神山清子の夫・神山易久の立志伝

朝ドラ「スカーレット」のモデル神山清子の夫で信楽焼の陶芸家として活躍する神山易久(こうやま・やすひさ)の立志伝です。

神山易久の立志伝

神山易久の画像神山易久は昭和11年(1936年)5月に滋賀県信楽町で生まれた。父親は郵便局に務めていたが、曾祖父が陶器を扱い、祖父が陶土を扱う仕事をしていた。

神山易久は生まれも育ちも信楽町で、滋賀県立職業訓練所を出た後、「近江化学陶器」に就職し、陶磁器デザイナー日根野作三に師事してクラフトデザインを学んだ。

そして、「近江化学陶器」で、中学時代の1年後輩・神山清子(本名は金場清子)と再会する。

神山易久は中学時代、美術コンクールで万年2だった。いつも1位は神山清子だったので、神山清子の事をライバルだと思っていたが、神山清子は自分の絵に夢中で神山易久の事を覚えていなかったという。

さて、神山易久が神山清子の絵を褒めた事で交際に発展。小さい会社だったので、2人の交際は直ぐに噂になったという。

やがて、2人は結婚するが、神山清子の父親が結婚に反対。父親は苦労して信楽に土地を購入したので、婿養子が欲しかったという。

神山易久は婿養子に入る事を承諾したが、神山清子が拒否して嫁入りを希望したので、神山清子が嫁入りして、2人で神山清子の実家・金場家で同居することになった。

生活は苦しく、結婚後も「近江化学陶器」で共働きを続け、長女・神山久美子と長男・神山賢一を儲けた。

やがて、家電製品の普及により、主力商品の火鉢の需要が低迷すると、妻・神山清子は会社を辞めて独立し、神山易久は会社に残った。

その後、神山易久はライバル会社「日本陶飾」の社長に、重役相当の待遇でヘッドハンティングされたが、人間関係が上手くいかず、4年ほどで「日本陶飾」を退社し、妻・神山清子の工房で働いた。

妻・神山清子の父親が所有していた山を売り、その資金で、昭和44年(1969年)に、郷土に残る文献と、荒川照蔵の穴窯築窯に携わった知人の協力を得て、半地下式穴窯「寸越窯(ずんごえがま)」を築いた。

すると、陶芸家・高山が穴窯で作品を焼いて欲しいというので、焼いてあげると、信楽焼が好きだという京都の美術商K氏を紹介してくれた。

神山易久は作品が美術商K氏に認められ、美術商K氏から支援を受けるようになり、お金に不自由しなくなった。

このころから、弟子の女性と男女の関係になり、交通事故を切っ掛けに、弟子との不倫が明るみに出た。信楽は小さい町なので、直ぐに噂が広まった。

やがて、神山易久は、長男・神山賢一にケジメを付けるように言われ、弟子の女性と家を出た。親権の問題や穴窯の権利や名義の問題もあり、泥沼の離婚騒動だったという。

離婚後、神山易久は昭和51年(1976年)に 第2基半地上式穴窯(鹿背窯)を築窯して、須恵器の研究を開始。以降は半地上式穴窯を次々に築窯し、国内外で個展を開き、信楽焼の陶芸家として国際的に活躍している。

なお、妻・神山清子の経歴は「神山清子の立志伝」をご覧ください。

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