日清食品の安藤百福がチキンラーメンを開発する経緯

日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)の生涯を描く「安藤百福(呉百福)の立志伝」の「安藤百福(呉百福)がチキンラーメンを開発する経緯」です。

このページは「日清食品の安藤百福(呉百福)と信用組合「大阪華銀」の倒産」からの続きです。

前置き

安藤百福(呉百福)がチキンラーメンを開発する経緯については、安藤百福(呉百福)の伝記を元にした通説と、在日台湾人の証言を元にした別説がある。

別説については「日清食品の社名の由来と日清製粉の関係」で紹介しているため、ここでは通説をベースにして紹介する。

チキンラーメンの開発

信用組合「大阪華銀」の理事長を務めていた安藤百福(呉百福)は、大豆相場の投資に失敗して信用組合「大阪華銀」が倒産させ、全財産を失ってしまったが、事業意欲は衰えていなかった。

日本は高度成長期にへ突入しており、経済白書が「もはや戦後では無い」と結んだ昭和32年(1957年)、安藤百福(呉百福)は知り合いの大工に頼んで、大阪府池田市呉服町にある借家の庭に小屋を建て、チキンラーメンの開発を始めたたのである。47歳にしてゼロからの再出発だった。

元々、安藤百福(呉百福)がインスタントラーメンを開発しようと考えたのは、安藤百福(呉百福)が脱税で逮捕される前に、大阪で国民栄養化学研究所を経営していた時だった。

安藤百福(呉百福)は、牛や豚の骨からエキスを抽出した栄養食品「ビセイクル」を開発して病院にも供給していた関係で、厚生省や農林省に出入りしており、「粉食推奨」について相談を受けていた。

終戦によってアメリカで過剰在庫となっていた小麦が、食糧不足にあえぐ戦後の日本に持ち込まれた関係で、厚生省は学校給食に粉食を推奨していたのだが、推奨するのはパンやビスケットだった。

安藤百福(呉百福)は、戦後、寒い中でもラーメンの屋台に長蛇の列が出来ているのを見たことが深く印象に残っていたので、「パン食はおかずが要るし、生活が洋風化してしまう。東洋には昔から麺の伝統がある。日本人が好む麺類をなぜ、粉食奨励に加えないのですか」と意見した。

すると、厚生省の栄養課長・有本邦太郎は、ラーメやうどんは零細企業の仕事で、量産する技術もなく、流通ルートも無いことを指摘し、「それほど言うなら安藤さん、貴方が研究したらどうですか」と言った。

そこで、安藤百福(呉百福)は国民栄養化学研究所に戻ると、ラーメンの研究を提案したのだが、研究員はラーメンのような小さな研究ではなく、大きな研究をしたいと言って相手にしなかった。

安藤百福(呉百福)は様々な事業を手がけており、他の事業が忙しかったので、ラーメンの研究には着手できず、そのままになっていた。

そこで、信用組合「大阪華銀」が倒産して全財産を失った安藤百福(呉百福)は、妻・安藤仁子次男・安藤宏基に「お父さんはラーメン屋になる」と宣言して、インスタントラーメンの開発に取りかかった。

妻・安藤仁子と次男・安藤宏基は、安藤百福(呉百福)が「お父さんはラーメン屋になる」と言い出したので、ラーメンの屋台でも始めるのかと思っていたという。

このころ、ラーメンの屋台は失業者がする仕事で、進んでやるような仕事するでは無かった。

さて、安藤百福(呉百福)は知り合いの大工に頼んで、池田市呉服町の借家の庭に小屋を建てると、中古の製麺機や中華鍋を買ってきて、「おいしい」「保存性」「便利」「安価」「安全」の5項目を掲げ、即席麺「キンラーメン」の開発に取りかかった。

安藤百福(呉百福)は、子供の頃から料理をしていたので、料理の知識はあったが、麺類の知識は無かったらしく、試行錯誤の末、麺を完成させ、小麦粉の配合を決めると、うどん屋に頼んで麺を打ってもらった。

そして、チキンラーメンがチキン味に決まったのは、次男・安藤宏基が理由だった。

安藤百福(呉百福)は、庭で飼っている鶏をさばいて食卓にあげており、いつものように鶏をさばこうとしたところ、鶏が急に暴れ出し、血まみれになってしまった。

その血が次男・安藤宏基にかかってしまい、相当なショックを受けたらしく、以降、次男・安藤宏基は鶏肉はもちろん、好物のチキンライスすら食べなくなってしまった。

ところが、妻・安藤仁子の母・安藤須磨が鶏ガラでとったスープを作ったところ、次男・安藤宏基が喜んで食べたので、安藤百福(呉百福)はチキンラーンの味を「チキン味」に決めた。

そして、安藤百福(呉百福)がラーメンを作るときにチキンスープを「チキン」と呼んでいたことから、商品名は自然の成り行きで「チキンラーメン」と決まった。

ただし、安藤百福(呉百福)は栄養面を考えて麺に卵を練り込みたかったのだが、卵を練り込むと麺がボロボロになって、どうしてもうまく上手くいかなかったので、せめて名前だけでもと思い、商品名に「チキン」を入れたとも語っている。

