギの女王」と呼ばれていた笠置シヅ子(亀井静子)は、第1回は出場していないが、第2回・紅白歌合戦に「買物ブギ」で初出場し、第3回も「ホームラン・ブギ」で、第4回は「東京ブギウギ」で紅白連続出場を果たした。
その後、笠置シヅ子(亀井静子)は、第5回・第6回は出場せず、昭和31年の第7回・紅白歌合戦で「ヘイ・ヘイ・ブギ」で大トリを務め、これを最後に歌手活動を引退することになる。
昭和29年(1954年)3月31日、笠置シヅ子(亀井静子)の自宅に脅迫文が届く。脅迫文は、お金を払わなければ、娘・亀井エイ子を誘拐するという内容だった。
笠置シヅ子(亀井静子)は警察に通報し、数回の脅迫の後、昭和29年(1954年)4月8日、お金の受け渡し場所で犯人は逮捕された。
犯人は、笠置シヅ子(亀井静子)に恨みが在るわけでは無く、金銭に困っての犯行だったが、当時は個人情報保護という概念が無く、芸能人の住所は普通に雑誌に掲載されていたため、笠置シヅ子(亀井静子)が狙われたのだ。
笠置シヅ子(亀井静子)は、これまで、マスコミの求めに応じて娘・亀井エイ子の写真を撮らせ、新聞や雑誌に掲載させたり、娘・亀井エイ子をテレビ出演させたりしていたが、これを機に娘・亀井エイ子をメディアに晒すのを止めた。
ところで、笠置シヅ子(亀井静子)の場合は脅迫だけで、娘・亀井エイ子は誘拐されなかったが、昭和30年(1955年)7月にはトニー谷の長男が実際に誘拐されるという事件が発生した。
しかし、犯人は現金の受け渡し時に逮捕され、トニー谷の長男は無事保護された。
誘拐事件は現金の受け渡し時に接触しなければならないため、現金の受け渡し時に逮捕される可能性が大きいという欠点があった。
そこで、昭和49年(1974年)8月に津川雅彦・朝丘雪路夫婦の長女を誘拐した犯人は、登場したばかりの銀行のCD機(キャッシュ・ディスペンサー)を利用した。
犯人は、銀行口座に身代金を振り込ませ、銀行のCD機から現金を引き出そうとしたのである。しかし、犯人は現金を数回引き出したところで逮捕され、津川雅彦・朝丘雪路夫婦の長女は無事に保護された。
笠置シヅ子(亀井静子)のモノマネからスタートした美空ひばり(加藤和枝)は、ブギ禁止令のおかげで、自分のスタイルを確立して、「東京キッド」「リンゴ追分」でヒットを飛ばしていた。
このようななか、昭和27年(1952年)に江利チエミがデビュー曲「テネシーワルツ」でブレイクする。
翌年の昭和28年(1953年)には「雪村いづみ」がデビュー曲「想いでのワルツ」で大ヒットを飛ばし、「美空ひばり(加藤和枝)」「江利チエミ」「雪村いづみ」は「三人娘」と呼ばれて評判となる。
そして、「美空ひばり(加藤和枝)」「江利チエミ」「雪村いづみ」の3人が揃って、昭和29年(1954年)の第5回NHK紅白歌合戦に出場を果たした。
(注釈:笠置シヅ子は、NHK紅白歌合戦の第5回・第6回には出場していない。)
さて、笠置シヅ子(亀井静子)は、戦後のブギブームを作り、「ブギの女王」として君臨していたが、昭和30年代に入ると、テレビの普及、娯楽や音楽の多様化も有り、ブギブームは終焉を迎えていた。
「ブギの女王」と呼ばれた笠置シヅ子(亀井静子)も、昭和30年(1955年)に「めんどりブルース」「ジャンケン・マンボ」「エッサッサ・マンボ」を発売して迷走している。
このようななか、日本は高度成長期を迎えており、昭和31年(1956年)の経済白書は、「もはや戦後ではない」と結んだ。
この年(昭和31年)、43歳になった笠置シヅ子(亀井静子)は「ジャジャンボ」「ほんまに頼りにしてまっせ」を発売し、昭和31年末の第7回・紅白歌合戦で「ヘイ・ヘイ・ブギ」で大トリを務めると、これを最後に歌手活動から引退した。
笠置シヅ子(亀井静子)が歌手から引退した理由は、「最も輝いていた時代をそのままに残したい。自分の手で汚すことはできない」というものであった。
こうして歌手から引退した笠置シヅ子(亀井静子)は、「笠置シズ子」から「笠置シヅ子」へと改名し、女優へと転じた。
「ブルースの女王」と呼ばれた宿敵の淡谷のり子は、歌手から引退する笠置シヅ子(亀井静子)を「笠置さんはズルい。目先を利かせて、上手いこと看板を塗り替えたわね」と語ったという。
一方、恩師である作曲家・服部良一は、引退について何も相談を受けていなかったので、「僕の唄を殺す気か」と激怒したが、笠置シヅ子(亀井静子)の死後は「見事な引き際だった」と語った。
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歌手から引退した笠置シヅ子(亀井静子)は、「ブギの女王」時代のギャラでは使って貰えないとして、自らギャラの値下げを申し出て、女優として再出発し、映画・テレビドラマ・舞台などで脇役として活躍した。
晩年はTBS番組「家族そろって歌合戦」の審査員を務め、子供が演歌を歌うと「子供らしい歌を歌いなさい」と注意した。
また、昭和53年(1978年)からは洗剤「カネヨン」のCMに出演し、「洗剤のおばはん」として親しまれた。
笠置シヅ子(亀井静子)は昭和56年(1981年)に乳がんが見つかり、手術して回復した。
昭和58年(1983年)に卵巣癌が見つかり、手術して回復したが、昭和59年(1984年)に卵巣癌が再発し、昭和60年(1985年)3月30日に卵巣癌で死去した。享年72だった。子供は長女の亀井エイ子のみ。
笠置シヅ子(亀井静子)は潔癖な性格だったので、芸能界の黒い闇とは交わらなかった。また、潔癖症だったので、エタノールを持ち歩き、頻繁に消毒した。
歌手を引退したあとは一度も歌わなかったとされるが、昭和35年(1960年)に行われた作詞家・服部一郎のシルバーコンサートで一度だけ歌った。
笠置シヅ子(亀井静子)は、かなりの美形好きで、関係を持ったのは結婚を約束した吉本興業の次男・吉本泰典(吉本穎右)だけだったが、吉本泰典(吉本穎右)が死んだため、結婚はしていない。
作曲家・服部良一との恋愛がが噂されたが、笠置シヅ子(亀井静子)は「師弟関係」として恋愛疑惑を否定した。
美空ひばり(加藤和枝)と対立したことから、美空ひばり(加藤和枝)伝説を作るために利用された。この影響で笠置シヅ子(亀井静子)の悪い噂が流れたらしい。
また、敵対する美空ひばり(加藤和枝)が神戸芸能部の田岡一雄(山口組三代目)の庇護を受けたことから、笠置シヅ子(亀井静子)は神戸では公演していないらしい。
笠置シヅ子(亀井静子)の後援会が発足すると、東京大学の総長・南原繁が後援会の会長を務めてくれたが、南原繁は美空ひばり(加藤和枝)の大ファンだった。
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