三浦環(みうら・たまき)の立志伝

NHKの朝ドラ「エール」に登場する双浦環(柴咲コウ)のモデルとなるプリマドンナ三浦環の生涯を描く立志伝です。

三浦環の立志伝

三浦環三浦環(柴田環)は、明治17年(1884年)2月22日に東京府京橋区弓町で、日本初の公証人・柴田孟甫(柴田熊太郎)の長女として生まれた。母は柴田登波(旧姓は永田トワ)である。

父・柴田孟甫は後に「日本初の公証人」となる法律家で、裕福な家庭だったが、父・柴田孟甫は芸好きで、妾を作っており、母・柴田登波はいつも泣いていた(両親は、後に離婚する)。

三浦環は、鞆絵小学校を卒業すると、派手好きだった父・柴田孟甫の意向で、東京で一番ハイカラだった東京女学館へと進学した。

三浦環は、子供の頃から日本舞踊や長唄を習っており、声を褒められることには慣れていたが、東京女学館時代に、憧れの的だった音楽教師・杉浦チカから音楽家になることを強く勧められ、音楽家になることを決心し、東京音楽学校を目指した。

しかし、父・柴田孟甫は、音楽家を西洋の芸者だと批判し、「娘を芸者にすることなど絶対にできん」と言い、東京音楽学校への進学を反対した。

そこで、三浦環は、父・柴田孟甫が勧めていた陸軍の軍医・藤井善一との縁談を受け入れるという条件で、父・柴田孟甫に東京音楽学校への進学を認めてもらうのだった。16歳の事である。

既に藤井善一は中国配属が内定しており、時間が無かったので、父・柴田孟甫は2人の内祝言を挙げた(婚姻届けは提出していない)。

こうして、2人は明治33年(1900年)に結婚したが、藤井善一は中国へ配属され、三浦環は東京音楽学校へ進学し、離れ離れに暮らした。

ただし、三浦環の結婚は、東京音楽学校の校則違反だと考えられたので、秘匿された。

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自転車美人

三浦環は、鉄道馬車に乗ると乗り物酔いをするため、自転車で東京音楽学校へ通った。

まだ、自転車に乗る女性が少なかった時代で、東京音楽学校の女学生で自転車に乗るのは数人だった。

三浦環は晩年の肥満のイメージが強いが、若かりし頃はスレンダーで色気漂う女性だったため、自転車通学していると自転車美人として評判になった。

このため、見物人が出るようになり、三浦環に付け文をする人が現われたり、恋煩いで死ぬ人まで現われたりしたという。

東京音楽学校時代

東京音楽学校の予科に入学した三浦環は、瀧廉太郎からピアノを学び、幸田延から声楽を学んだ。

三浦環はピアノの先生だった瀧廉太郎からプロポーズされたが、既に結婚していたので断ったという。

間もなく、瀧廉太郎はドイツに留学したが、結核に感染したため、明治35年に帰国し、明治36年に大分市で死去した。

さて、三浦環は明治34年に予科を出て本科へと進み、本科生時代に頭角を現し、その美貌と美声は校内外で高い評価を得て、昭和37年に本科を卒業すると、研究科へ入った。

そして、本科を卒業すると、結婚を秘匿する必要がなくなったので、明治38年(1905年)1月1日に婚姻届を提出し、藤井善一と正式に結婚した。21歳のことだった。

さて、三浦環は研究科へ入ると、授業補助を命じられ、音楽を研究する一方で、予科の声楽を指導した(後に助教授へ昇進)。

このときの初めての生徒が、2歳下の山田耕作であった。山田耕作はガキ大将で、三浦環に悪戯をして困らせた。

三浦環は山田耕作の悪戯に遭い、自転車ごと精養軒の傍の溝の中へと落ちたこともあった。

離婚

三浦環は、夫・藤井善一が満州から帰国して東京勤務になったので、新居を構えて新婚生活に入った。

さて、三浦環は東京音楽学校の研修生として音楽の研究に励み、予科で声楽を教える傍らで、自宅でも音楽の弟子を取っていた。

最初の弟子が原信子で、2番目の弟子が関屋敏子だった。やがて、弟子の数は4~50人になり、弟子が三浦環を取り囲むようになった。

そのようななか、夫・藤井善一の仙台転勤が決まる。

夫・藤井善一は、夜遅くに帰宅しても三浦環が仕事で居ない事が多く、家に居ても音楽の弟子に取り囲まれている事を不満に思っていた。

このため、夫・藤井善一は、三浦環に仕事を辞めさせて、東京を離れて仙台で一緒に暮らし、自分だけの世話女房にしたいと思っており、義母の柴田登波が反対する場合は離婚することにした。

