日清食品のチキンラーメンとミッチーブーム

日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)の生涯を描く「安藤百福の立志伝」の「日清食品のチキンラーメンとミッチーブーム」です。

このページは「日清食品の安藤百福がチキンラーメンを開発する経緯」からの続きです。

チキンラーメンとミッチーブーム

安藤百福(呉百福)は昭和33年(1958年)8月25日にインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売したが、消費者には受け入れられず、全く売れなかったので、知り合いの在日台湾人・井上炎亭(許炎亭)に相談した。

ちょうど、そのころ、民間人の正田美智子と皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)の婚約が決まり、「ミッチーブーム」が起きた。2人の成婚パレードを観るために、高額なテレビが普及したという大ブームである。

そして、正田美智子の実家は日清製粉の創業家であり、正田美智子の父親は日清製粉の社長・正田英三郎だったので、連日のように実家の日清製粉もマスコミに登場していた。

そこで、井上炎亭(許炎亭)が、登場したばかりの即席麺は安全性に不安があるので、正田美智子の実家の日清製粉にあやかった名前を付ければ、消費者も安心して買うだろうと助言すると、安藤百福(呉百福)は膝を叩いて「そうだ」と言った。

こうして、安藤百福(呉百福)は、「ミッチーブーム」に便乗する形で、チキンラーメンの発売から4ヶ月後の昭和33年(1958年)12月20日に社名を「日清食品」へと変更し、大阪府大阪市東区へと移転したのである。

そして、安藤百福(呉百福)が「日清食品」という社名を前面に押し出して宣伝すると、全く売れなかった「チキンラーメン」が皇室効果で爆発的に売れ始めた。

すると、チキンラーメンに見向きもしなかった問屋が日清食品に殺到した。問屋は現金取引に応じ、代金を前払いしてもいいという問屋まで現れた。

終いに、暗い内から問屋が工場の前で待っており、工場が開くと同時に問屋がなだれ込み、チキンラーメンを奪い合うようになった。優先権を確保するために現金を置いていく問屋まで現れた。

このころ、安藤百福(呉百福)は工場をフル稼働させて1日6000食を作ったが、作っても作っても追いつかないという状態が続いたという。

三菱商事と取引を開始

昭和34年(1959年)5月、三菱商事・大阪支社の穀肥部長・佐南正司が、安藤百福(呉百福)の知人に連れられて、日清食品の川田工場へやってきた。

佐南正司はチキンラーメンを食べると、美味しかったので、このような商品を扱ってみるのもいいだろうと思い、安藤百福(呉百福)にチキンラーメンの取り扱いを約束した。

すると、安藤百福(呉百福)は三菱商事の了解を得ずに、チキンラーンの袋に「発売元・三菱商事」と印刷して販売を始めた。

これを知った三菱商事の社長・高垣勝次郎は、佐南正司に電話をかけ、「三菱の社名を商品に入れる時は、三菱グループの社長会に届けなくてはならんのだ。ラーメンなんてみっともないから、取引をやめろ」と怒った。

このため、佐南正司は安藤百福(呉百福)に「せめて三菱の社名をすり込むのはやめてくれ」と頼んだ。

しかし、安藤百福(呉百福)が、既に大量の袋を作ってあり、作った袋が無駄になると言うので、佐南正司は既に作った袋については目をつぶり、新しく作る袋から、三菱の社名を外すように頼んだで帰った。

ところが、数ヶ月たっても、チキンラーメンの袋から「発売元・三菱商事」という文言が消えない。

不思議に思った佐南正司が安藤百福(呉百福)の部下に聞いてみると、安藤百福(呉百福)は佐南正司が帰った後に「発売元・三菱商事」と印刷した袋を大量に発注したのだという。

結局、佐南正司が「ラーメンを売るだけでは無く、三菱商事が輸入している小麦の販売ルートになる」と言って三菱商事の役員会を説得し、正式に三菱商事が日清食品の特約代理店になったようだ。

後に三菱商事は、幅広い商品を扱うということを宣伝するために「ラーメンからミサイルまで」というキャッチコピーを使うのだが、このラーメンというのが「チキンラーメン」のことである。

ところで、皇室効果でチキンラーメンは爆発的に売れていたため、日清食品から三菱商事への支払いは現金手形で、三菱商事から日清食品へ支払いは現金という無茶苦茶な条件が受け入れらえれた。

この無茶苦茶な条件のおかげで、日清食品は現金を手元に置くことができ、無借金経営の基盤を築くことができたようだ。

高槻市工場の建設

チキンラーメンが爆発的に売れ始めると、日清食品の安藤百福(呉百福)は、本格的に生産体制を整えるため、大阪府高槻市にある旧国鉄の摂津富田駅付近に2万4000平方メートルという広大な土地を購入し、新工場の建設を開始した。

いきなり、2万4000平方メートルという広大な土地は必要ないという意見もあるのだが、安藤百福(呉百福)はこれまでの経験から、工場が出来ると周囲に住宅や飲食店などが出来るため、後になって工場の拡張しようとしても、困難になることを知っていたので、予め拡張を見越して広大な土地を購入したのだという。

さらに、安藤百福(呉百福)は、購入した土地に「魔法のラーメン、チキンラーメンの日清食品工場予定地」という看板を立て、通行する汽車に見えるようにして、宣言に利用した。

さて、昭和34年(1959年)12月に高槻工場が完成すると、安藤百福(呉百福)は本社を高槻工場へ移し、三菱商事・伊藤忠商事・東京食品と正式に特約代理店契約を結び、全国への販売網を築いた。

日清食品の広大な敷地を見た記者たちは「たかがラーメン屋が、あんな大きな工場を作って大丈夫か」と呆れていたが、チキンラーメンは飛ぶように売れた。

昭和35年(1960年)に槻第1工場が完成すると、日産10万食となったが、それでも需要に追いつかずに売れの店が続出した。

ミッチーブームの影響でテレビが普及しており、安藤百福(呉百福)はテレビに着目し、テレビ番組「イガグリくん」でCMを放送していたので、「チキンラーメン」はもの凄い売れ行きだった。

現金を懐に入れた問屋が高槻本社工場の前で列を成した。その列は高槻本社工場を1周して国道にまで伸びるほどで、わずか1ヶ月の売り上げで、高槻工場の土地購入代がまかなえたという。

そのようななか、森永製菓が昭和35年(1960年)に国産初のインスタントコーヒーを発売すると、本格的なインタントブームがおこり、即席ラーメンも「インスタントラーメン」と呼ばれるようになり、需要は俗化の一途をたどるのだった。

日清食品の安藤百福とチキンラーメンの商標権争い」へ続く。

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