落語家・桂春団治(皮田藤吉)の立志伝の後半

大正時代から昭和初期にかけて活躍した落語家の初代(本当は2代目)・桂春団治(皮田藤吉/岩井藤吉)の立志伝の後半です。

前半は「桂春団治(皮田藤吉)の立志伝」をご覧ください。

浪花派の旗揚げ

桂春団治(皮田藤吉)は、大正6年(1917年)6月に妻子を捨てて離婚し、薬問屋「岩井松商店」の未亡人「岩井志う」と再婚したので、「後家殺し」として話題になり、三友派を代表する人気落語家になっていった。

(注釈:正式には、「岩井志う」と再婚して岩井家の戸主となっているので、本名は「岩井藤吉」になっているが、作業の都合上、旧姓の皮田藤吉で表記する。)

そのようななか(大正7年から大正8年ごろ)、桂春団治(皮田藤吉)は寄席「浪速亭」を拠点にして、「浪花派」を立ち上げた。

妻「岩井志う」が、岩井家から手切れ金してもらった大金が元手になっているという。

ただ、桂春団治(皮田藤吉)は「浪花派」を立ち上げた後も、「三友派」の寄席にも上がっているので、三友派にも属していたようである。

差し押さえ

桂春団治(皮田藤吉)は面倒見が良いので大勢の弟子を抱えていた。ほとんどは、落語とは関係の無い浮浪者のような芸人で、妻「岩井志う」のお金を目当てに集まったような連中である。

そして、桂春団治(皮田藤吉)は、頼まれたら嫌とはいえない性格だったので、弟子から強請られて相当な物を買い与えていた。

なかには、桂春団治(皮田藤吉)らに黙って勝手に借金するような弟子も居た。

また、桂春団治(皮田藤吉)は売れても高級料亭のようなところには行かなかったが、賑やかに遊ぶのが好きだったので、一族郎党を率いて遊んだ。

そして、再婚した「岩井志う」は盲目的に桂春団治(皮田藤吉)を愛しており、桂春団治(皮田藤吉)のために、湯水の如く、お金を使ったので、借金は増える一方だった。

ある日のことである。借金の返済をしていなかったので、差し押さえの執行官2人が来た。

このとき、桂春団治(皮田藤吉)は出かけていたので、応対に出た弟子の桂我団治は、普通の客だと思い、「もうすぐ帰ると思います」と言い、執行官2人を待たせておいた。

しかし、しばらくしても桂春団治(皮田藤吉)が帰ってこなかったので、執行官2人は「もう執行しましょうか」と相談し、弟子の桂我団治に「それでは執行します」と告げた。

弟子の桂我団治は「シッコ」と聞こえたので、執行官2人をトレイに案内していたが、途中で差し押さえだと分かったので、師匠の不在中に差し押さえなどされては困ると言い、執行官2人と口論になった。

そして、弟子の桂我団治が執行官2人を殴って大騒ぎとなり、近所の交番から駆けつけた巡査が、その場を治めた。

その日の夜、帰宅した桂春団治(皮田藤吉)は、弟子の桂我団治から昼間の騒動を聞いて面白がり、弟子を集めて、芸者を呼んで、ドンチャン騒ぎの宴会を始めた。

すると、昼間の巡査が聞きとがめに来て、何の騒ぎかと尋ねたので、桂春団治(皮田藤吉)は「差し押さえられた祝い酒だす」と答えた。

桂春団治(皮田藤吉)は、これが面白かったのか、以降は返せる借金も返さず、わざと差し押さえを受けた。

浪速派の廃止

桂春団治(皮田藤吉)は「浪速派」を立ち上げたが、遊びほうけて寄席をスッポカスすので、次第に客は来なくなり、資金は底を尽きて借金を抱えるようになってしまった。

そのようななか、桂春団治(皮田藤吉)は、銀行から寄席「浪速亭」の差し押さえを受けてしまう。

浪花派が拠点としていた寄席「浪速亭」は銀行から借りており、家賃を払わなければならないのだが、銀行が社交辞令で言った「家賃はいつでもいいですよ」という言葉を真に受け、家賃を払っていなかったのである。