しかし、母・柴田登波は、音楽を止めさせたくないので、三浦環に離婚を勧め、2人で一緒に暮らしていこうと懇願した。

三浦環は母・柴田登波を見捨てて別居することは忍びなく、夫と母親の選択を迫られて苦悩するが、最終的に母・柴田登波に懇願され、母・柴田登波と暮らすことを選び、明治42年3月に夫・藤井善一と離婚した。29歳のことだった。

三浦環は有名な音楽家だったので、この離婚はマスコミからも注目され、ゴシップ記事となり、世間を騒がせた。

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再婚

三浦環の離婚を知って喜んだのが、2人目の夫となる三浦政太郎である。

三浦政太郎は東京帝国大学医学部で、内科の権威・三浦謹之助(名字は同じだが親族ではない)の助手を務めており、将来を約束された有望な若者だった。

三浦政太郎は、三浦環の遠縁に当たり、子供の頃からの知り合いで、一高に通っていたころから、三浦環を好きだった。藤井善一との結婚を知ったときは自殺を考えたほどだった。

このため、三浦政太郎は、三浦環が藤井善一と離婚すると、直ぐにプロポーズの手紙を書いた。結婚してくれなければ死ぬなどという内容だった。

三浦環は、三浦政太郎が自分の事を好きだとは知らなかったため、三浦政太郎の薄気味の悪い手紙を読み、驚いたり、申し訳なく思ったりしたので、当たり障りの無い返事を書いた。

これが切っ掛けで、三浦政太郎は三浦環の自宅へ、遊びに来るようになり、2人の交際が噂されるようになった。

やがて、交際の噂は上司・三浦謹之助の耳にも届いたので、三浦謹之助は三浦政太郎に研究に専念するように注意した。

そのようななか、元夫・藤井善一から会いたいという手紙が来た。

三浦環は、待ち合わせ場所が靖国神社だったので不審がりながらも、元夫・藤井善一への未練が残っていたので、靖国神社へ行き、藤井善一と再会して茶屋で一緒に食事した。

すると、藤井善一が再婚するという報告を受けたので、再婚を祝福した。

ところが、翌日、報知新聞が、元夫・藤井善一と会ったことを、三浦環と三浦政太郎の密会として報じ、世間を騒がせた。

その結果、三浦環は東京音楽学校を辞めなければならなくなり、三浦政太郎も東京帝国大学医学部を辞めなければならなくなった。

そこで、三浦政太郎は、以前から申し込んでいた結婚の許可を求めると、父・柴田孟甫は、三浦環は音楽が忙しいので、妻としての務めが満足に出来ないと告げた。

すると、三浦政太郎は、音楽家としての三浦環を尊敬しているので、音楽家としての生活も理解しているつもりだと言い、芸術家に対する理解を示した。

三浦環は、三浦政太郎との結婚を迷っていたのだが、三浦政太郎の自分が潔白なら世間の評判など気にしないという信念と、芸術家に対する深い理解を知り、三浦政太郎との結婚を決めたのだった。

ストーカー事件

結婚を決めた三浦環と三浦政太郎は話し合い、世間がうるさいので、ドイツで勉強することにしたが、問題は留学費用だった。

その矢先、三浦政太郎に仕事が舞い込んできた。シンガポールの三井ゴム園が経営する病院の院長になって欲しいというのだ。報酬はかなりの高額だった。

そこで、三浦政太郎は、留学費用を稼ぐため、この話を受け、三浦環と内祝言を挙げると、明治42年6月にシンガポールへ単身赴任した。

さて、東京に残った三浦環が音楽活動を再開して楽壇に復帰すると、三浦政太郎の留守を知った報知新聞の千葉秀甫がやってきた。

三浦環は、千葉秀甫を恐喝専門の悪徳記者だと思っていたのだが、外国語大学を出た立派な記者で、音楽会の仕事をもってくるようになり、やがて、三浦環のマネージャー的な存在となった。

