モトヤ靴店の店主・元田蓮の立志伝

坂野惇子が創業した皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の初代社長を務めたモトヤ靴店の店主・元田蓮の立志伝です。

元田蓮の概要

元田蓮は、神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」の店主で、ファミリア設立の切っ掛けを作り、ファミリアの初代社長を務めたほか、社長を辞任した後もファミリアの取締役や監査役を務めた。

元田蓮の生涯

「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、神戸の履き倒れ」というように、神戸は昔から靴が有名で、神戸の靴は「神戸靴」「神戸シューズ」と呼ばれて人気がある。

なかでも、神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、良い靴を作るということで有名だった。

坂野惇子(佐々木惇子)の父・佐々木八十八は西洋好きだったので、靴屋「モトヤ靴店」に靴を発注しており、靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は佐々木家に出入りしていた。

当時は職人が下に見られていた時代だったが、佐々木八十八は人格者だったので、出入りの職人や使用人にも、家族のように接しており、店主・元田蓮が佐々木家に靴を届けに行くと、いつも、お茶とお菓子でもてなしてくれたので、店主・元田蓮は常々、佐々木家に感謝していた。

このため、坂野惇子(佐々木惇子)が昭和15年(1940年)5月に坂野通夫と結婚したときも、店主・元田蓮は坂野惇子(佐々木惇子)の嫁入り道具として、ハイヒールを作り、特別な舶来の箱に入れ、佐々木家に納めていた。

店主・元田蓮がファミリア創業の切っ掛け

神戸大空襲で自宅を焼失した坂野惇子(佐々木惇子)は、戦後、苦しい生活を送っており、身の回りの物を売って食料を買う「売り食い」生活を続けていた。

その坂野惇子(佐々木惇子)が、昭和23年(1948年)春、ハイヒールを売るため、三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」を訪れた。

店主・元田蓮は、久しぶりに見た坂野惇子(佐々木惇子)に顔を緩めたが、坂野惇子(佐々木惇子)からハイヒールを売って欲しいと言われて顔色を変えた。

そのハイヒールは、店主・元田蓮が坂野惇子(佐々木惇子)の嫁入り道具にと作ったハイヒールだったのである。

ハイヒールを見た店主・元田蓮は、「お嬢様のために作った靴です。お困りでしょうが、これを売るのだけはやめていただけませんか」と懇願した。

困った坂野惇子(佐々木惇子)が話題を変えるために、「大きくなったでしょ」と言い、娘・坂野光(てるこ)の写真を見せた。

このとき、娘・坂野光の写真は、綿スエードの布地に花柄の刺繍が入った写真入れに入っていた。

写真入れに目を留めた店主・元田蓮は、「これはどこで、お買いになったのですか?」と尋ねると、坂野惇子は「お手製よ。ほら、これも」と言って、自作したカバンも店主・元田蓮に見せた。

すると、これに感心した店主・元田蓮は、「こんな手仕事の物を作って、お売りになったらいかがですか。うちの陳列ケースを提供しますよ」と提案した。

思いも寄らない提案に喜んだ坂野惇子が親友の田村枝津子(田村江つ子)に相談すると、田村枝津子(田村江つ子)は義姉(夫の姉)・田村光子に相談することを提案した。

こうして3人は手芸店を開くことで話がまとまると、それぞれの夫にも相談した。

すると、坂野惇子の夫・坂野通夫も、田村枝津子(田村江つ子)の夫・田村寛次郎も、田村光子の夫・田村陽(飯田陽)も、妻が仕事を持つことに賛成した。

坂野惇子は当初、手芸店を開く予定だったが、父・佐々木八十八や夫・坂野通夫の助言により、長女・坂野光子を出産したときに学んだ西洋式の育児法を生かしたベビーショップを開店することになった。

坂野惇子に商売の基本を教える

坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人は、昭和23年(1948年)12月4日に靴店「モトヤ靴店」の店内で、ショーケース2つを借りて「ベビーショップ・モトヤ」をオープンした。

闇市で粗悪品が横行していた時代に、坂野惇子らは戦前から貯めていた外国製の上質な糸や生地を使っていたうえ、手間暇を掛けて子供服を作っていたので、ベビーショップ・モトヤはオープン初日から大勢の人が詰めかけ、商品は飛ぶように売れていった。

しかし、販売責任者の坂野惇子はお嬢様育ちだったので、原価より高い値段を付けることに罪悪感を覚えてしまい、高い値段が付けられなかったので、ほとんど利益が出ていなかった。

