東洋水産の創業者・森和夫の立志伝

インスタントラーメンの「マルちゃん」でお馴染みの東洋水産の創業者・森和夫(もりかずお)の立志伝です。

森和夫の立志伝

森和夫の画像森和夫は、大正5年(1916年)4月16日に静岡県賀茂郡田子村で、カツオ漁船数隻を持つ網元・森和平(高木和平)の三男として生まれた。母は「森やす」である。森和夫は9人兄弟の末っ子で、姉が6人、兄が2人居た。

森和夫は大正5年4月16日に生まれたのだが、父・森和平が「早生まれは得をする」と言い、4月1日生まれで出生届を出したため、戸籍上の誕生日は大正5年4月1日である。

そして、森和夫が生まれた日はカツオが大漁で、森家の投資船が大漁旗を揚げて帰ってきたことから、大漁の「カツオ」にあやかり、「和夫(かずお)」と名付けられた。

父・森和平は、明治3年4月1日に安良里村で鰹節を製造する高木文吉の次男として生まれ、田子村で鰹節を手がけていた森家に婿養子に入り、大正8年(1919年)12月に田子製氷株式会社を設立し、冷蔵製氷業に進出した。

父・森和平は優れた経営者だったが、森和夫が12歳の時に脳溢血で死んだため、森和夫は父・森和平から経営については学んでいない。

父・森和平の兄・高木粂太郎は衆議院議員として水産業の振興に尽力しているので、実家の森家は地元の名士だったようである。

一方、母「森やす」は森和夫が4歳の時に死んだので、森和夫は母親のことを覚えていないが、村の長老などによると、母「森やす」は乞食が尋ねてきても、親切に対応するような優しい人物だったという。

さて、森和夫は、4歳の時に母「森やす」を亡くし、12歳の時に父・森和平を亡くしたため、長兄・森重衛が森家を相続した。

森和夫は、両親の死後は20歳上の2番目の姉・森ちか夫婦に引き取られた。森ちか・森林八夫婦は実子が居なかったので、森和夫を我が子のように可愛がったという。

森和夫は、音痴で歌唱の成績が悪く、田子小学校では苦労したが、豆陽中学(下田北高校)に入ると、歌唱が無くなったので安堵していた。しかし、苦手な図画と習字は中学3年生の時まであり、図画と習字に苦しめられた。

森和夫は数学が得意で、英語や国語は自信が無かったが、成績はそれなりに良く、豆陽中学(下田北高校)4年生の時に旧制水戸高校をリハーサルで受験するが不合格だった。

森和夫が生涯で落第を経験したのは、旧制水戸高校の受験と運転免許の試験だけだという。

豆陽中学(下田北高校)を卒業後は、旧制富山高校への進学を希望していたが、兄の勧めもあり、農林省水産講習所(東京水産大学)を受験した。

水産講習所(東京水産大学)は難関で、落ちたら早稲田大学へでも行こうと考えていたが、見事に合格し、水産講習所(東京水産大学)へと進学した。

農林省水産講習所(東京水産大学)はクラブ活動が盛んな学校で、何か1つはやっていないとストーム(自己紹介)の時に殴られる心配があったため、剣道部に入った。1年上の先輩に鈴木善弘(衆議院議員)が居り、ともに剣道部として汗を流した。

ノモンハンの生き残り

森和夫は、昭和12年(1937年)3月に農林省水産講習所を卒業して、鮎川義介が社長を務める鮎川財閥(日産財閥)の日本食糧工業に就職し、同年6月に分離された日本油脂に配属された。

しかし、翌年の昭和13年(1938年)1月に徴兵されて豊橋の歩兵第18連隊に入り、直ぐに満州へと渡って満州独立守備隊6大隊の第4中隊に入隊した。

第4中隊のナンバー2(中隊付中尉)が中尉・松本勲で、中尉・松本勲が水産講習所(東京水産大学)の32回先輩だったことが、森和夫にとっては幸運だった。

中尉・松本勲は下士官から尊敬されていたため、森和夫は中尉・松本勲の後輩ということで、私的制裁を受けることもなく、幹部候補生にもなれ、昭和13年7月に乙種幹部候補生として中国・旅順の陸軍予備士官学校に入ることが出来た。

そして、森和夫は陸軍予備士官学校で良い友人に恵まれ、指揮官になる訓練で人前で話せるようになったという。

また、「部下を信頼せよ、と同時に部下に信頼される行動をとることだ」「命令は必ず守る」「指揮官は事前に周到に準備すべきだ。これを怠れば多数の部下の命を失うことにもなりかねない」という教訓をたたき込まれ、陸軍予備士官学校で経営者として必要なことの多くを学んだ。

さて、森和夫は昭和14年(1939年)8月に陸軍予備士官学校を卒業して原隊へ戻るが、負傷入院した少尉・富田真之(水産講習所の1年先輩)の補充として、前線の歩兵第71連隊に転属になり、機関銃小隊長としてノモンハンの激戦を戦った。

ノモンハンは混乱を来しており、森和夫は後に五味川純平の小説「ノモンハン」でノモンハン事件の全体の戦況を知るという有様だった。

ノモンハンは激戦区で、日本軍はノモンハンで壊滅的な被害を受けたが、森和夫は無事に生還した。ノモンハンの生還者はわずか4%だったという。

なお、住友生命の会長・新井正明や前川製作所の専務・榊原重男などもノモンハンの生き残りである。

ロシア娘に恋して

ノモンハンから撤退した森和夫は、ハイラルに戻った後、ナラムトというロシア人集落で国境警備に就いた。

森和夫は、雑貨店のロシア娘リーザに恋をして、集落へ出かける度に雑貨店で何かを買った。

しまいに、ロシア娘リーザの関心を引こうと思い、店で一番高いマンドリンを購入したが、自分には音楽の才能が無いので、直ぐに下士官にやった。

その一方で、森和夫はナラムトで乗馬に興味を持つようになるが、機関銃小隊長では馬が与えられないので、馬が与えられる大隊砲小隊長への転属を志願して、大隊砲小隊長となり、乗馬を実現した。

森和夫はナラムトで3年間、国境警備をしていたが、昭和17年(1942年)5月に召集解除となり、昭和17年6月に内地に帰国する。

相川フサとの結婚

帰国して早々、森和夫は長兄・森重衛の勧める縁談を一度は了承したが、不本意な結婚をしては相手にも失礼だと思い直し、縁談を断り、長兄・森重衛を激怒させ、森家と絶縁状態になる。

その後、義兄・藤井宰弼の紹介により、元陸軍大佐の娘・相川フサと見合いして一目惚れし、昭和19年(1944年)5月に妻・相川フサと結婚するが、結婚の1ヵ月後に再び徴兵され、静岡歩兵34連隊に入隊する。

そして、森和夫は第4中隊長として中国でゲリラ掃討作戦に従事したが、作戦中に日本の敗戦を知り、半年間の捕虜生活を経て、昭和21年(1946年)3月に帰国した。

泰洋水産の売却

帰国した森和夫は就職していた日本油脂に復帰するが、財閥解体の影響で、日本油脂から分離独立した塩釜の泰洋水産に配属された。

森和夫は3年目に取締役へと出世していたが、泰洋水産は経営陣に問題があり、経営に行き詰まっていた。森和夫は会社の売却を意見したが、経営陣が動かないので、取締役という身で会社の経営に奔走した。

やがて、森和夫がオーナーに「オーナーは会社の個人保障しているので、貴方の財産も駄目になる」と直訴すると、ようやく意見が受け入れられ、会社の売却先を探すことを命じられた。

森和夫は粉飾決算をして、工場の煙突から煙をださせ、工場が忙しく稼働しているように装い、宮城県の漁業で1番の実力者だった千葉という人物に泰洋水産を売却することに成功した。

そこで、辞表を提出しようとしたが、千葉が「俺が社長で、お前は専務だ」と言うので、1ヶ月だけ我慢しようと思い、辞表の提出を諦めた。

こうして森和夫は泰洋水産に残り、社員の退職手当を済ませると、1ヶ月後に辞表を提出したが、千葉が激怒したので、6ヶ月間の給料も退職金も貰えず、追われるようにして塩釜を後にした。