そのようななか、渋沢栄一らが発起人となり、明治44年に帝国劇場がオープンする。帝国劇場のオープンにともない帝国劇場歌劇部が創設され、三浦環は歌劇部に招かれ、プリマドンナとして活躍した。

しかし、マネージャー的存在の千葉秀甫が次第に本性を現し、三浦環に付きまとって結婚を迫るようになった。

三浦政太郎がシンガポールに渡って既に3年が経過していた。身の危険を感じた三浦環は、三浦政太郎の帰国を待てないと思い、急病で入院したことにして、三浦政太郎の居るシンガポールへと逃れた。

すると、千葉秀甫はシンガポールまで追いかけて来たが、シンガポールの総領事・廣田弘毅は三浦政太郎の親友だったので、事情を知った総領事・廣田弘毅が千葉秀甫に三浦環はドイツへ渡った教え、追い払ってくれた。

すると、千葉秀甫は三浦環を探しにドイツへと向かったという。

その後、三浦環はシンガポールで1年を過ごし、三浦政太郎の契約終了に伴い、日本へ帰国した。

帰国した三浦環は、千葉秀甫がドイツへ行ったことを知らなかったので、東京へ戻ると、千葉秀甫に見つかると思い、三浦政太郎の実家がある静岡県掛川市で過ごし、大正2年(1913年)9月28日に結婚式を挙げた。29歳の事である。

その後、東京帝国大学の教授・長井長義の勧めで上京して、音楽活動を再開し、大正3年5月に夫婦はドイツへと向けて出国したのだった。

お蝶夫人

三浦環はドイツでリリー・レーマンに師事しようと思っていたが、リリー・レーマンが避暑に行って留守にしていたので、下宿でピアノを弾いて帰りを待っていた。

三浦夫婦がドイツに着いた当初は、日本が日露戦争で大国ロシアに勝利していたことから、日本人はドイツで歓迎されたが、間もなく第1次世界大戦が勃発して状況が一変し、ドイツで日本人は批判されるようになった。

そのようななか、領事館へ行くと、日本とドイツの戦争が始まるというので、三浦夫婦は慌ててイギリスへと渡り、夫・三浦政太郎はロンドン大学に入った。

三浦環はイギリス音楽界の重鎮ヘンリー・ウッドに師事するためにテストを受けたが、ヘンリー・ウッドから「もはや教えることはない」と認められ、大正3年11月にアルバート・ホールに出演してロンドンでデビューした。

三浦環は、ロンドンの楽壇に登場した初の日本人だったことから、「マダム・ミウラ」「ミス・ミウラ」として新聞に取り上げられ、イギリスの新聞だけでなく、ニューヨークの新聞にも掲載され、音楽会への出演依頼が殺到した。

そのようななか、三浦環は、有名なロシア人のテノール歌手ウラジミール・ロージンにオペラ「お蝶夫人(マダム・バタフライ)」の主演を依頼された。

(注釈:マダム・バタフライの邦題は「蝶々夫人」が一般的だが、三浦環は「お蝶夫人」を好んで使った。)

「お蝶夫人」は日本をテーマにしたオペラなので、ぜひ、日本人の三浦環に主演して欲しいというのだ。

三浦環は、ロンドンで音楽会には出演していたが、オペラには出演したことが無かったので、夫・三浦政太郎らに相談すると、またとないチャンスなのでやるべきだと勧められ、大正4年5月に「お蝶夫人」で初主演を務めた。

すると、日本をテーマとした「お蝶夫人」に、日本人が初めて主演をするということで、大きな話題となり、三浦環は31歳で、「お蝶夫人」の初主演を見事に大成功させた。

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世界的なプリマドンナに

「お蝶夫人」の評判はアメリカでも報じられ、ニューヨークのメトロポリタンのマネージャー、マックス・ラピノフから渡米の要請が来た。

夫・三浦政太郎は、ロンドン大学に在学中だったが、ロンドンは毎晩、空襲を受けるようになっており、勉強どころではなくなっていたので、渡米に賛成し、三浦夫婦はアメリカへと渡った。

