わろてんか-北村藤吉のモデルは吉本泰三(吉本吉兵衛)

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する北村藤吉(きたむらとうきち)の実在もモデルを紹介します。

北村藤吉(松坂桃李)のあらすじとネタバレ

北村藤吉(松坂桃李)は、京都の薬師祭りで藤岡てん(葵わかな)と出会い、日本一の芸人だと名乗るが、本当は名も無い旅芸人だった。

北村藤吉(松坂桃李)は、初舞台に緊張して失敗して落ち込んでしまうが、藤岡てん(葵わかな)が笑ってくれたので、勇気を得て旅芸人を続けることを決意し、藤岡てん(葵わかな)に旅先から手紙を書くと言い、鈴をプレゼントした。

その後、北村藤吉(松坂桃李)は、旅芸人として全国を飛び回っているという手紙を藤岡てん(葵わかな)に送り続けたが、本当は芸人の夢を挫折して、実家の米問屋「北村屋」で働いていた。

8年後、北村藤吉(松坂桃李)は藤岡てん(葵わかな)と再開し、「べっぴんさん」になった藤岡てん(葵わかな)に惚れてしまう。

しかし、芸人仲間の秦野リリコ(広瀬アリス)が藤岡てん(葵わかな)に、北村藤吉(松坂桃李)の手紙は全部嘘だと言い、北村藤吉(松坂桃李)が芸人を辞めて米問屋「北村屋」で働いていることをバラしてしまう。

手紙を楽しみにしていた藤岡てん(葵わかな)は、ショックを受けるが、これが恋だと気付き、北村藤吉(松坂桃李)と駆け落ちして、大阪にある北村藤吉(松坂桃李)の実家「北村屋」へと向かうのだった。

しかし、北村藤吉(松坂桃李)らが米問屋「北村屋」へ戻ると、母・北村啄子(鈴木京香)が北村藤吉(松坂桃李)の結婚相手として杉田楓(岡本玲)を招いており、藤岡てん(葵わかな)との結婚に反対した。

そのようななか、北村藤吉(松坂桃李)は、米問屋「北村屋」に謎の借金がある事を知る。

そこで、北村藤吉(松坂桃李)は、借金を返済して、母・北村啄子(鈴木京香)に結婚を認めさせようと考え、仕事に奔走するが、思うように新規開拓はできなかった。

そこで、北村藤吉(松坂桃李)は、芸人仲間・キース(大野拓朗)が持ち込んだ「パーマの機械」の儲け話に勝負を賭けた。

ところが、北村藤吉(松坂桃李)は、大量の不良品を掴まされて多額の借金を背負い、米問屋「北村屋」を倒産へと追い込んでしまったのである。

藤岡てん(葵わかな)は北村藤吉(松坂桃李)の好きな芸に賭けたいと言ったが、北村藤吉(松坂桃李)は芸人としての才能は無かったため、藤岡てん(葵わかな)は寄席の経営を勧めた。

寄席の経営に掛ける事にした北村藤吉(松坂桃李)は、方々を奔走して、お金も借りることができ、なんとか亀井庄助(内場勝則)からボロボロの寄席「鶴亀亭」を売ってもらうことに成功する。

しかし、母・北村啄子(鈴木京香)から「父・藤岡儀兵衛(遠藤憲一)の借金を返済するまでは北村の名前を使用する事を禁ず」と言われてしまう。

そこで、北村藤吉(松坂桃李)は「風鳥亭」という名前にする事を決め、長屋芸人のキース(大野拓朗)やアサリ(前野朋哉)や万丈目吉蔵(藤井隆)らの協力を得て、寄席の経営をかいしするのであった。

しかし、キース(大野拓朗)ら長屋芸人だけでは客は入らず、芸人不足に苦しめられる。

北村藤吉(松坂桃李)は落語家に出演を依頼するが、落語家は「風鳥亭」のような三流の寄席には出演してくれなかった。

しかし、藤岡てん(葵わかな)のアイデアもあり、「伝統派」の大看板・喜楽亭文鳥(笹野高史)に出演してもらう事に成功すると、芸能プロダクション「オチャラケ派」の寺ギン(兵藤大輝)から業務提携を持ち込まれた。

しかし、寺ギン(兵動大樹)の条件は取り分は7分3分という厳しい条件で、「風鳥亭」の経営は厳しかった。

そこで、藤岡てん(葵わかな)は入場料(木戸銭)を半額の5銭にすることを提案した。入場料を半額にして気軽に入れるようにすれば、売上げは倍になるというだ。

北村藤吉(松坂桃李)は、藤岡てん(葵わかな)の提案を受け入れて入場料を5銭にするとともに、寺ギン(兵動大樹)に「売上げを倍にした取り分を5分5分にして欲しい」と頼んだ。

藤岡てん(葵わかな)のアイデアは見事にヒットし、売上げは倍になる。

約束通り、寺ギン(兵動大樹)は契約条件を見直したが、寺ギン(兵動大樹)は一筋縄ではいかず、「条件は見直すと言ったが、5分5分にするとは言ってない」と言い、取り分は6分4分となった。

その後、「風鳥亭」の経営は順調で、藤岡てん(葵わかな)と北村藤吉(松坂桃李)は、1周年記念日に父・藤岡儀兵衛(遠藤憲一)から借りていた借金500円を全額返済することが出来た。

すると、母・北村啄子(鈴木京香)は2人の結婚と認め、北村の名前を使用することを許したので、北村藤吉(松坂桃李)は「北村笑店」を設立するのであった。

その後、「北村笑店」は寺ギンのオチャラケ派を吸収し、喜楽亭文鳥(笹野高史)の伝統派も傘下に収めて大阪の演芸界を統一することに成功し、島根県から安来節の少女3人を買い取ってきて、「安来節乙女組」を結成した。