寄席「浪速亭」が差し押さえられては「浪速派」の活動ができないため、桂春団治(皮田藤吉)側が差し押さえに抵抗し、裁判に発展した。

その結果、桂春団治(皮田藤吉)は勝訴して浪速亭を守ったものの、既に資金は底を尽きていた。

妻「岩井志う」が岩井家から手切れ金としてもらった大金(現在の価値で4000万円以上)は、わずか3年で無くなり、莫大な借金だけが残っていたのだ。

このため、桂春団治(皮田藤吉)は、大正9年(1920年)の正月に浪花派をたたんで、中国地方から九州地方へと旅巡業に出た。

吉本興行部と専属契約

桂春団治(皮田藤吉)が旅巡業を終えて大阪に帰ってくると、吉本興行部(吉本興業)の創業者・吉本せい(林せい)が待ち構えていた。

吉本せい(林せい)は、吉本興行部(吉本興業)の創業者で、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針の新興勢力「反対派」と手を組み、寄席をチェーン展開して大阪の演芸界で勢力を拡大していた。

このころ、吉本せい(林せい)は、桂派や三友派の落語家と月給制で専属契約を結んで勢力を拡大しており、以前から桂春団治(皮田藤吉)にも目を付けていたのだ。

そこで、吉本興行部(吉本興業)は、巡業から戻ってきた桂春団治(皮田藤吉)の借金を肩代わりすることで、桂春団治(皮田藤吉)と月給700円で専属契約を結んだのである。

大正時代はサラリーマンの月給が40円程度で、1000円で家が建ったので、月給700円は相当な額である。

こうして、桂春団治(皮田藤吉)は吉本興行部の寄席「南地花月」に出演するようになり、南地花月の入場料は、桂春団治(皮田藤吉)の看板で、10銭から1円へと跳ね上がった。

一方、落語の三友派は、桂春団治(皮田藤吉)を失った事により、急速に衰退していくのであった。

吉本せい(林せい)の黒幕説

桂春団治(皮田藤吉)が吉本興行部に入ったのは、吉本せい(林せい)に嵌められたからだという説がある。

吉本せい(林せい)は、以前から桂春団治(皮田藤吉)に目を付けており、どうしても吉本の寄席に上げたかった。しかし、桂春団治(皮田藤吉)は首を縦に振らなかった。

そこで、吉本せい(林せい)が裏で糸を引いて、第三者を通じて桂春団治(皮田藤吉)にお金を貸して借金漬けにした。

そして、桂春団治(皮田藤吉)を借金で首がまわらないようにしておき、吉本せい(林せい)が借金を肩代わりすることで、桂春団治(皮田藤吉)を手に入れたのだという。

前妻トミを利用して妾をつくる

桂春団治(皮田藤吉)は、曾我廼家五郎が若い妾を連れているのを見て、羨ましく思い、自分も妾が欲しくなった。

ところで、離婚した前妻・東松トミは京都に帰り、京都の新京極を支配するヤクザ「丸音組」の親分・永田音末と再婚していたが、親分・永田音末は大正13年(1924年)6月に射殺され、前妻・東松トミは未亡人となっていた。

そこで、桂春団治(皮田藤吉)は、前妻・東松トミに、良い旅館があるので、客を世話するから、大阪に来て旅館をやらないかと強く勧めた。

前妻・東松トミは、親分・永田音末と結婚していた時期に旅館「永富」を経営していたので、旅館の経験があった。

それに、ちょうど、親分・永田音末が殺されたため、ヤクザ「丸音組」はゴタゴタとしていたので、前妻・東松トミは嫌気がさしていた。

そこで、前妻・東松トミは、妾は拒否し、兄弟分という扱いならという条件で、桂春団治(皮田藤吉)の誘いを受け、大阪に出て、1600円で旅館を購入した。

しかし、桂春団治(皮田藤吉)が世話する客は、お金にならないような客ばかりだったうえ、離婚騒動の事を知っている人ばかりだった。

このため、前妻・東松トミは、直ぐに旅館を買い戻してもらい、京都へと引きあげた。

前妻・東松トミが旅館を購入した値段が1600円で、売却した値段が600円だった。その差額は1000円で、この1000円が桂春団治(皮田藤吉)の懐に入り、妾を作る資金になったらしい。

桂春団治(皮田藤吉)は、関東大震災の時に東京から大阪に出て来た芸子を気に入っており、「芸人は妾を持つくらいでないとアカン」と妻「岩井志う」を説得し、芸子を妾にしたのである。

