神山清子の子供・神山賢一の立志伝

NHKの朝ドラ「スカーレット」のモデルとなる神山清子の子供・神山賢一(こうやま・けんいち)の立志伝です。

神山賢一の立志伝

神山賢一の画像神山賢一は、昭和36年(1961年)2月16日に滋賀県信楽町で、神山易久の長男として生まれた。母親は神山清子(金場清子)である。

父・神山易久と母・神山清子は、共に近江化学陶器の社員で、その後、独立して信楽焼の陶芸家として活動を開始する。

両親は自宅に半地下式穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」を築くが、父・神山易久が女性を作って家を出てしまう。

神山賢一は、父・神山易久のことで苦悩する母・神山清子に、「僕は、母さんと、姉ちゃんとで頑張る。学校に行けなかったらアルバイトもするから、父さんいなくてもいい」と言って離婚を促した。

離婚した母・神山清子は、半地下式穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」で、釉薬を使わない「自然釉」の研究を開始した。

そして、借金取りに追われながらも、釉薬を使わない「自然釉」で色を出すことに成功して、「信楽自然釉」と名付け、信楽焼の女性陶芸家の草分けとなる。

骨髄バンクの設立

神山賢一は、信楽工業高校(信楽高校)の窯業科を卒業後、信楽窯業試験場で3年間の修行を経て、母・神山清子の元で信楽焼の陶芸家として活動を始めた。

しかし、神山賢一は母・神山清子をライバル視して、半地下式穴窯「寸越窯」は継がず、母・神山清子の「自然釉」に対抗し、釉薬の可能性を求めて釉薬の研究して、「天目茶碗」を制作した。

ところが、平成2年(1990年)2月、神山賢一は29歳の誕生日の数日後に腰の痛みを訴えて病院へ運ばれ、「慢性骨髄性白血病」と診断された。

神山賢一は姉・神山久美子とHLAが適合しなかった。当時は公的な骨髄バンクは存在せず、知人たちにより、「神山賢一を救う会」が結成され、ドナー探しと募金活動が始まった。

そして、各方面から協力が有り、活動を広げるため、「神山賢一君支援団体連絡協議会」が発足した。

当初は神山賢一のドナーを探す目的だったが、名前を公表したことにより、全国の白血病患者が「私たちも救って欲しい」と言い、白血病患者のHLAのデータを送ってきた。

そこで、神山賢一はみんなも救うことに決め、骨髄バンク活動を開始する。

その結果、4ヶ月で約3000人のドナー希望者が集まったが、神山賢一に適合するドナーは見つからなかった。

しかも、ドナー希望者の血液検査費用は1万円だったため、「神山賢一を救う会」は莫大な借金を抱えた。

母・神山清子は全国の白血病患者に借金の返済に協力してもらいたかったが、結局、自分たちで借金をかぶり、「神山賢一を救う会」は莫大な借金を抱えて解散した。

しかし、骨髄バンク設立の要望は高まっており、神山賢一は全国の白血病患者の「救う会」の中核となる「骨髄バンクと患者を結ぶかんじや会」を発足して会長に就任し、骨髄バンク設立に向けた運動を開始した。

このようななか、信楽焼の創作活動を続けていた神山賢一は、「滋賀県立陶芸の森」で開催された「世界陶芸祭」に母子出展し、世界の陶芸を間近に見られることを楽しみにしていたが、「世界陶芸祭」の開催中に信楽高原鉄道で脱線事故が起きたため、「世界陶芸祭」は中止された。

それから数日後に、神山賢一と交流していた白血病患者と母親が、無理心中するという悲劇が起きた。

しかも、神山賢一は急性白血病に転化。民間の「東海骨髄バンク」に照合したがドナーは見つからず、HLAが完全に一致しなかった叔母・静子の骨髄移植をすることになった。

神山賢一は叔母・静子の骨髄移植を受けて、体調が改善に向い、平成3年(1991年)12月に念願の「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が設立された。

しかし、神山賢一は平成4年(1992年)2月に白血病が再発してしまう。

母・神山清子が献体に登録するので、神山賢一も登録して欲しいと言われ、神山賢一も献体に登録した。

そして、入院前に作っていた坪を、母・神山清子が自然釉で焼いてくれた。

神山賢一は、国宝級の「天目茶碗」が展示されている徳川美術館に行ってみたいと頼み、母・神山清子と看護婦に連れられて徳川美術館へ行ったが、休館日だったため、入る事が出来ず、名古屋城を観に行った。

そして、神山賢一は名古屋城から戻った後に容体が急変し、平成4年(1992年)4月21日に死去した。

なお、神山清子の経歴は「神山清子」をご覧ください。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク