わろてんか-キース(大野拓朗)のモデルは横山エンタツ

わろてんか-キース(大野拓朗)のモデルは横山エンタツ

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場するキース(大野拓朗)の実在のモデルは横山エンタツです。

わろてんか-キース(大野拓朗)のあらすじとネタバレ

キース(大野拓朗)は、秦野リリコ(広瀬アリス)北村藤吉(松坂桃李)と同じ旅芸人の一座に在籍していた。

キース(大野拓朗)は、度々、トラブルを起こして北村藤吉(松坂桃李)をかけるが、海外の情報に精通するインテリで、後にアリサと漫才コンビを組んで「喋くり漫才」を始め、近代漫才の祖を築く。

キース(大野拓朗)の実在のモデルは横山エンタツ

横山エンタツは明治29年(1896年)4月22日兵庫県で生まれた。祖父が藩医、父が医者という医者の家系だが、継母との関係が上手くいかず、旧制伊丹中学校を中退して家出し、芸能界に身を投じた。

横山エンタツは、堀越一蝶一座に在籍していたとき、花菱アチャコと出会い、開幕までの場つなぎとして、即興で「喋くり漫才」を披露する。

しかし、当時は「漫才」が「万歳(萬歳)」だった時代で、「喋り」は「歌」や「踊り」などの間を繋ぐだけの添え物で、万歳の主役は「歌」や「踊り」だった。

このため、客からミカンの皮や罵声が飛んできて、喋りだけの「喋くり漫才」は不評に終わった。

その後、堀越一蝶一座が解散したため、横山エンタツは東京へと渡り、中村種春と万歳コンビを組んで活躍した。

横山エンタツは万歳の天才で、東京時代に、ありとあらゆるスタイルの万歳をやりつくしたという。

その後、横山エンタツは関東大震災で負傷して大阪へと逃げ帰り、傷が癒えると、昭和4年(1929年)に総勢9人の喜劇一座「瓢々会」を率いてアメリカ興行を行った。

しかし、横山エンタツはアメリカ興行に失敗して芸能界に切望し、帰国後はアメリカで見たヘアピン(パーマをかける機械)やハトロン紙の製造をしていたが、こちらも運気に見舞われず、大阪の玉造で落ちぶれていた。

このころ、演芸界は演芸の中心だった落語が低迷して、「落語不況」が訪れており、吉本興行の林正之助は落語に変わる演目として、三流の寄席で流行始めていた万歳に目を付け、万歳に力を入れていた。

そこで、林正之助は、玉造で落ちぶれている横山エンタツをスカウトすると、横山エンタツは花菱アチャコとコンビを組むことを条件に、吉本興行入りを承諾した。

花菱アチャコは吉本興行に所属して、人気の万歳コンビとして活躍していたが、林正之助は横山エンタツの条件を飲んで、花菱アチャコとコンビを組ませた。

こうして、横山エンタツと花菱アチャコが組んで昭和5年(1930年)5月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生した。

横山エンタツは、洋服で出演し、「キミ」と「僕」という標準語を使い、時事ネタを取り込んだネタを考え、花菱アチャコを徹底的に指導した。時には鉄拳が飛ぶ程の厳しさだった。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり万歳」を「二人漫談」と称して舞台にあがるが、やはり、客が万歳に求めるのは歌や踊りであり、「二人漫談」は不評だった。

しかし、吉本興行の林正之助が、入場料10銭で万歳が見られるという「10銭万歳」を始めて大当たりさせると、「エンタツ・アチャコ」はサラリーマンや若者層に受け、「インテリ万歳」として人気となった。

さらに、吉本興行が朝日新聞と提携して戦地に派遣した皇軍慰問団に加わり、朝日新聞の報道によって、「エンタツ・アチャコ」は地位を高めていった。

さらに、「エンタツ・アチャコ」は、六大学野球の早慶戦を題材としたネタ「早慶戦」で絶大なる人気を誇り、東京進出とラジオ出演でも大成功し、全国的な人気を得ていた。

しかし、東京から凱旋した直後に花菱アチャコが中耳炎で入院すると、横山エンタツは人気絶頂の「エンタツ・アチャコ」をあっけなく解散させてしまう。

万歳を主導していた横山エンタツは、花菱アチャコとギャラが折半だと知って不満に思い、自分の方が取り分が多くなる杉浦エノスケとコンビを組むため、吉本興行にコンビ変更を申し出たのである。

吉本興行の創業者・吉本せい(林せい)は、花菱アチャコが退院するまでの給料も払うと言い、コンビ解散を止めたが、横山エンタツは「働いていないのに給料は貰えない」と言い、「エンタツ・アチャコ」を解散して、杉浦エノスケとコンビを組んで漫才を始めたのである。

しかし、その後、「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が高まったので、吉本興行の林正之助は、舞台では別々のコンビをくませたまま、映画や放送限定で「エンタツ・アチャコ」を出演させた。

さて、横山エンタツは、映画の「エンタツ・アチャコ」は好調だったが、杉浦エノスケとの漫才コンビの方は今ひとつで、絶大なる人気を誇る漫才コンビ「ミスワカナ・玉松一郎」がトップに君臨していた。

このようななか、松竹が松竹系列の新興キネマに「演芸部門」を作り、演芸界に進出するため、大金を投じて、吉本興行の芸人を引き抜きにかかった。

すると、横山エンタツは、「ミスワカナ・玉松一郎」が居なくなれば、自分がトップになれると考え、新興キネマから誘われている「ミスワカナ・玉松一郎」をそそのかし、新興キネマへと移籍させたのである。

こうして、「ミスワカナ・玉松一郎」ら数組が吉本興行から松竹に移籍して、横山エンタツはトップに返り咲けると、ほくそ笑んでいたが、結局、戦争によって全てを失ってしまう。

戦後、空襲によって全てを失った吉本興行の林正之助は、芸人の借金を退職金代わりに棒引きし、全ての芸人を解雇した。

しかし、花菱アチャコだけは、これに納得せず、吉本興行に残して欲しいと懇願し、芸人で唯一、吉本興行に残った。

横山エンタツは吉本興行を去って、「エンタツ劇団」で全国を巡業した後、NHKのラジオ番組「気まぐれショーボート」に出演して、いち早くトップスターの座に返り咲いた。

しかし、喜劇俳優としては花菱アチャコの方が1枚も2枚も上で、花菱アチャコがNHKのラジオ番組「アチャコ青春手帖」に出演するようになると、横山エンタツと花菱アチャコの立場は逆転し始める。

横山エンタツはその後も主演番組を持つが、花菱アチャコのようにご長寿番組は生まれなかった。

そして、花菱アチャコはラジオ・テレビ・映画で活躍して国民的なスターへと出世し、長らく吉本興行のナンバー1に君臨し続け、大きく引き離された横山エンタツは酒を飲んで「アチャコは得をしよった」と、ぼやいた。

そうした一方で、横山エンタツは、ときどき、イベントや放送で、花菱アチャコと「エンタツ・アチャコ」を再結成して漫才を披露していた。

しかし、横山エンタツは、柿の木を切ろうとして、柿の木から転落して背骨を痛めてしまい、後遺症が残ったので、「エンタツ・アチャコ」の出演も昭和45年(1970年)の元旦番組「新春放談」が最後となった。

その後、横山エンタツは、寝たきりのようになり、昭和46年(1971年)3月21日に死去した。脳梗塞だった。享年76歳。

なお、朝ドラ「わろてんか」のモデルについては「わろてんか-登場人物の実在モデル」をご覧ください。

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