こうして、桂春団治(皮田藤吉)は妾を作って、2号を住吉区上住吉町に住まわせ、春団治茶屋をやらせた。その後、3号・4号も作って囲った。

レコード二重契約事件

桂春団治(皮田藤吉)は大正12年(1923年)に日東レコードで、レコードを吹き込んだのを皮切りに、次々とレコードを吹き込んでいた。

桂春団治(皮田藤吉)は落語家として相当な額を稼いでいたが、使い方も派手だったので、いつも家計は火の車だった。

当時はレコードが売れており、レコードを吹き込むと良いお金になったので、桂春団治(皮田藤吉)は、お金が無くなると、せっせとレコードを吹き込んだ。

レコードは録音時間が短いので、早口で喋らなければならないため、桂春団治(皮田藤吉)の落語が早口なのは、レコードに吹き込むためであると揶揄されるほど、相当な数のレコードを吹き込んでいた。

このようななか、昭和元年(1926年)12月、桂春団治(皮田藤吉)はレコードの二重契約をしたため、レコード会社「コロムビア」から2000円を請求されたが、2000円を払えないため、差し押さえを受ける事になったのである。

春団治側の人間は誰も銭算段が出来ないので、桂春団治(皮田藤吉)の実姉アイが京都に居る前妻・東松トミに電報で助けを求めた。

前妻・東松トミが何事かと思って行ってみると、桂春団治(皮田藤吉)は「何をしに来たんや。銭のことなら、あらかた片付いたで」と言ったが、全く何も解決していなかった。

前妻・東松トミはコロムビアから差し押さえを受けている事を知って呆れ、桂春団治(皮田藤吉)と妾の衣装を質屋に入れて700円を作り、残りの1300円は前妻・東松トミが工面して計2000円を作り、コロムビアに支払いをして騒動を治めた。

以降、前妻・東松トミは、桂春団治(皮田藤吉)の借金を清算したり、弟子の着物を仕立ててやったりするようになった。

金銭事情の悪化

昭和5年(1930年)、桂春団治(皮田藤吉)は高津町2丁目の家を引き払い、住吉区上住吉の妾(2号さん)宅へと移った。

妻「岩井志う」も2号宅へと移り、しばらくは2号と一緒に住んでいたが、やがて、2号宅を出て近所の3号宅へと移った。

この頃になると、妻「岩井志う」は61歳になっており、昔の「ごりょんさん」という面影も無く、炊事ばあさんのような事をしていた。

ラジオ事件

大正13年(1924年)5月にラジオの試験放送がされ、桂春団治(皮田藤吉)は落語家として試験放送に出演した。日本のラジオで初めて人を笑われたのが、桂春団治(皮田藤吉)だったという、

そして、翌年の大正14年(1925年)3月に東京で東京放送局が、同年6月には大阪で大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が開局して、ラジオ放送が始まり、昭和に入ると、ラジオの普及が進んだ。

これに対し、吉本王国を築いていた吉本興行部(吉本興業)は、ラジオで落語や漫才が聞けるようになれば、寄席に足を運ぶ客が居なくなると懸念して、ラジオの普及に危機感を抱いたのである。

このため、吉本興行部(吉本興業)は、ラジオへの無断出演を禁じ、ラジオ出演を許可制にして、所属する芸人から念書を取った。

さらに、吉本興行部(吉本興業)がラジオに出演した芸人のギャラを中抜きしたので、大阪放送局(JOBK)も芸人も吉本興行部に不満を持っていた。

このようななか、桂春団治(皮田藤吉)は、昭和5年(1930年)12月に大阪放送局(JOBK)のラジオ放送に出演し、落語「祝い酒」を語ったのである。

桂春団治(皮田藤吉)は、吉本興行部(吉本興業)からラジオ出演を禁止されていたが、ブローカーの仲介により、大阪放送局(JOBK)から、月2回出演で半年分の出演料2040円を受け取り、ラジオに出演したのである。

大阪放送局(JOBK)も吉本興行部(吉本興業)のラジオ無断出演禁止令に腹を立てていたので、プロラムに載せず、ゲリラ的に桂春団治(皮田藤吉)を出演させたのだ。

ラジオを聴いて驚いた吉本興行部(吉本興業)の林正之助は、桂春団治(皮田藤吉)を捕まえるため、社員を率いて大阪の大阪放送局(JOBK)を取り囲むが、桂春団治(皮田藤吉)は居なかった。

大阪放送局(JOBK)は吉本興行部(吉本興業)の妨害を予想して、京都のスタジオで、桂春団治(皮田藤吉)に落語「祝い酒」を語らせていたのである。

ところで、桂春団治(皮田藤吉)は、吉本興行部(吉本興業)から6000円という大金を借りており、ラジオに無断出演したときは借金を一括返済するという公正証書を吉本興行部に差し入れていた。

