久原房之助の立志伝

鉱山王として久原財閥を築き政治家へと転身した久原房之助(くはら・ふさのすけ)の立志伝です。

久原房之助の家系

久原房之助の家系は、鎌倉時代の武将・佐々木高綱の家系で、佐々木高綱は源頼朝に従って鎌倉幕府の成立に貢献し、長門国(山口県西部)・備前国(岡山県東部)などの守護職に任じられたが、その後、佐々木氏は北条氏の台頭によって衰退していった。

佐々木神四郎の時に、石見国(鳥取県)の豪族・益田元祥に仕えていたが、益田元祥は毛利家に従って関が原の合戦で西軍に属したため、領地を没取され、毛利家の長門阿武郡須佐へと移った。

このとき、佐々木神四郎は、石見国(鳥取県)の七尾城に留守居として残り、20年間、七尾城で務めたが、帰農して石見国久原村に住んだ。

それから20年後、佐々木神四郎の子・佐々木勘平治が、旧主・益田家を慕って長門阿武郡須佐村に移り住み、ここで認められ、浦庄屋(漁村を支配する役人)に取り立てられ、「久原」を名乗るようになった。これが久原家の祖である。

久原家は、10代当主・久原半平の時に、御船頭にも任じられ、益田家の御用商人として活躍し、士分に取り立てられて繁栄していた。

しかし、折しも時代は幕末にさしかかっており、長州藩は倒幕派と佐幕派に分かれて対立してことから、10代当主・久原半平は、派閥争いの余波を受けたようで、米を買い占めたとして、何者かに暗殺されてしまったうえ、益田家から士籍とお役目を剥奪されるという理不尽な処分を受けた。

そこで、養子の久原庄三郎が久原家を相続して11代当主となると、久原半平の暗殺を機に益田家と決別して、山口県萩市今魚店町へと移り住み、酒造業を開始した。

この久原庄三郎が久原房之助の父である。

久原房之助の立志伝

久原房之助の画像久原房之助は、幼名を「久原房三郎」と言い、明治2年(1870年)6月4日に山口県萩市唐樋町で、酒造業を営む久原庄三郎の四男として生まれた。母は久原文子である。久原房之助は四男だが、既に次男が夭折していたので「房三郎」と名付けられた。

父・久原庄三郎は今魚店町から唐樋町へ移って、唐樋町でも酒造業を続けていたが、成功せず、久原房之助が生まれた2ヶ月後に、熊谷町へ移って醤油醸造業に転業した。しかし、醤油醸造業も成功しなかった。

大正6年2月、父・久原庄三郎は、山口県萩市に見切りを付け、軍靴製造で成功していた実弟・藤田伝三郎を頼って大阪に出て、実弟・藤田伝三郎とともに「藤田組」を興した。

この「藤田組」は大正10年の西南戦争で、官軍に軍事資材を納品したり、人夫を斡旋したりして莫大な利益を得たほか、戦後のコレラ発生を見越して石炭酸を買い占めており、戦後のコレラ発生で巨利を得て、藤田組の基礎を築き、明治10年9月には「藤田伝三郎商社」を名乗った。

さて、山口県萩市に残っていた久原房之助や母・久原文子は、父・久原庄三郎に呼ばれ、明治12年6月に一家で大阪へと渡った。

さらに久原房之助は、明治14年夏に上京して商法講習所(東京商業学校/一橋大学)に入り、明治18年7月に卒業すると、旅行で各地を見聞した後、明治19年11月に慶応義塾大学予科2番へ入学し、明治22年12月に慶應義塾大学を卒業した。

久原房之助は、慶應義塾大学在学中に福沢諭吉や森村市左術門の講義を聴いて、海外貿易志しており、森村市左術門の森村組へ入社しようと考え、父・久原庄三郎に相談した。

このころ、父・久原庄三郎は、払い下げられた小坂鉱山を軌道に乗せて成功させ、藤田伝三郎とともに関西経済界の雄となり、藤田伝三郎・五代友厚・松本重太郎らとともに阪堺鉄道(南海電鉄)の設立に参画したほか、大阪アルカリの頭取・北浜銀行の頭取・大阪商船の取締役などを勤め、東西の財界人と交流を持っていた。

しかし、父・久原庄三郎は、森村市左術門とは面識が無く、森村組のこともほとんど知らなかった。

そこで、父・久原庄三郎は、故意にしている山陽鉄道社長・牛場車道を通じて森村組への入社を打診するが、森村市左術門から「金持の子供は役に立たない。自分の方では課長でも重役でも荷車をひいている。私自身が引くことさえある。みんなが実地に実業というものを体験しているのだ」と、断られてしまう。