そして、大正4年10月、三浦環はシカゴのオーディトリアム劇場で、オペラ「お蝶夫人」で主演してアメリカデビューを果たし、その後、ニューヨーク・ボストン・メキシコなど各地で公演した。

大正9年、夫・三浦政太郎とともにイタリアへ渡り、イタリアやフランスなどで公演を行った。

そして、ローマのテアール・コスタン劇場で「お蝶夫人」を上演したとき、「お蝶夫人」の作曲者プッチーニに自宅へ招待され、私が今まで観た「お蝶夫人」の中で最も理想的な蝶々さんだと褒められた。

その後、夫・三浦政太郎は大正10年に帰国。三浦環は南米巡業を経て大正11年4月に、愛人とされる伴奏者アルド・フランケッティと共に帰国した。8年ぶりの日本だった。

日本は歌舞伎役者を川原乞食扱いしていたので、自分の活躍が日本で理解されるのか不安だったが、横浜港に着くと、横浜の市長が歓迎リセプションを開いてくれ、盛大に歓迎してくれたので、嬉しくなって涙を流した。

再渡米

帰国した三浦環は、「お蝶夫人」を公演したかったが、日本の楽壇はグランドオペラを公演するほど発達していなかったため、独演会を開き、絶賛された。

そのようななか、三浦環はホノルル公演が決まるが、周囲から再渡米を反対される。伴奏者アルド・フランケッティとの関係が不倫関係として問題になったのである。

再渡米問題は親族会議にまで発展し、夫・三浦政太郎は勝手に小切手を送り返し、契約を断るという暴挙に出た。

そこで、後援会の渋沢栄一らが話し合うと、鳩山春子が「妻としての務めを果たすべき」として再渡米に反対したが、他のメンバーは再渡米に賛成した。

そこで、渋沢栄一らが説得に当たり、夫・三浦政太郎も再渡米に納得し、三浦環はホノルルで疑惑の伴奏者アルド・フランケッティとの契約を打ち切るという条件で再渡米が認められた。

こうして、三浦環は、ビタミンの研究をしている夫・三浦政太郎が研究を完成させて博士になったら戻ってくると約束し、大正11年8月にホノルルに向けて出国した。

そして、ホノルル公演を終えると、伴奏者アルド・フランケッティとの契約を打ち切り、アメリカやヨーロッパを巡業したのだった。

夫の死と帰国

大正13年5月、夫・三浦政太郎は、新制緑茶には大量のビタミンCが含まれており、保存状態が良ければ、2~3年保存できる事を発見した。

しかし、三浦環は、約束通り帰国せず、公演を続け、大正14年から、伴奏者アルド・フランケッティが「お蝶夫人」の代わる作品として作った新作オペラ「浪子さん」を上演するようになる。

愛人とされる伴奏者アルド・フランケッティとの熱愛に夢中なのか、三浦環は父親の危篤の知らせにも返事をせず、夫・三浦政太郎との離婚を望んだという。

ところが、昭和4年10月にアルド・フランケッティが、三浦環の弟子エセル・ベアードと結婚したため、三浦環は失意に陥って帰国することにした。

しかし、翌月、夫・三浦政太郎が死んだという電報を受け取ったため、帰国する意味が無くなり、プリマドンナとして世界中の人を喜ばせることが夫・三浦政太郎の供養になると考え、帰国を止めた。

オペラ「浪子さん」はアメリカで評判だったが、三浦環は以降、「浪子さん」を上演することはなく、レパートリーを「お蝶夫人」に戻し、アメリカ巡業を続けた。

昭和5年、三浦環はイタリアへと渡る。イタリアの生水を飲んではいけないと注意されていたのだが、イタリアの水を飲んで腸チフスに感染し、2ヶ月間の療養を余儀なくされる。海外生活で初めての病気だった。