東洋水産の創業

泰洋水産を辞めた後、3ヶ月間、自分の将来を見据えて計画を立てていると、水産講習所時代の同期・松野三郎から、横須賀冷蔵庫株式会社が売りに出ているので一緒に経営しようと持ちかけられる。

そして、森和夫が30万円(親代わりの姉・森ちかに出して貰った)、松野三郎が10万円を出して横須賀冷蔵庫株式会社を購入し、松野三郎が代表取締役専務、森和夫が代表取締役常務に就任して、冷凍マグロの輸出を手がけた。

その後、東京支店を担当していた森和夫は、100万円の赤字を出してしまったため、本社に迷惑をかけられないと言い、松野三郎に相談し、松野三郎の応援を得て円満に独立することに成功する。

こうして、森和夫は、東京支店の負債を継承し、横須賀冷蔵庫から円満に独立する形で、昭和28年(1953年)3月に横須賀水産株式会社(後の東洋水産)を設立して、社長に就任した。

そのようななか、昭和29年(1954年)にアメリカがビキニ環礁で核実験を行ったとき、遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が放射能物質を浴びて乗組員が被爆するという事件が起きた。

この影響で、太平洋で取れたマグロは放射能の検査を受け、汚染度の高いマグロは処分されたのだが、消費者がマグロを避け、検査をパスした安全なマグロまで売れなくなってしまったので、マグロの価格が暴落した。

しかし、森和夫は、これをチャンスと考え、暴落したマグロを買い占め、手当たり次第に空いている冷凍庫を借りて、大量のマグロを保存した。

日本産のマグロの缶詰はアメリカでも売れなかったが、東洋水産の冷凍マグロはアメリカへ輸出され、アメリカで缶詰に加工され、アメリカ産の缶詰として販売されたため、第五福竜丸事件の影響を受けなかった。

このため、横須賀水産は冷凍マグロの輸出を大きく伸ばし、業界3位に台頭したのだった。

冷凍マグロからの撤退

横須賀水産は業界3位に躍進していたが、冷凍マグロの輸出は利益率が少なかった。実は、アメリカの仲買人から「おたくの冷凍マグロは不良品だから損害賠償しろ」と言うマーケットクレームが頻繁に入っていたのである。

そこで、昭和30年(1955年)、森和夫は英語など分からないが、アメリカへ視察に行った。まだ、簡単に海外旅行が出来る時代ではなく、零細企業でアメリカ視察をしたのは森和夫が初めてだったという。

森和夫はアメリカで、仲買人が加工前の冷凍マグロを日向に置いているのを目撃し、アメリカの仲買人のミスや不手際まで横須賀水産のせいにされ、マーケットクレームを受けていたことが判明する。

横須賀水産は冷凍マグロの輸出を主力業務としており、今後も冷凍マグロの輸出量は伸びるみこみだったが、森和夫はその場で冷凍マグロからの撤退を決断したのだった。

その後、横須賀水産(東洋水産)は小知和冷蔵から冷凍庫を譲り受ける。これまでは賃貸の冷凍庫だったが、ようやく自前の冷凍庫を持つことができた。

東洋水産の誕生

森和夫は冷凍マグロの輸出から撤退を決断したが、横須賀水産(東洋水産)は冷凍マグロの輸出が本業なので、そう簡単には止められない。

そこで、森和夫はマグロを缶詰にして輸出することにして、川崎市の冷凍庫の傍らにある古い建物に目を付け、川崎市と交渉して、この建物を借り受け、従業員で修復して缶詰工場とした。

しかし、資金的な問題があった。横須賀水産(東洋水産)は仕事自体は順調だったが、資金繰りは厳しく、自転車操業を続けていたのである。

そこで、森和夫は取引先の大手商社「第一通商(三井物産)」に融資を依頼し、第一通商(三井物産)から3000万円の融資を得て、缶詰や魚肉ハムとソーセージの生産を開始した。

こうして、横須賀水産は、冷凍マグロの輸出業から食品加工へと発展したのを機に、昭和31年(1956年)7月に「横須賀水産」から「東洋水産」へと社名を変更したのだった。

マルちゃんを作った東洋水産の森和夫の立志伝」へ続く。

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