そこで、吉本興行部(吉本興業)は、ラジオ無断出演の一件を釈明させるため、桂春団治(皮田藤吉)に出社を求めたが、桂春団治(皮田藤吉)は一向に出てこなかった。

このため、吉本興行部(吉本興業)は、桂春団治(皮田藤吉)の自宅と妾の自宅に執行官を送り、差し押さえを執行したのである。

このとき、強制執行の執行官が差し押さえの紙を貼っていると、桂春団治(皮田藤吉)は差し押さえの紙を1枚剥がし、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか」と言い、自分の口に貼り付けた。

翌日の新聞が、これを大きく取り上げたので、大いに話題となり、ラジオを聴いた人が桂春団治(皮田藤吉)の落語を見るために、寄席へと詰めかけた。

これに困ったのが吉本興行部(吉本興業)だった。大勢の落語家が「こんな勝手な行為を許すな」と言って桂春団治(皮田藤吉)の追放を求めており、吉本興行部も桂春団治(皮田藤吉)を追放する方針だった。

しかし、寄席に詰めかけた客は、桂春団治(皮田藤吉)を高座に上げないと暴動を起こしそうな勢いだったのである。

ところで、一部の落語家が吉本興行部(吉本興業)に桂春団治(皮田藤吉)の恩赦を求めたので、吉本興行部(吉本興業)はこれを渡りに船と喜び、桂春団治(皮田藤吉)の追放も差し押さえも取り消し、桂春団治(皮田藤吉)を金で縛り付ける方針へと転換したのであった。

また、吉本興行部(吉本興業)は、大阪放送局(JOBK)に対しても、厳しい態度を取っていたが、予想外に客が寄席へ詰めかけたので、ラジオに対する方針を一転することになる。

このラジオ事件は新聞や週刊誌でも大きく取り上げられ、桂春団治(皮田藤吉)は人気を上げたが、大阪放送局(JOBK)から受け取っていた半年分の出演料2040円のほとんどはブローカー(仲介人)に持って行かれたので、手元には残らなかったという。

桂小春団治の辞表

桂春団治(皮田藤吉)は「話題を作って人気になる」という手法で、数々のスキャンダルを起こして話題を作り、スキャンダルの度に人気を上げていった。

しかし、桂春団治(皮田藤吉)のスキャンダルも、昭和5年(1930年)12月に起きた「ラジオ事件」が最後であった。

落語は大正時代に衰退の一途をたどっており、入れ替わるように漫才が台頭していた。桂春団治(皮田藤吉)は昭和6年ごろから、体調が悪化していたこともあり、仕事が減っていたのである。

さらに、昭和5年に結成した漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」が人気となっており、桂春団治(皮田藤吉)の人気はすっかりを影を潜めていた。

ところで、吉本興行部(吉本興業)の林正之助(創業者「吉本せい」の実弟)が漫才を発掘したこともあって、吉本興行部は漫才を優遇し、衰退していた落語家を冷遇していた。

こういた落語家冷遇に不満を爆発させたのが、桂春団治(皮田藤吉)の弟子・桂小春団治だった。

弟子・桂小春団治は昭和8年(1933年)10月、吉本興行部(吉本興業)に内容証明郵便で辞表を送りつけ、吉本興行部を出奔したのである。

弟子・桂小春団治は、冷遇される落語家の中で順調に出世しており、比較的に良い扱いを受けていたが、吉本興行部(吉本興業)に居ては落語が滅んでしまうと、危機感を覚えたらしい。

内容証明を送りつけて吉本興行部(吉本興業)を辞めた弟子・桂小春団治は、大阪で落語会を開いたが、失敗に終わったため、東京へと移り、東京落語協会へ入った。

長女・皮田ふみ子の一言

桂春団治(皮田藤吉)の子供は、前妻・東松トミとの間に生まれた長女・皮田ふみ子だけだった。

桂春団治(皮田藤吉)は妻子を捨てて未亡人「岩井志う」と再婚したが、長女・皮田ふみ子とは時々、会っていた。

あるとき、桂春団治(皮田藤吉)が長女・皮田ふみ子の言いぐさに怒って顔を殴ると、長女・皮田ふみ子は「この年になるまで、親にも触られた事の無いワテの顔を殴って、何やの」と怒った。