さて、安藤百福(呉百福)は、お湯を入れるだけでラーメンが食べられるように、麺に味をつけるため、麺にスープを練り込もうとしたが、麺がボロボロになって上手くいかなかった。

そこで、安藤百福(呉百福)は試行錯誤の末、ジョウロでスープを麺にかけてから乾燥させるという方法を発見しして、麺に味をつけることに成功した。

また、麺を乾燥させるのにも苦労をしたのだが、妻の安藤仁子が台所で天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げて水分を飛ばす方法を発見し、これを「瞬間油熱乾燥法」と名付けた。

(ただし、安藤百福(呉百福)は、天ぷら屋で天ぷらを食べているときに、麺を油で揚げることを思いついたとも語っている。)

しかし、麺を油に入れただけでは、バラバラになって浮かび上がってくるので、金網と針金を買ってきて、四角い箱を作り、その中に麺を入れて油に沈めて、成形することにより、均一に揚げることに成功した。

こうして、インスタントラーメン「チキンラーメン」が完成したのである。

注釈:インスタントラーメンで丸型を初めて採用したのは明星食品で、発売当初のチキンラーメンは四角だった。真ん中に線が入っていたようで、割って丼に入れていたようだ。「2人前だった」と書いている資料もある。

また、安藤百福(呉百福)が「チキンラーメン」を発売するよりも前にインスタントラーメンは発売されていたので、安藤百福(呉百福)がインスタントラーメンを発明したのではない。

チキンラーメンの製造開始

日本初のインスタントラーメンは、大阪の在日台湾人・張国文が作った「長寿麺」だとされる。昭和31年(1956年)出発の第1次南極観測隊が南極へ、インスタントラーメン「長寿麺」を持参している。

そして、昭和32年(1957年)に松田産業(おやつカンパニー)が「味付中華麺」を発売しており、昭和33年(1958年)の春に大和通商の陳栄泰が東京の百貨店で「鶏糸麺」を発売し、同じく昭和33年春に大和通商の陳栄泰が大阪で「長寿麺」を発売してる。

安藤百福(呉百福)も一足遅れて昭和33年の春に「チキンラーメン」を完成させ、試作品を作る段階に入った。もはや安藤家だけでは間に合わず、親戚も応援に駆けつけた。

妻の安藤仁子や義母・安藤スマもチキンスープ作りを手伝い、次男・安藤宏基が袋にしれ、長女・安藤明美がシーラを踏んで袋を閉じた。家族総出でも1日に400食を作るのが精一杯だった。

あちこちの知人にチキンラーメンのサンプルを送ると好評だった。貿易会社の知人に頼んで、アメリカにサンプルを送ると、発売前なのに500ケースの注文が来たため、安藤百福(呉百福)は、家族総出で1ヶ月半をかけて、輸出用の500ケースを作ったという。

さらに、安藤百福(呉百福)は昭和33年6月に、正式発売の前哨戦として、大阪・梅田の阪急百貨店でチキンラーメンの試食販売をした。

「湯をかけると2分でラーメンが出来る」と説明しても信じてもらえなかったのだが、実演してみると、見ていた人たちは驚き、試食販売の500食は瞬く間に完売し、好評を得たという。

そこで、安藤百福(呉百福)は既に資金が底をつこうとしていたが、試食販売の手応えから「これは売れる」と確信し、大阪市東淀川区田川通り二丁目の古い倉庫を借りて、川田工場とし、チキンラーメンの大量生産のテストを開始した。

社員は、安藤百福(呉百福)・砥上峰次・有元一馬・有元那茅満の他に新聞広告で募集した社員20人ほどで、長男・安藤宏寿も社員として加わっている。

さて、チキンラーメンは試食販売会で好評をえたものの、問屋に持ち込んでみると、問屋の反応は冷たかった。

チキンラーメンよりも前にいくつかのインスタントラーメンが発売されていたが、いずれも商業的には成功しておらず、即席麺は世間に認知されていなかった。

このため、問屋は、チキンラーメンを以前からある乾麺と同じようなものだと考えたうえ、味の前に値段を問題視した。うどん玉が6円で、乾麺でも25円で買えるので、1袋35円(現在の500円程度)もするチキンラーメンは高くて売れないというのだ。

さらに、安藤百福(呉百福)は、チキンラーメンは今までにない商品なので、新しい流通と新しいシステムで売りたいと考えており、当時は手形取引が慣習となっていた時代に、問屋に現金取引を求めたので、問屋は開いた口が塞がらない。

ただ1人、大阪の食品問屋「中谷商店」の中谷儀三郎は、他の問屋とは違い、チキンラーメンの将来性を見抜いて評価したが、チキンラーメンを認めた中谷儀三郎ですら、現金取引には呆れた。

安藤百福(呉百福)は「米は掛け売りをしないでしょう。即席めんも同じ主食的な商品だから、手形ではなく現金で」と頼んだが、相手にしてもらえなかったので、「とにかく置くだけ置いてください。代金は売れた時で結構です」と言い、チキンラーメンを置いてきた。

こうして、昭和33年(1958年)8月25日に大阪府大阪市福島区の大阪市中央卸売市場にチキンラーメンが並び、正式に販売を開始した。日清食品では8月25日が「ラーメン記念日」となっている。

日清食品のチキンラーメンとミッチーブーム」へ続く。

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