このため、父・久原庄三郎は、貿易希望なら森村組にこだわる必要は無いと言い、三井物産やイリス商会などの大手を勧めたが、久原房之助は森村組がいいと言うので、本人の好きにさせた。

久原房之助は、東京の森村組本店で断られたので、2~3ヶ月遊んだ後、今度は神戸の森村組へ行くことにした。森村組は雑貨を手がけており、その仕事の拠点は神戸にあったのだ。

久原房之助は、森村組の神戸支店長・広瀬実英に面会して、直接、入社を直訴したが、広瀬実英は「本店で不採用になったものを、支店長の権限で入社させることは出来ない」と言い、拒否した。

久原房之助が何度も懇願しに行くと、神戸支店長・広瀬実英が森村市左術門に斡旋してくれ、森村市左術門が黙認する形で、森村組の神戸支店に入社することが出来た。

森村組には既に慶應義塾大学時代の同級生が帳簿係として入社していたので、久原房之助は倉庫係を命じられた。

久原房之助は、業務改善を積極的に提案して、わずか1年で頭角を現し、倉庫係ながらも、森村組の神戸支店長・広瀬実英の相談相手となり、それから1年後にはニューヨーク勤務に抜擢された。これは異例の抜擢であった。

このとき、森村組としても簡単に辞められては困るため、森村市左術門が久原家を訪れ、久原家から勤務期間について確約を取ったという。

しかし、それに待ったをかけたのだが、毛利家筆頭の井上馨である。

このころ、藤田組は経営が傾き始めており、井上馨の仲介で毛利家から巨額を借りていたので、井上馨は藤田家の人材が森村組で働いていることに激怒し、ニューヨークを中止して藤田組で働くように命じたのである。

久原房之助は出航の前々日になって、叔父・藤田伝三郎から渡米中止を命じられたが、納得できないので、談判に及んだ。

しかし、叔父・藤田伝三郎は、一族の浮沈に関わると言い、久原房之助に渡米中止を厳命した。

そこで、久原房之助は井上馨に直訴しようとしたが、井上馨に会うことはできず、叔父・藤田伝三郎の再三にわたる説得を受け、最後は藤田組と森村組の話し合いに任せた。

そこで、藤田組の下河辺貫四郎が森村市左術門の元を訪れて事情を説明すると、森村市左術門は久原房之助の移籍を認めた。

こうして、久原房之助は明治24年に森村組を退社して藤田組へ入社し、秋田県の小坂鉱山へと赴任した。久原房之助は海外飛翔の夢から一転して、田舎の山奥に押し込められたのである。

小坂鉱山で台頭

久原房之助は小坂鉱山で炭鉱員とともに現場作業に従事した後、清鉱係長、専務部長心得などを経て、明治30年に現業課長になった。

しかし、この間に小坂鉱山の銀は生産量が減少したうえ、人件費の高騰や銀価格の低下しており、藤田組は経営危機を迎えていた。

藤田組を倒産させると、毛利家も大きな損害を被るため、毛利家は藤田組を支援せざるを得ず、毛利家は藤田組に60万円を融資するとともに、小坂鉱山・大森鉱山の売却して、児島湾干拓に事業を集中するというなど厳しい再建案を突きつけ、藤田組を毛利家の監督下に置いた。

そこで、藤田組は明治30年、十輸田鉱山を売却して、小坂鉱山・大森鉱山の整理に着手した。

このように小坂鉱山は売却か閉鎖される運命にあったが、久原房之助は小坂鉱山に眠っていた黒鉱(くろこう)に着目した。

黒鉱の存在は以前から判明していたが、黒鉱は金・銀・銅などを分離するのに多くの燃料を使うのため、コストがかさみ、商業的に見捨てられていた。

既に世界では鉱物自身に含まれる鉄と硫黄を利用して燃焼させる自熔製錬法が開発されていた。自熔製錬法は燃料をほとんど必要としない画期的な方法だったが、硫化鉱の製錬法として開発されていたため、黒鉱には利用されていなかった。

しかし、黒鉱にも硫黄が含まれることから、久原房之助は「鉱山を潰すつもりであれば、どんなことでもできる」と言い、溶鉱炉に詳しい親戚・武田恭作を招いて、米沢万障・青山隆太郎とともに、自熔製錬法の開発に着手するのだった。

