わろてんか-「キース&アサリ」のモデルは「エンタツ・チャコ」

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する漫才コンビ「キース&アサリ」の実在のモデルのネタバレです。

わろてんか-「キース&アサリ」のあらすじ

漫才コンビ「キース&アサリ」は、近代漫才スタイルを築いた昭和を代表する「喋くり漫才」のパイオニアである。「キース&アサリ」は、「喋くり漫才」を確立して大阪で絶大なる人気を誇り、東京へと進出するのだが…。

キース&アサリのモデルは「エンタツ・アチャコ」

吉本興業を創業した吉本せい(林せい)吉本泰三(吉本吉兵衛)の夫婦は、明治45年(1912年)4月1日に三流の寄席「第二文芸館」の経営権を手に入れて、寄席の経営を開始した。

そして、吉本興業は、「反対派」の岡田政太郎と手を組み、格安戦略と寄席のフランチャイズ展開で瞬く間に勢力を拡大して、大正11年(1922年)に大阪の演芸界を制覇し、吉本王国を築き上げた。

しかし、その矢先の大正13年(1924年)2月13日に創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)が、39歳という若さで死去してしまう。

このため、吉本興業の経営を背負うことになったのが、林せい(吉本せい)の弟・林正之助である。

明治時代に入ると、寄席の主力だった落語の人気が低迷しており、吉本興業は落語に変わる演芸を探す必要に迫られていた。

島根県の「安来節」が人気になって、吉本興業の落語不況を救っていたが、安来節は落語に変わって寄席の中心になるほどの演芸ではなかった。

そこで、林正之助が目を付けたのが、三流の寄席で流行始めていた万歳(漫才の前身)だった。

漫才は、元々、「萬歳(マンザイ)」と言って正月を祝うための芸だったのだが、明治時代に「祝い事」という要素が排除され、お笑いとしての「万歳(マンザイ)」が始まった。

明治・大正時代は、色んな芸人が「万歳」に流入しており、歌や太鼓や踊りの間に「喋り」が入るというのが一般的なスタイルだった。

「万歳」は、歌や踊りなどがメーンで、間をつなぐ「喋り」は単なる「添え物」だった。しかも、明治・大正時代の「万歳」は極めて下品で低俗だった。

そのようななか、林正之助は、大阪の「大八会」で万歳をやっていた花菱アチャコに目を付け、花菱アチャコを吉本興業にスカウトした。

ちょうど、「大八会」が解散したこともあり、花菱アチャコは千歳家今男と万歳コンビを組んで、吉本興業に入った。

その後、林正之助は、アメリカ興行に失敗して芸能界から足を洗い、ヘアピン(パーマの機械)の製造などに手を出していた横山エンタツに目を付け、横山エンタツを吉本興業へとスカウトした。

このとき、横山エンタツが条件に出したのが、「花菱アチャコとコンビを組むこと」という条件だった。

実は、横山エンタツは8年前に1度だけ、花菱アチャコとコンビを組み、万歳から歌や踊りを排除して、「喋り」だけで構成した「喋くり漫才」を披露したことがあるのだ。

しかし、客は「万歳」に歌や踊りを求めていたので、横山エンタツと花菱アチャコの日本初の「喋くり漫才」は大失敗に終わっていた。

このため、横山エンタツは、芸能界に復帰するのなら、花菱アチャコと「喋くり漫才」に賭けてみたいと思ったのである。

こうして、林正之助は全面的に条件を飲み、横山エンタツが吉本興業に入り、昭和恐慌のまっただ中の昭和5年(1930年)5月に「エンタツ・アチャコ」が結成された。

「エンタツ・アチャコ」は、横山エンタツの主導で徹底的に「喋くり漫才」の特訓がなされ、さらに、林正之助のアイデアでスーツを着るなど、近代漫才スタイルが確立された。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は、万歳から歌や踊りを排除して、「喋り」だけで構成した「喋くり漫才」を「2人漫談」と称して舞台にあがった。

しかし、客が「万歳」に求めるのは歌や踊りであり、「エンタツ・アチャコ」の「2人漫談」は全く人気が出なかった。

そのようななか、林正之助が昭和不況の対策として、入場料10銭で万歳が楽しめるという「10銭万歳」を開始。この「10銭万歳」が大ヒットしたこともあり、当時、台頭し始めていたサラリーマンを中心に「エンタツ・アチャコ」は人気が出始めた。

当時の万歳は下品で低俗だったが、「エンタツ・アチャコ」は時事ネタなどを使っていたことから、「インテリ万歳」として人気を博していく。

このため、吉本興業の橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、「もはや万歳ではない」として「万歳」という表記を止め、「漫才」という表記にする事を発表し、名実ともに「漫才時代」が到来した。

