まんぷくヌードルのモデルは実話のカップヌードル

NHKの朝ドラ「まんぷく」に登場する「まんぷくヌードル」のモデルと実話を紹介します。

まんぷくヌードルのあらすじ

立花萬平(長谷川博己)の「まんぷく食品」は、「まんぷくラーメン」の大ヒットで自社ビルを建てるまでに成長していたが、11年がたっても、「まんぷくラーメン」を超える商品は登場していなかった。

そのようななか、今井福子(安藤サクラ)が2年前にアメリカに、「まんぷくラーメン」を売り込みに行ったときのことを思い出し、立花萬平(長谷川博己)に話した。

アメリカには丼と箸が無いため、アメリカのバイヤーは「まんぷくラーメン」を2つに割って紙コップに入れ、湯を注いで食べたのである。

その話を聞いた立花萬平(長谷川博己)は、カップに入った即席ラーメンを作ることに決め、神部茂(瀬戸康史)に開発を命じ、「まんぷくヌードル」と名付けると、自らも先頭に立って「まんぷくヌードル」の開発に着手した。

さて、立花萬平(長谷川博己)は発泡スチロールに着目するが、発泡スチロールで作った容器はスチレンモノマーの匂いがした。

業者は原材料特有の匂いなので避けられないと言うが、立花萬平(長谷川博己)に食品を入れる容器なので、匂いは致命的だと言い、調査を開始する。

立花萬平(長谷川博己)はアメリカから輸入する容器からは匂いがしないことに気づいて調べてみると、輸送中のコンテナの中は高温になることを突き止めた。

そこで、立花萬平(長谷川博己)は発泡スチロールの容器に熱風を吹きかけることで、匂いの問題を解決した。

蓋は、アメリカからの帰りの飛行機の中で貰ったマカデミアナッツの容器を参考した。マカデミアナッツの容器の蓋は、容器に熱圧着されており、蓋の問題も解決した。

麺は、カップ型の金網に入れて油で揚げたが、厚みがあるため、中まで綺麗に揚がらないという問題が出た。

しかし、立花萬平(長谷川博己)は妻・立花福子(安藤サクラ)の言葉をヒントにして、天ぷらは食べ頃になると勝手に浮き上がってくる原理を利用して、麺を綺麗に揚げることに成功した。

「まんぷくヌードル」に入れる具は、長男・立花源が論文を読んで、フリーズドライという方法を発見し、「エビを入れれば華やかになる」という神部茂(瀬戸康史)の提案でエビを入れることになった。

エビはフリーズドライにすると、形が崩れたり、色が黒ずんだりして、「まんぷくヌードル」に最適なエビを見つけるのに苦労したが、インド洋で取れる「プーバラン」というエビがラーメンの具材に適していることを発見した。

容器のデザインは香田忠彦(要潤)に依頼すると、香田忠彦(要潤)は弟子の方が向いているだろうと言い、弟子・名木に任せた。

こうして、「まんぷくヌードル」は完成したが、輸送中に麺が割れてしまうと言う問題が発生した。

しかし、立花福子(安藤サクラ)が出来上がった麺を小さな容器に入れてしまい、麺が容器の中で宙づりになってしまったことから、麺を容器の中で宙づりにする「空中保持」を発見し、輸送中に麺が割れるという問題を解決した。

最後に、製造の工程で、麺を容器に入れるときに、上手く入らないという問題が発生した。

報告を受けた立花萬平(長谷川博己)は、寝ても覚めても、麺を容器に入れる事ばかりを考えるようになってしまう。

ところが、立花萬平(長谷川博己)が寝ていたとき、天井と床がグルリとひっくり返るような経験をした。

そこで、立花萬平(長谷川博己)は、麺を容器に入れるのでは無く、麺に容器をかぶせてからひっくり返すという方法を思いつき、生産ラインの問題も解決し、「まんぷくヌードル」の生産を開始した。

しかし、「まんぷくヌードル」は全く売れなかったので、自動販売機を設置しようとしたが、今井鈴(松坂慶子)が反対した。

立花源が「考えが古い」と今井鈴(松坂慶子)を批判すると、立花福子(安藤サクラ)は「まんぷくヌードル」の価値を理解できるのは若者だと気づき、大阪の歩行者天国で販売することを思いついた。

そして、「まんぷくヌードル」を歩行者天国で販売すると、大勢の若者が集まった。その様子がテレビで放送され、全国から「まんぷくヌードル」の注文が殺到するのだった。

まんぷくヌードのモデルはカップヌードル

NHKの朝ドラ「まんぷく」に登場する「まんぷくヌードル」の実在のモデルは、日清食品の「カップヌードル」なので、「カップヌードル」の実話を紹介します。

日清食品の安藤百福(呉百福)がカップラーメンの開発に着手するのは、昭和41年(1966年)にアメリカを示達したことが切っ掛けだった。

日清食品の安藤百福(呉百福)がチキンラーメンを発売して以降、即席ラーメンの需要は爆発的な勢いで伸び続けていたが、昭和39年(1964年)に相次いで、即席ラーメンの食中毒事件が発生した。