そのようななか、久原房之助は、昭和33年1月に小坂鉱山の事務所長に就任する。ただし、あくまでも小坂鉱山を整理するのが役目だった。

また、久原房之助は井辺タツと交際しており、井辺タツを妊娠させていたが、明治33年9月25日に毛利家の田島信夫の媒酌で、山口県の士族・鮎川弥八の次女・鮎川清子と結婚する。

鮎川清子は、井上馨の姉・常子の孫にあたり、井上馨の結婚の斡旋を断ることがが出来なかった。

さて、「なんべん炉をつぶしたか分らん」という試行錯誤の末、武田恭作が羽口炭による自熔製錬法の開発に成功するが、製錬場の建設には19万円が必要だった。

小坂鉱山が15万円を捻出しても4万円足りないので、久原房之助は小坂鉱山を銅山に転向する計画を明かし、藤田組に4万円を出して欲しいと頼んだが、藤田組は小坂鉱山を整理対象としていたので、相手にしなかった。

そこで、久原房之助は毛利家筆頭の井上馨に直談判しようと考え、赤十字病院に入院中の井上馨の元を訪れたが、面会謝絶で会うことは出来なかった。

しかし、久原房之助が赤十字病院に日参していると、それが井上馨の耳に入り、面会することができ、話を聞いてもうことが出来たのである。

井上馨は金の件は渋沢栄一に頼んでくれると言ったが、久原房之助は自分で努力してみると言って断り、小坂鉱山を事業整理の対象から外すように頼むと、井上馨はそれを認め、「小坂は井上からの預かり物」として、小坂鉱山のことは自由にやって良いと許可し、藤田組への報告も不要とした。

その後、不足金の4万円はどのように用立てたのかは不明だが、明治36年6月に新精錬所が完成し、「羽口炭」による製錬を開始した。

このころ、銅の価格は上昇の一途をたどっており、羽口炭は大森鉱山・大地鉱山にも採用されて莫大な利益を上げ、傾いていた藤田組を立て直した。また、紆余曲折していた鹿児島湾の干拓も起工した。

こうした結果、小坂鉱山は足尾銅山に次ぐ規模へと成長し、明治36年には藤田組は毛利家の再建計画を完了し、毛利家の監督から外れ、経営陣から外されていた藤田伝三郎と久原庄三郎も経営陣に復帰した。

そうした一方で、足尾銅山鉱毒事件が問題化しており、久原房之助も小坂鉱山の鉱毒問題に対応していくのであった。

藤田組のお家騒動

久原房之助は既に10年間を小坂鉱山で過ごしており、小坂鉱山に骨を埋めるつもりで居たが、明治37年に藤田組の本社から呼び戻され、不本意ながら小坂を去ることになった。

藤田伝三郎は、久原房之助が巨万の富を産んでいる小坂鉱山を私物化するのを恐れたのである。

そこで、藤田伝三郎は「家憲」を制定することを思いついた。当時の財閥は資産の分散を防ぐため、「家憲」を制定しており、それに習ったのだ。

藤田組を経営していたのは、藤田伝三郎・久原庄三郎・藤田鹿太郎の3兄弟だが、藤田組を創業したのは、末子の藤田伝三郎であり、藤田伝三郎が社長だった。

そこで、藤田伝三郎は、藤田家と藤田組を同一視して自分が藤田家の宗家となり、祭壇を取り仕切るとともに、藤田伝三郎の家系が藤田組を継承していくことを明記する家憲を定め、久原庄三郎と藤田鹿太郎の家系は副社長を世襲させようとしたのである。

藤田鹿太郎は既に死去し、藤田小太郎が家督を継いでいたが、藤田小太郎は病弱でおとなしい性格だったので、後見人の藤田伝三郎に任せていた。

こうた動きに対して、父・久原庄三郎は明治38年3月に、久原房之助に家督を譲り、隠居したのである。

久原房之助は、有能な者が会社を継ぐべきとして、世襲制に反対し、叔父・藤田伝三郎と対立するが、話し合いは平行線のままで終わり、久原房之助と藤田小太郎は藤田組を離れることにした。

当時の西日本には末子が家督を相続する「末子継承」が伝統として残っており、久原房之助も「末子継承」で家督を相続していたので、末子が継ぐこと自体は問題無いのだが、藤田組の社長を世襲制にしことを問題としたのである。

