朝ドラ「エール」のモデル古関金子(こせき・きんこ)の立志伝

NHKの朝ドラ「エール」のモデルとなる古関金子(こせき・きんこ)の生涯を描く立志伝です。

古関金子の立志伝

古関金子古関金子(旧姓は内山金子)は明治45年(1912年)3月6日に愛知県豊橋市で、内山安蔵の3女(7人兄弟の4番目/長男と6姉妹)として生まれた。母は内山ミツである。

父・内山安蔵は陸軍の獣医部を定年退職した後、愛知県豊橋市で蹄鉄を作る工場を始め、陸軍の第十五師団に納めていた。従業員も多く、裕福な家庭だったようだ。

内山家は、音楽好きだったので、オルガンや琴で合唱し、いつも音楽の絶えない家庭だった。

このため、古関金子は音楽と読書が大好きで、子供の頃から日本女子大学の国文科に進学するか、音楽家になりたいと思っていた。

しかし、古関金子が12歳の時に父・内山安蔵が死去してしまい、母・内山ミツは事業を縮小して仕事を続けたが、家計は苦しくなった。

そこで、古関金子は、豊橋高等女学校(豊橋東高校)を卒業すると、名古屋で知人の雑誌を手伝いながら、宝塚歌劇団を夢見て、歌の勉強を開始するのだった。

運命

昭和5年(1930年)1月、古関金子は新聞記事を見て驚いた。福島の古関裕而が、イギリスの作曲コンクールに「竹取物語」などを応募し、2等に選ばれたというのである。

古関金子は小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」の役をしていたことから、「かぐや姫」と呼ばれており、「竹取物語」という曲に運命を感じて手紙を書いた。最初の手紙は「楽譜が欲しい」という内容だったようだ。

古関裕而は、叔父が経営する川俣銀行で働いており、音楽家としては無名だったが、「竹取物語」の報道で有名となり、数多くの手紙が来ていた。

古関裕而は手紙の中で一番気になった古関金子に、「楽譜の控えを送ります」という返事を書き、2人の文通が始まった。

音楽家を目指す古関裕而にとって、同じ夢を持つ古関金子は大きな存在だった。

結婚

古関裕而は、イギリスの作曲コンクールに入賞したことで、5年間のイギリス留学のチャンスを得ていたが、イギリス留学に迷っていた。

留学費用の事もあるが、愛する古関金子と5年間も離ればなれになる事に耐えられなかったのである。

そこで、古関裕而(21歳)は昭和5年(1930年)5月28日に愛知県豊橋市を訪れて、結婚を申し込み、そのまま古関金子(18歳)を連れて婚前旅行に出かけ、6月1日に結婚した。

交際期間はわずか3ヶ月の電撃結婚だった。しかも、交際と言ってもほとんどが文通だったため、周囲の人は2人の関係を知らず、突然の結婚に驚いた。

さて、古関裕而は福島の実家の倉に居を構えて新婚生活を開始するが、結婚前に川俣銀行を辞めており、音楽家の道を模索していたが、前途は多難だった。

そのようななか、日本コロムビアから専属契約の話が来た。山田耕搾が日本コロムビアに推薦してくれたのである。

そこで、古関裕而は、古関金子と相談して、日本コロムビアと契約することを決め、昭和5年9月に夫婦で上京したのだった。

上京

声楽を学びたがっていた古関金子は、上京すると間もなく「ヴォーカル・フォア合唱団」に入団した。その後、昭和6年4月に帝国音楽学校の声楽部本科に入学した。

しかし、昭和7年1月に長女・古関雅子が生まれ、昭和9年7月に次女・古関紀子(みちこ)が生まれたので、子育てのため、帝国音楽学校を退学した。

昭和12年に歌手のベルトラメリ能子から本格的な声楽を学び、昭和15年にディーナ・ノタルジャコモに師事し、オペラや放送に出演した。

古関金子は日本では珍しいドラマティック・ソプラノの持ち主で、ベルトラメリ能子が「私の後継者」と認め、上野の音楽学校の教授ヘッサートも絶賛した程だったが、戦争の激化により、活躍の場は奪われていった。

一方、夫・古関裕而は、国家公務員の初任給が75円だった時代に、300円という給料を貰っていたが、ヒット曲を出せずに苦しんでいた。

やがて、夫・古関裕而は日本コロムビアから契約解除を宣告されるが、古賀政男に助けられ、なんとか契約解除を免れるという有様だった。

しかし、昭和9年の「利根の舟歌」で初ヒットを出し、昭和10年の「船頭可愛いや」が大ヒットした。そして、昭和15年の「暁に祈る」の大ヒットで作曲家としての地位を不動なものとし、数々の戦時歌謡を作曲した。

疎開

昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、東京都世田谷区田代にある自宅が焼失したため、夫・古関裕而は昭和20年6月に娘2人を福島県福島市の実家に疎開させた。

しかし、福島の実家も危なくなってきたので、昭和20年7月に娘2人を福島県福島市飯坂町横町の二階堂魚店へと疎開させた。

昭和20年7月、古関金子は疎開している娘2人の様子を見に行き、腸チフスに感染して重体となってしまう。

偶然、二階堂魚店に医学生が下宿しており、この医学生が腸チフスと診断してくれたのだが、この頃のタクシーは木炭車で、木炭1俵を用意しなければ、タクシーは呼べなかった。

このため、夫・古関裕而の弟・古関弘之が、なんとか木炭を用意して、タクシーで古関金子を病院へ運んだ。

知らせを受けた夫・古関裕而は、慌てて帰省して病院へ駆けつけると、金子に死相が出ていたが、必死の看病により、回復し、昭和20年8月10日頃に退院した。

その数日後の昭和20年8月15日に玉音放送が流れ、日本は終戦を迎えた。

昭和20年11月、夫・古関裕而は、飯坂小学校の校歌の作曲を依頼され、校歌を制作した。飯坂町には世話になったので、作曲料は半額で引き受けたという。

そして、校歌発表を兼ねた音楽会で、長女・古関雅子の伴奏で古関金子が歌い、古関家は校歌を置き土産にして、東京へと戻った。

戦後

戦後、古関金子は、日本初の国際オペラ歌手・三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開した。

古関金子の歌声は評価が高く、夫・古関裕而は関係者から「奥さんの為に曲を作るべきだ」と助言されており、オペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」を作った。

この3作は、古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演で、昭和24年から昭和25年にかけてNHKで放送され、好評を得た。

しかし、古関金子は、昭和21年7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれて、3人の子供に恵まれており、育児などが忙しいため、オペラ3作を最期に声楽から引退した。

昭和33年(1958年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。昭和40年に「にあいなめ」の同人となり、昭和44年に詩集「極光」を発売した。

その一方で、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになった。

晩年

古関金子は、昭和51年(1976年)に乳がんが判明し、2度の手術を受け、闘病生活を開始しする。

昭和54年に夫・古関裕而が福島市の名誉市民の第1号に選ばれ、古関金子も推戴式に和服で出席したが、昭和55年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。

古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり、昭和55年(1980年)7月に死去した。68歳だった。

夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。

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