日清食品の「日清焼そば」でも食中毒が発生したため、即席ラーメンへの信頼は揺らぎ、即席ラーメンの需要は急激に鈍化した。このころから、「インスタントラーメンは体に悪い」という噂が流れ始めるようになった。

このころ、即席ラーメン業界は乱売の影響で非常に厳しい状況にあったため、日清食品の安藤百福(呉百福)は海外に販路を求めて、昭和41年(1966年)6月にアメリカを視察したのである。

(注釈:安藤百福は、中国籍だったが、昭和41年3月1日に帰化している)

このとき、アメリカのバイヤーにチキンラーメンを食べてもらうと、バイヤーはチキンラーメンを2つに折って、紙コップの中に入れ、湯を注いでフォークで食べ始め、食べ終わると紙コップをゴミ箱へ捨てた。

これ見た安藤百福(呉百福)は、アメリカンは丼と箸が無いという当たり前のことに驚き、ホテルに帰ってチキンラーメンを割って紙コップに入れ、食べてみた。

すると、紙コップの匂いが気になり、手も熱いという欠点はあるものの、即席ラーメンをカップに入れる「カップラーメン」という構想を得たのである。

帰国した安藤百福(呉百福)は、色々な容器を集めて研究し、容器の素材を発泡スチロールに決め、日清食品の法西晧一郎にカップラーメンの開発を命じた。

しかし、安藤百福(呉百福)から具体的な指示は無かったらしく、このときに開発が進められたのは、発泡スチロールの丼にチキンラーメンを入れただけで、「カップチキン」「どんぶり付きチキンラーメン」と呼ばれており、「カップヌードル」にはほど遠い物だった。

この頃は発泡スチロールは魚のトロ箱に使う程度で、食品容器にするような技術は無く、「カップチキン」「どんぶり付きチキンラーメン」は昭和41年(1966年)12月に試験販売されたものの、容器の問題で計画は中止された。

さて、即席ラーメン業界を取り巻く環境は依然として厳しいなか、日清食品は即席ラーメン業界のトップに君臨し続けていたが、明星食品・エースコック・東洋水産・サンョー食品など各社がヒット商品を飛ばしており、苦しい立場に立たされていた。

なかでも、サンョー食品は「長崎タンメン」に続いて、昭和43年(1968年)に「サッポロ一番味噌ラーメン」を大ヒットさせて業界第2位へと躍進し、日清食品の脅威となっていた。

そこで、日清食品の安藤百福(呉百福)は、昭和44年(1969年)12月に再びカップラーメンの開発に着手した。

安藤百福(呉百福)は様々なデザインの容器を作らせて容器の形を研究し、「片手で持てる」という点を重視して吟味した結果、紙コップを大きくした形に決め、容器の開発チームに開発を命じた。

この時点ではカップヌードルに具を入れる発想は無く、最初は容器の開発チームと麺の開発チームが立ち上がったようだ。

さて、容器の開発チームは、食器にもなり、調理鍋にもなり、包装材料にもならなければならないうえ、持ったときに熱くないように断熱性がある素材という難題を突きつけられていた。

容器は独自に開発できないため、日清食品は包装容器メーカーの東罐興業に相談を持ち込むが、当時の技術では発泡スチロールで安藤百福(呉百福)の要求を満たす容器を作ることは困難だった。

しかし、東罐興業は、発泡スチロールを素材としたPSP(ポリスチレン・ペーパー)を開発中だという情報を入手し、試行錯誤の末、カップヌードルの容器を完成させた。

蓋は、安藤百福(呉百福)がアメリカから帰国する時に乗った飛行機の中で出されたマカデミア・ナッツの容器がヒントになった。

マカデミア・ナッツは小さな容器に入っており、アルミ箔と紙を貼り合わせた蓋が貼り付いていたのだが、接着剤は使っておらず、「熱蒸着」という方法で貼り付いていた。

一方、麺の開発チームは、カップラーメンの麺は袋麺よりも厚みがあるので、麺を均等に揚げられないという問題に突き当たっていた。

麺の開発チームは、見た目も綺麗にしようと考え、麺の上下を平らに成形しようとしたため、開発に難航していたが、安藤百福(呉百福)から「底は平らで無くても良いだろ」と言われ、底は見えない事に気づいた。