それを聞いた桂春団治(皮田藤吉)は、「そんなら、ワイは親やない言うんか」と言って茫然とした。

前妻の東松トミは、後でその話を聞いて爆笑した。

前妻・東松トミの激怒

桂春団治(皮田藤吉)はラジオ事件の翌年の昭和6年(1931年)頃から、体調が悪化して高座に出る回数は減り、収入が激減していた。

このため、妾も逃げてしまい、妾に買い与えた家も処分し、桂春団治(皮田藤吉)は妻「岩井志う」とともに東成区林寺新家町へと移った。

桂春団治(皮田藤吉)は妻「岩井志う」を愛していたようで、酒好きの妻「岩井志う」には必ず徳利2本の酒を付け、胃が悪くなってからも、毎晩、酒の相手をしていた。

酒が買えないときは、自分の徳利の中身をサイダーにして、妻「岩井志う」の酒に付き合っていた。

こうした無理が祟ったのか、桂春団治(皮田藤吉)は胃癌と診断され、昭和9年(1934年)3月に日本赤十字病院に入院して手術を受けたが、手遅れだった。

このころになると、莫大な借金しか残っておらず、手術費用も吉本興行部(吉本興業)が出すという有様だった。

長女・皮田ふみ子は京都から見舞いに来て看病をしていたが、前妻・東松トミは見舞いには来なかった。

桂春団治(皮田藤吉)が退院するときに輸血が必要だったので、長女・皮田ふみ子は母・東松トミに電話して、輸血をしても良いか尋ねた。

すると、母・東松トミは桂春団治(皮田藤吉)に捨てられたときの苦労を語り、「私が血をやれとは言えない。ふみ子が自分の気持ちで血をやるのなら、それは仕方が無い。私は到底、許す気になれぬ」と告げた。

このため、長女・皮田ふみ子は自分の意思で桂春団治(皮田藤吉)に輸血した。

ところが、長女・皮田ふみ子が帰るとき、皮田家は供を付けず、長女・皮田ふみ子を1人で京都へと帰らせたので、東松トミは皮田家の仕打ちに激怒した。

桂春団治(皮田藤吉)の死去

昭和9年(1934年)7月に退院した桂春団治(皮田藤吉)は、貧乏が一段と進んでいたようで、昭和9年9月に天王寺区生玉町へと移った。

そして、昭和9年9月、桂春団治(皮田藤吉)は、吉本興行部(吉本興業)を辞めて東京へと渡った弟子・桂小春団治を呼び寄せて、「春団治」を襲名させてやれないことを謝罪した。

桂春団治(皮田藤吉)は一番可愛がっていた弟子・桂小春団治に「春団治」を襲名させたかったが、吉本興行部(吉本興業)に莫大な借金があるため、吉本興行部の意向で桂福団治が「春団治」を襲名することになっていた。

桂福団治は「春団治」を襲名する条件として、桂春団治(皮田藤吉)が吉本興行部に残している借金を引き継いだのである。

このため、常日頃から「芸人は借金をせなアカン」と言っていた桂春団治(皮田藤吉)も、この時ばかりは、弟子・桂小春団治に「借金をしたらアカン」とシミジミと言った。

桂春団治(皮田藤吉)は、高座に復帰したら「桂像」と名乗り、弟子・桂小春団治に「桂像」を継がせようと考えていたが、寄席に復帰すること無く、昭和9年(1934年)10月6日に死去した。死因は胃癌だった。享57。

桂春団治(皮田藤吉)には葬式の費用も無く、吉本興行部(吉本興業)が葬儀を出した。

弟子・桂小春団治は通夜に駆けつけたが、恩を仇で返す形で吉本興行部(吉本興業)を辞めていたので、吉本興行部(吉本興業)と桂福団治から「敷地内に入ったら、お前に葬儀代を払わせる」と言われてしまい、通夜にも葬儀にも出ることができなかった。

吉本興行部(吉本興業)は東京にも進出していたので、弟子・桂小春団治は吉本興業に嫌気が差し、落語家を辞めて、舞踊家へと転向した。

妻「岩井志う」は、桂春団治(皮田藤吉)の死後、故郷の奈良県へと帰って従弟の世話になり、従弟の家の狭い玄関の部屋に住んでいたが、翌年の昭和10年に死去した。享年67だった。

一方、桂福団治は、桂春団治(皮田藤吉)の死から1ヶ月後に「春団治」を襲名し、2代目・桂春団治となった。

桂春団治(皮田藤吉)の遺骨は、天王寺にある一心寺に納められたが、墓は作られず、納骨だけだった。

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