その後、イタリア各地を巡業して昭和7年5月に帰国し、夫・三浦政太郎の墓参りをして、墓に抱きついて話しかけて歌うと、マスコミは宣伝屋だと批判した。

その後、三浦環は各地で独奏会を開くと、同年11月に再びイタリアへと戻り、イタリア各地を巡業した。

そして、イタリアのパレルモで「お蝶夫人」の2000回出演を達成したことを機に、母親に親孝行をするために永住帰国を決断し、昭和10年(1935年)10月に帰国した。

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帰国後

51歳にして、ようやく帰国した三浦環は、帰国後も音楽活動を展開。オペラ歌手は流行歌に対応できない人が多かったが、三浦環は流行歌にも感心を示し、昭和14年には古関裕而のヒット曲「船頭可愛や」を気に入り、レコードに吹き込んだ。

古関裕而は、妻の古関金子が三浦環の大ファンだったので、小躍りして喜び、お礼に「月のバルカローラ」を作曲して献呈すると、「月のバルカローラ」もレコードに吹き込んでくれた。

その後も、三浦環は音楽会や慰問団に参加していたが、昭和19年3月に山梨県山中湖に疎開した。そして、疎開先で母・柴田登波を看病していたが、母・柴田登波は昭和20年4月19日に死去した。

その後、昭和20年7月13日から5日にわたり、日比谷公会堂で開催された「音楽五十年史」に出演して、8月3日に疎開先の山中湖に戻り、山中湖で終戦を迎え、戦後、東京の旭ヶ丘へと引っ越した。

戦後と晩年

戦後、音楽会の復興は早く、日本芸能社が昭和20年9月6日に日比谷公会堂で、戦後初となるコンサート「明朗音楽大会」を開催した。

三浦環も昭和20年12月1日と12月7日に、日比谷公会堂でシューベルトの「冬の旅」全24曲の独奏会を計4回開いた。

巨漢だった三浦環は、1年間の疎開生活と看病のおかげで、痩せ細っていっため、京極高鋭にから熱海へ行って美味しい物を食べれば太るだろうと勧められ、熱海へ行ったが、全く太らないうえ、1日に300円かかるので途中で帰宅した。

そして、昭和21年1月にアメリカ進駐軍を慰問したが、体の方は衰弱が激しく、3月に大東学園病院に入院した。

三浦環は、1人で歩けなくなっており、医者からドクターストップをかけられたが、独唱会を開催すると世間に約束した以上、約束は果たさなければならないと言い、病気を押して、昭和21年3月21日に日比谷公会堂で独唱会を開催し、「美しき水車小屋の乙女」を独唱した。

さらに、JOAK(NHK東京)の依頼で、4月5日には「冬の旅」を録音し、4月9日には「お蝶夫人」を録音したが、フォルテを出そうとすると、トイレに行きたくなって上手く歌えなかったため、「こんな下手くそな『お蝶夫人』が最後の録音になるのか」と言い、録音が終わると泣き崩れた。

そして、三浦環は、4月11日に放送された「お蝶夫人」を聴いて、「あたしの声には死相がある」と言って悲観したという。

さらに、4月16日に、「庭の千草」「ケンタッキー・ホーム」「ホーム・スイート・ホーム」などの小品を録音した。これが生涯で最後の録音となった。

さて、三浦環は、4月25日に東京帝国大学付属医院泌尿器科へ転院し、4月末に従軍牧師チャップマンから洗礼を受けた。

5月22日に公正証書遺言を作成し、5月23日に危篤状態となるが、5月24日には昏睡状態のままドビュッシィの「バルコン」をフランス語で歌った。

しかし、三浦環は昭和21年(1946年)5月25日に腹部腫瘍並膀胱腸瘻で死去した。62歳だった。

死後、本人の希望により解剖された。解剖に立ち会った耳鼻咽喉科の教授によると、三浦環の生体は「光沢といい色彩、形態とともに実によく整っていて充分発達した若い人の咽頭像そのもの」だったという。

また、三浦環は遺言で、マネージャー井上元佶を養子にして財産を相続させており、三浦家親族と遺産相続争いが起きた。

備考

  1. 滝廉太郎・早川雪洲・野口英世と不倫関係にあったという説がある。
  2. マネージャーの千葉秀甫や養子・井上元佶も愛人だったという説がある。
  3. 太ったのはアメリカ時代の食事が原因だった。

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