そして、安藤百福(呉百福)の助言で、天ぷらが浮かんでくる原理を利用し、浮き上がってきた麺を上から蓋で押さえて、上側だけを平らに成形した。

すると、麺の間に適度な空間ができて麺に均等に熱が行き渡り、湯を入れたときもムラ無く麺が戻り、全ての問題が解決した。

スープは「出前一丁」のような味だったが、安藤百福(呉百福)から世界をターゲットにしているので、コンソメ味にするように言われ、作り直した。

さて、容器と麺の開発にめどが立ったころ、安藤百福(呉百福)は大野一夫に具の開発を命じた。

どうやら、安藤百福(呉百福)はカップヌードルの価格が100円と決めており、100円で売るために具を入れることにしたようだ。

安藤百福(呉百福)は自分の名前が「百福」だという理由から、クイズ番組の懸賞に100万円を出している。カップラーメンの価格が100円なのも、名前が原因だと思われる。

おそらく、日清食品で試食会を開いて意見を募集すると、「100円は高い」と言い、全員が反対したので、100円で売るために具を入れることにしたのだろう。

さて、当時の具といえば、「薬味」として入っていた乾燥ネギぐらいで、「具」と呼べるような物が入った即席ラーメンは出ていなかった。

しかし、安藤百福は「日本人がみんな喜ぶ具がある。卵焼きとエビだ。エビはめでたい」と言い、卵焼きとエビを入れるように命じた。

大野一夫は大学時代に研究で使っていた乾燥法「フリーズドライ」という方法が使える事に気づき、色々と試してみるが、エビはフリーズドライで乾燥させると、色が悪くなったり、形が崩れたりして、カップヌードルの具材に適したエビは、なかなか見つからなかった。

そして、色々とエビを取り寄せて、乾燥させたり、お湯で戻したり、運搬試験をしたりして、最終的にインド洋で捕れるプーパランというエビに決まった。

一方、安藤百福(呉百福)も試行錯誤の末、大豆由来の原料に肉と野菜を混ぜ合わせた「ダイスミンチ」(通称「謎肉」)を完成させた。

ダイスミンチ(謎肉)については、詳しい資料が無いので、安藤百福(呉百福)が自宅の台所で開発したという程度のことしかわからない。

なお、「カップヌードル」の具材は、フリーズドライ大手のアマノフーズ(天野実業)が手がけているはずなのだが、この点はあまり情報が無い。

さて、カップヌードルの具材が揃ったが、製造工程で問題が残っていた。縦型カップ麺の容器は底が狭くなっているので、麺を容器に入れようとしても上手く入らないし、麺を小さくしてしまうと運送中に麺が割れてしまうのである。

この問題の解決方法を思案していた安藤百福(呉百福)は、ある晩、寝ていると、天井がぐるっと回って天地がひっくり返るような感覚に襲われた。

すると、安藤百福(呉百福)は、麺を容器に入れるのではなく、麺に容器をかぶせるという方法を思いついた。

このとき、少し大き目の麺を作り、麺が容器の途中で引っかかるようして、麺が底に付かないようにした。こうすることで、麺が容器の補強の役割を果たし、輸送時の麺割れも防ぎ、食べるときも麺の底にお湯が回り、綺麗にラーメンに戻せるようになった。

日清食品の安藤百福(呉百福)は、これを「中間保持」と名付け、実用新案登録した。

容器のデザインは、複数人の中堅や新人デザイナーに依頼したが、良いデザインが無かったので、日本万国博覧会のシンボルマークのデザインを手がけた大高猛に依頼した。

カップヌードルのロゴは大高猛のデザインで、赤と白の割合が日章旗と同じで、日本人の心が落ち着く黄金比になっているのだという。

カップヌードルの上下の蛇腹模様は、安藤百福が西洋皿の縁取りも表をヒントにして、大高猛にデザインを依頼したのだという。

商品名は、「チキンカップ」などの名前が挙がっていたのだが、アメリカの現地法人「ニッシンフーズ(米国日清)」が広告代理店と協議してと言い、「カップヌードル」という名前を提案してきた。

安藤百福(呉百福)は、これこそ新商品の名前にふさわしいとして、「カップヌードル」という名前を採用した。

容器からの匂いのエピソード

朝ドラ「まんぷく」に登場する容器からスチレンモノマーの匂いがするエピソードは、実話ではカップヌードルの発売後のエピソードだと思われる。

実話では、日清食品の安藤百福(呉百福)は、カップヌードルの容器の開発を東罐興業に容器に依頼し、東罐興業の容器でカップヌードルの販売を開始したが、当時の技術では色々と問題があったため、途中で技術力に定評のあるニホン工缶に発注を変更した。