さて、久原房之助と藤田小太郎が藤田組を離れることになったので、叔父・藤田伝三郎は井上馨らに財産分与の査定を依頼した。

そして、井上馨らの判断により、小坂鉱山以外は叔父・藤田伝三郎の資本とし、小坂鉱山だけを分配することに決め、小坂鉱山を約2000万円を査定した。

そして、この2000万円を藤田伝三郎・武田恭作・久原房之助・藤田小太郎の4人で均等割にして、藤田伝三郎が10年分割で支払うことになった。

久原房之助は取り分が約500万円で、藤田組の危機を救った功績が全く繁栄されていないため、この金額に不満だったが、裁定は覆らなかった。

(注釈:当時の大卒の初任給が30円前後で、当時の500万円は現在の価値で数百億円になる。)

日立鉱山の操業

久原房之助は、藤田伝三郎の家憲問題の一方で、赤沢銅山の購入に向けて動いており、明治38年12月10日に藤田組を退社すると、その翌日の明治38年12月11日に、大橋真六から茨城県多賀郡日立村の赤沢銅山を約42万円で購入した。

赤沢銅山の購入の経緯には諸説がるが、小坂鉱山時代の部下・溝口為之進が、茨城県の赤沢銅山が公害問題に手を焼いて売りに出そうとしていることを知り、久原房之助に進言したという説が最も有力である。

そして、久原房之助は腹心の竹内維彦・武田内蔵丞らに調査を命じ、その結果、既に判明している鉱床の他に数十の露頭を発見を発見したことから、将来有望と判断した。

もっとも売りに出る位なので、良い条件ばかりではなく、鉱脈の下に断層があるという問題が判明したが、最後は「山相」に惚れて購入に至ったという。

また、赤沢銅山について大きな問題はお金だった。久原房之助は藤田組から500万円を受け取ることになっていたが、10年間の均等払いだったので、赤沢銅山の買収と操業資金が無く、融資を頼みに行くが、実業家としての知名度は無いため、金を貸してくれる所は無かった。

そこで、井上馨に泣きつくと、井上馨が藤田組から受け取る500万円の債権を担保に、三井銀行の池田成形や、大阪の鴻池銀行に融資を頼んでくれたので、赤沢銅山の買収資金が出来た。

このようにして、久原房之助は、明治38年12月11日に、大橋真六から茨城県多賀郡日立村の赤沢銅山を約42万円で購入すると、同年12月26日に「日立鉱山」と改称し、明治39年2月には第一竪坑の開さくに着手したのだった。

神田礼治と小坂勢

日立鉱山が操業を開始して間もなく、初代事務所長・神田礼治は、断層に突き当り、行き詰まったため、「心誠意十分に考慮の末、止めることを勧告する」と言い出した。

神田礼治は、元々、毛利家の鉱山部門を管理していた鉱山の専門家で、毛利家が鉱山から手を引いたので、鴻池家に頼まれて、明治39年5月に一手を率いて日立鉱山にやってきて事務所長に就任していた。

久原房之助は、困難は覚悟の上だとして、神田礼治に継続してもらったが、2人はことごとく性格が合わず、結局、神田礼治は明治40年3月に、一手を連れて日立鉱山を去った。

このため、日立鉱山は約50人ほど居た職員が30人足らずとなり、運営の危機を迎えたが、久原房之助のピンチを知った小坂鉱山時代の部下だった竹内維彦・小平浪平・堀哲三郎・米沢万陸・青山隆三郎・角弥太郎など「小坂勢」40人以上が駆けつけてくれたので助かった。

小平浪平と日立製作所

小坂勢の小平浪平は、工作課長として、日立鉱山の電力・機械・土木関係を一手に引き受けた。そして、電力の需要増大を見越して、石岡第一発電所を提案した。

また、輸入に頼っていた機械の修理を手がける一方で、修理することによって原理や技術を学び、国産初の発電機の開発に成功した。

そこで、小平浪平は日立鉱山の修理工場を独立させて、機械製造業へと進出することを提案したが、当時は舶来上等という考え方が根強く、久原房之助は自社生産を認めなかった。

そこで、小平浪平は工場建設費を修理費用として計上し、工場を建設してから、久原房之助に報告した。

久原房之助は激怒したが、小平浪平の熱意を認めて、機械製造業の進出を事後承諾し、日立鉱山の利益の一部を裂いた。こうして、発足したのが、日立製作所である。

日立製作所は久原鉱業所の子会社だったが、大正9年(1920年)に久原鉱業所から完全に独立することになる。

政界の黒幕・久原房之助の立志伝」へ続く。

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