坂野惇子らにショーケースを貸している元田蓮は、売り上げの歩合によって家賃をもらうことになっていたので、こうした実情を知って驚き、坂野惇子に商売の基本をかみ砕いて教えると、坂野惇子は商売の難しさを改めて知ったのであった。

店主・元田蓮の生涯-悪意無き占領

店主・元田蓮は、ベビーショップ・モトヤの影響で、上品な女性客が来るようになったため、上品な女性客にも靴を買ってもらおうと思い、奥の作業場を応接室に改装した。

ところが、これに喜んだのが、坂野惇子らであった。坂野惇子らは、良い部屋が出来たと思い、食事や着替えや作業場として応接室を占領していまったのである。

流石に困った店主・元田蓮は、同じ商店街に空き店舗を見つけてきて、坂野惇子に移るように提案したが、坂野惇子は「動くのは嫌。絶対に嫌」と言って聞かない。

店主・元田蓮は困ったが、無理強いは出来ず、移転の話は立ち消えとなった。

それからしばらくすると、靴屋「モトヤ靴店」の西側に隣接する万年筆店が移転し、空き店舗となった。

この万年筆店は、モトヤ靴店の店主・元田蓮が所有する物件で、モトヤ靴店と壁で仕切られていたが、裏口はモトヤ靴店と共有だった。

そこで、店主・元田蓮は、裏口は同じということで、なんとか坂野惇子を説得して、万年筆店跡へと移ってもらった。

こうして、ベビーショップ・モトヤは開業から1年後の昭和24年(1949年)12月に、小さい店舗ながら、万年筆店跡で独立することになったのであった。

その直後、モトヤ靴店の南側に隣接するレナウン・サービス・ステーションの撤退が伝わってきた。

店主・元田蓮の生涯-ファミリア設立へ

店主・元田蓮は、モトヤ靴店の南側に隣接する土地に木造の簡易店舗を建て、運動具店に貸していたのだが、運動具店が移転して空き店舗になったため、坂野惇子の夫・坂野通夫に空き店舗の事を相談した。

このとき、坂野通夫は佐々木営業部(レナウン)で働いていたので、佐々木営業部(レナウン)がこの場所を借り、木造店舗を取り壊し、大金を投じて小売店「レナウン・サービス・ステーション」を建設した。

ところが、綿が配給制だったので、繊維問屋の佐々木営業部(レナウン)が小売店に進出する事に批判が殺到したため、小売店「レナウン・サービス・ステーション」は開店した直後に撤退を余儀なくされてしまった。

そこで、坂野通夫と田村寛次郎が坂野惇子に、レナウン・サービス・ステーションへ移り、本格的に商売するように勧めた。

こうして、坂野惇子は、周囲からの支援を受け、株式会社ファミリアを設立し、レナウン・サービス・ステーションへと移り、昭和25年(1950年)4月12日にファミリアをオープンしたのであった。

ファミリアの初代社長に就任

元田蓮は地主でもあり、ファミリア設立の切っ掛けを作った恩人だったので、みんなの推薦により、ファミリアの初代社長に就任した。

ところが、ファミリアを設立して間もなく、ファミリアの監査役・田村陽(飯田陽)と取締役・川村睦夫が相次いで辞任した。

さらに、あまりにも売り上げに対して利益が少ないので調べてみると、ファミリアの会計で不正が発覚した。

初代社長・元田蓮は、こうしたファミリア創立初期の混乱を受け、「皆に推されて名目上の社長になっているが、私には本業のシューズショップという仕事があるので、なにもできないのが心苦しい。このさい、実際にファミリアに打ち込める人が社長になるべきではなかろうか」と辞意を漏らした。

これを受けてファミリア関係者が話し合った結果、佐々木営業部(レナウン)の坂野通夫がファミリアに出向して2代目社長に就任することになった。

こうして、坂野通夫が昭和27年(1952年)10月にファミリアの取締役に就任し、その翌年の昭和38年(1963年)5月に元田蓮はファミリアの社長を辞任した。

しかし、坂野通夫はファミリア全体を把握してから社長に就任するとして、元田蓮が社長を辞任した後も、取締役のままファミリアの改革にあたったので、ファミリアはしばらく社長不在が続いた。

その後、坂野通夫は昭和31年(1956年)5月にファミリアの社長に就任した。

一方、元田蓮はファミリアの社長を辞任した後も昭和32年(1957年)5月までファミリアの取締役を務め、死去する昭和37年(1962年)7月までファミリアの監査役を務めた。

なお、ファミリアや元田蓮に関連する人物の一覧は「坂野惇子の関連人物のまとめ」をご覧ください

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