「エンタツ・アチャコ」は、当時、絶大なる人気を博した六大学野球の「早慶戦」をテーマにしたネタ「早慶戦」が大ヒットし、大阪で絶大なる人気を誇る漫才コンビへと成長した。

大阪で大成功した「エンタツ・アチャコ」は、ネタ「早慶戦」を引っさげて、昭和9年8月の「第二回・特選漫才大会」に出演して東京進出を果たし、東京でも大成功して、10日間連日満員大入りという記録を樹立した。

さらに、「エンタツ・アチャコ」は大阪へ舞い戻ると、昭和9年9月に南地花月の寄席に出演してネタ「早慶戦」を披露した。

この寄席は、NHKが中継放送しており、「エンタツ・アチャコ」はラジオの電波に乗って全国へと笑いを届け、全国津々浦々にまでその名を轟かせ、近代漫才の祖を築いたのである。

ところが、漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は、人気絶頂のなか、アッサリと解散していまう。

実は「エンタツ・アチャコ」の花菱アチャコは、東京出演中から中耳炎にかかっており、南地花月の寄席が終わると、担ぎ込まれるようにして病院に運ばれ、入院した。

当時は中耳炎の良い薬が無く、中耳炎は死ぬ病気だったのだが、東京進出は「エンタツ・アチャコ」の運命を決めるチャンスだったので、花菱アチャコは病気を押して寄席に出演していたのである。

入院から1ヶ月後、花菱アチャコは少し良くなってきたので、漫才にフック留ため、退院すると、相方の横山エンタツは杉浦エノスケと漫才コンビを組んでおり、「エンタツ・アチャコ」は解散していたのである。

吉本正之助が横山エンタツに「エンタツ・アチャコ」のギャラは花菱アチャコと折半していることを教えると、漫才を主導していた横山エンタツはギャラ折半を不満に思い、「エンタツ・アチャコ」を解散して、取り分が多くなる杉浦エノスケをコンビを組んだのである。

このため、退院した花菱アチャコは、元相方の千歳家今男と漫才コンビを組み、「エンタツ・アチャコ」は2組に分裂したのだが、横山エンタツのコンビも、花菱アチャコのコンビもイマイチだった。

そこで、世間から「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が上がり、舞台では別々の漫才コンビで活動するが、映画では「エンタツ・アチャコ」を再結成し、「エンタツ・アチャコ」は映画界で活躍していった。

そうした一方で、漫才に行き詰まった横山エンタツが昭和17年(昭和17年)に「エンタツ劇団」を旗揚げすると、花菱アチャコも対抗して「アチャコ劇団」を旗揚げした。

初めは良い勝負をしたが、喜劇役者出身の花菱アチャコの方が演技の方は一枚も二枚も上だったので、やがて「アチャコ劇団」の圧勝となり、勝負にならなくなった。

しかし、それも戦争までのことだった。

戦後、戦争で全てを失った吉本興業は、創業者・林せい(吉本せい)が「一生面倒を見る」と約束した花菱アチャコだけを残して、所属芸人との契約を解除した。

こうして、吉本興業は戦後、演芸を捨て、映画の上映とキャバレーの経営で復興を遂げていく。

吉本興業から契約解除された横山エンタツは、エンタツ劇団を復活させ、戦後の活動を再開した。

やがて、復興が進むと、「エンタツ・アチャコ」を復活させようという動きがあったが、結局「エンタツ・アチャコ」は復活せず、横山エンタツと花菱アチャコは別々の道を歩んだ。

その後、花菱アチャコが「アチャコ青春手帖」などヒット番組を連発して、吉本興業のトップ芸人となり、ドケチなこともあって、推定10億円の資産を築いた。

一方、横山エンタツは芸能界で活躍したものの、花菱アチャコの活躍に比べれば、微々たる活躍で、「藤木(花菱アチャコの本名)は得しよった」とボヤいた。

晩年は、正月番組「新春放談」で漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」を復活させたが、横山エンタツは柿の木を切ろうとして転落して以降、背骨の骨がずれて手足がしびれるようになり、復活した「エンタツ・アチャコ」も昭和45年(1970年)で活動を終えた。

翌年の昭和46年(1971年)3月21日に横山エンタツ(享年75)は脳梗塞で死去した。花菱アチャコ(享年78)も昭和49年(1974年)7月25日に死去した。

なお、朝ドラ「わろてんか」に登場人物の実在のモデル一覧は「わろてんか-登場人物の実在モデル」をご覧ください。

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