しかし、安藤百福(呉百福)は品質に厳しく、わずかな匂いにも納得しなかったため、アメリカからの輸入品に切り替えた後、アメリカのダートインダストリーズ社と共同経営で子会社「日清ダート」(日清化成)を設立し、容器の自社生産を始めた。

ところが、アメリカから輸入していた容器には匂いがしなかったのに、同じ技術で作った自社生産の容器からは、原料から由来するスチレンモノマーの匂いがした。

そこで、原因を調査すると、アメリカからの輸入品はコンテナに入っており、コンテの内部は太陽の熱で熱せられて高温になることが分かった。

そこで、安藤百福(呉百福)はスチレンモノマーをブリキの中に入れて熱し、1晩放置してみると、スチレンモノマーの匂いが完全に消えていた。

このため、容器の製造工程の最後に脱臭室を作り、容器の中に熱風を吹き込むという方法でスチレンモノマーの匂いの問題を解決したのだった。

カップヌードルの発売と浅間山荘事件

日清食品の安藤百福(呉百福)は、チキンラーメンを発売した時の教訓から、類似品が出せないように特許関連の手続きを済ませ、カップヌードル専用の関東工場を建設すると、満を持して昭和46年(1971年)5月に発表会を行った。

しかし、袋入り即席ラーメンが25円で買える時代だったので、マスコミも問屋も、100円では高すぎて売れないと言い、相手にしなかった。

安藤百福(呉百福)が考えていたカップヌードルの利便性は理解されず、立ったまま食べるなど行儀が悪いと言い、批判さえ出た。

それでも、安藤百福(呉百福)は100円という価格に固執し、昭和46年(1971年)9月18日に伊勢丹で正式販売に踏み切った。

伊勢丹などの百貨店は、即席ラーメンを扱ったことが無いため、カップヌードルが100円と言われても、高いのか安いのか分からなかったようで、それなりに売れたようだ。

しかし、問屋からの注文は一切来なかったため、スーパーや小売店では販売することが出来ず、日清食品はレジャー施設などに販路を求めるのだった。

カップヌードルが全く売れずに、社内からも危ないという噂が流れ始めた頃、ようやくカップヌードルが売れた。

初めてカップヌードルを購入したのは、埼玉県朝霞の陸上自衛隊で、その後は病院など夜勤で働く人を中心に少しずつ売れていった。

さて、アメリカでは立ったままフライドチキンなどを食べる人が多いので、安藤百福(呉百福)は立ったまま食べるというスタイルが日本にも到来すると考え、昭和46年(1971年)11月に東京・銀座の歩行者天国で、カップヌードルの販売会を行った。

マスコミからは「行儀が悪い」と批判されたが、若者は立って食べるというスタイルに抵抗はなく、1日で用意していたカップヌードル2万食が完売した。

このとき、法律の関係で湯が沸かせないため、銀座三越で湯を沸かしてもらった。エレベーターが使えないため、社員はヤカンを持って階段を何往復もした。

歩行者天国での販売会の4ヶ月前に、銀座三越の1階に日本マクドナルドの1号店をオープンしており、日本にファーストフードという食文化が始まろうとしていたが、カップヌードルが理解されるまでにはもう少し時間を要した。

さて、カップヌードルは夜間で働く人を中心に売れていたことから、安藤百福(呉百福)は24時間、いつでも食べられるように、カップヌードルの自動販売機を開発して設置した。1年間で2万台を設置し、自動販売機の設置台数はコカコーラに次いで第2位となった。

そして、自動販売機でカップヌードルが売れているという噂を聞いた問屋から注文が入るようになり、ようやくスーパーなどの店頭に並ぶようになったが、100円という価格が問題だったのか、売れ行きは良くなかった。

そのようななか、昭和47年(1972年)2月に連合赤軍が人質を取って、長野県・軽井沢町の浅間山荘に立てこもるという「浅間山荘事件」が発生する。

このとき、地元の旅館が警察におにぎりを出していたのだが、2月の軽井沢は極寒なので、おにぎりが凍ってしまうというトラブルに見舞われていた。

ところが、東京から応援に来た機動隊だけが、極寒の中でモクモクと湯気がち上がるラーメンを食べていた。

日清食品は東京の機動隊にカップヌードルを提供しており、その機動隊がカップヌードルを持って浅間山荘事件の応援に駆けつけていたのである。

これを見た警察関係や報道関係者から注文が殺到した。

そして、機動隊が極寒の中でモクモクと湯気がち上がるラーメンを食べている様子がテレビで放送されると、一気にカップヌードルに注目が集まり、日清食品に注文が殺到し、カップヌードルは爆発的な売れ行きを見せるのだった。

なお、朝ドラ「まんぷく」の実在のモデルは「まんぷく-キヤストと実在のモデル一覧」をご覧ください。

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