昭和に入ってラジオが普及し始めると、月の井団吾(波岡一喜)がラジオ出演事件を起こすなか、北村藤吉(松坂桃李)が脳卒中で倒れてしまい、脳卒中で死んだと思われたのだが、藤岡てん(葵わかな)の献身的な介護により、奇跡的に復活するのであった。

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北村藤吉の実在のモデル

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する北村藤吉(松坂桃李)の実在もモデルは、吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉次郎/吉本吉兵衛)です。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、明治19年(1886年)4月5日に、大阪で4代続く老舗の荒物問屋「箸吉」の次男として生まれた。次男だが、長男が夭折していたので、跡取り息子として育った。

しかし、父・吉本吉兵衛が後妻として出口ユキ(吉本ユキ)を荒物問屋「箸吉」に入れたことから、吉本泰三(吉本吉兵衛)の運命が大きく変わる。

父・吉本吉兵衛が後妻・出口ユキ(吉本ユキ)の連れ子を可愛がったことから、吉本泰三(吉本吉兵衛)は荒物問屋「箸吉」を連れ子に継がせるつもりではないかと疑心暗鬼になり、芸人遊びに走るようになる。

困った父・吉本吉兵衛は、結婚すれば吉本泰三(吉本吉兵衛)も立ち直るだとうと考え、林家の3女・吉本せい(林せい)に縁談を持ち込み、吉本泰三(吉本吉兵衛)と吉本せい(林せい)を結婚させた。

しかし、吉本泰三(吉本吉兵衛)の芸人遊びが治るどころが、旦那芸として覚えた剣舞に熱中になり、誰かにそそのかされたのか、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という一座の太夫元(興行主)となって、旅巡業に出ては借金を増やす有様だった。

このころ、荒物問屋「箸吉」は、日露戦争後の不況の煽りを受けて、不渡りを掴まされており、経営が悪化していた。

さらに、荒物屋「箸吉」が大阪市電鉄の道路拡張工事に引っかかり、立ち退きを命じれてしまう。

結局、妻の吉本せい(林せい)は、女手1つで傾いた荒物屋「箸吉」を立て直すことはできず、吉本泰三(吉本吉兵衛)が1年半の旅巡業に出ている間に、荒物屋「箸吉」の廃業を決め、実家の林家へと戻ったのだった。

さて、吉本泰三(吉本吉兵衛)が旅巡業から帰宅すると、妻・吉本せい(林せい)は実家の林家を出て、天満天神裏の長屋へと移り住んだ。

妻・吉本せい(林せい)の針仕事で食いつないでいたが、吉本泰三(吉本吉兵衛)は未だに芸人遊びを続けていた。

そのようななか、吉本泰三(吉本吉兵衛)が突然、妻の林せい(吉本せい)に何の相談も無く、天満天神裏にある三流の寄席「第二文芸館」を買う約束をしてきたと言い出した。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、妻・吉本せい(林せい)にお金を調達してもらい、三流の寄席「第二文芸館」の権利を取得すると、「安くて面白ければ何でもいい」という方針の芸能事務所「反対派(岡田興行部)」と契約し、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。

入場料5銭という安さと、妻・吉本せい(林せい)のアイデアや苦労により、寄席の経営は軌道に乗る。

すると、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、翌年の大正2年(1913年)1月に「吉本興行部(後の吉本興業)」を設立し、大正3年(1914年)には複数の寄席を買収し、三流の寄席ながら、チェーン展開を始めた。

吉本興行部(吉本興業)の寄席の実務からヤクザの対応まで妻・林せい(吉本せい)に任せており、吉本泰三(吉本吉兵衛)の具体的な活躍は不明だが、落語が衰退していく隙を突き、吉本興行部(吉本興業)と「反対派」の連合は勢力を拡大していった。

そして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は大正4年(1915年)に落語「桂派」の拠点だった「金沢亭(蓬莱館)」を買収することに成功し、演芸のメッカ法善寺裏へと進出する。

さらに、大正9年(1920年)12月に「反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎が急死すると、「反対派」を乗っ取り、「吉本花月連」を発足して興行主となった。

翌年の大正10年(1921年)には、「三友派」の大看板だった初代・桂春団治(皮田藤吉)の借金を肩代わりすることで、吉本興行部(吉本興業)は初代・桂春団治(皮田藤吉)と専属契約を結び、大正11年(1922年)8月に落語の「三友派」を降伏させた。

こうして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、三流の寄席「文芸館」の経営を開始してから、わずか10年で大阪演芸界の頂点に立った。

そして、最盛期の大正11年(1922年)には、大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手に入れ、吉本王国を築き、東京の寄席「神田花月」を足がかりに東京進出を目論んでいた。

さらに、大正12年(1923年)10月26日に待望の跡取りとなる次男・吉本穎右(吉本泰典)が生まれ、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、ようやく我が世の春が来たと喜んでいたが、その矢先の大正13年(1924年)2月13日に脳溢血で死去してしまう。享年39だった。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は愛人(妾)の家で死去したと伝わる。

吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、吉本家の家督は次男・吉本泰典(吉本穎右)が相続したが、次男・吉本泰典(吉本穎右)は歌手・笠置シヅ子との恋愛騒動を起こした末に、昭和22年(1947年)5月19日に24歳という若さで死去してしまい、吉本家の男系は途絶えた(女系は残っている)。

吉本興行部(吉本興業)の経営は、妻・吉本せい(林せい)の実弟・林正之助が任されており、以降、吉本興行部(吉本興業)は林家によって運営された。

なお、朝ドラ「わろてんか」のモデルについては「わろてんか-登場人物の実在モデル」をご覧ください。

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