村井ミヨ子(中井ミヨ子)の立志伝

ファミリアの創業者・坂野惇子の生涯を描く小説「ファミリアの創業者-坂野惇子の生涯」の登場人物の紹介編「村井ミヨ子(中井ミヨ子)の生涯」です。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)の概要

村井ミヨ子(中井ミヨ子)の画像村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ファミリアの創業者・坂野惇子の親友で、ファミリアの創業メンバーに加わり、ファミリアの手編み部門の基礎を築いた人物です。

村井ミヨ子の家系図

明治時代に栃木県日光市足尾で、日本初の公害事件「足尾鉱毒事件」が発生し、地元の名士・田中正造が足尾鉱毒事件の解決と救済に奔走した。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)の母方の原田家は、綿糸商を営む豪商だったが、田中正造を金銭的に支え、財産のほとんどを足尾鉱毒事件の救済に費やしたので、財産は何も残らなかった。

村井ミヨ子の家系図

村井ミヨ子(中井ミヨ子)の生涯

村井ミヨ子(旧姓:中井ミヨ子)は、中井栄三郎の3女として、大正12年(1923年)3月4日に東京市麹町区3番地で生まれた。

父親は日綿実業(ニチメン→総合商社「双日」)の東京支店長・中井栄三郎。母親は原田定助の娘・原田キヨ(中井キヨ)である。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)はへその緒が首に巻き付いた状態で生まれ、仮死状態であったうえ、未熟児だった。医者がキチンを成長するか心配するような状態で生まれた。

そこで、祖父が誕生日(3月4日)を記念して「三四子」と名付けようとしたが、父・中井栄三郎が「美代子」と名付けようとしたため、最終的に「ミヨ子」と名付けられた。

村井ミヨ子がインドへ行く

村井ミヨ子(中井ミヨ子)が1歳の時に、父・中井栄三郎が妻を連れてビルマ(ミャンマー)へ赴任することになった。

父・中井栄三郎は長男を妻の実家に預け、長女・次女を自分の実家に預けたのだが、病弱な三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)を心配したのか、村井ミヨ子(中井ミヨ子)に看護婦を付けて一緒にビルマ(ミャンマー)へと連れて行った。

そして、ビルマ(ミャンマー)で村井ミヨ子(中井ミヨ子)に弟が生まれた。

その後、父・中井栄三郎がインドへ赴任することになり、村井ミヨ子(中井ミヨ子)もインドへ渡り、インドで幼少期を過ごしたので、インドでの思い出が多くある。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は仮死状態・未熟児で生まれた影響で発育が遅れていたが、インドに来て、ようやく人並みに成長した。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)が帰国

村井ミヨ子(中井ミヨ子)はインドで幼少期を過ごしたが、やがて、小学校へ入る年齢に達してたので、母・中井キヨと弟と共に帰国し、日本に残っていた兄や上の姉2人と合流し、兵庫県芦屋市に住んだ。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、芦屋の精道小学校へ入学したが、体が弱く、風邪と肺炎を繰り返しており、学校の先生よりも医者と仲良くなるような状態だった。

やがて、父・中井栄三郎は大阪勤務となって帰国し、芦屋時代に弟が生まれた。

やがて、医者の勧めも有り、父・中井栄三郎は空気の良い兵庫県芦屋市山手町の松林の中に家を建て、中井一家は移り住んだ。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、精道小学校を卒業後、兵庫県神戸市のミッションスクール「松蔭高等女学校」を経て、松蔭専攻科で学び、卒業後はお茶・お花・洋裁・ピアノなどに励んだ。

村井ミヨ子の生涯-坂野惇子との出会い

昭和16年(1941年)ごろ、フランス帰りの松葉先生が兵庫県神戸市東灘区岡本でアトリエを開いており、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は洋裁を習うため、週3回ほど、松葉先生のアトリエに通っていた。

一方、後にファミリアの創業者となる坂野惇子は、昭和15年(1940年)5月に坂野通夫(ばんの・みちお)と結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に住んでおり、よく夫婦で一緒に2匹の犬を散歩させていた。

松葉先生のアトリエに通っていた村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ときどき、2匹の犬を散歩させている坂野惇子・坂野通夫の夫婦を目撃しており、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は犬好きだったので、坂野惇子・坂野通夫の夫婦に親近感を覚えていた。

そのようななか、ある日、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は坂野通夫から「あなた子犬いらない?」と声を掛けられた。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、以前から「素敵な夫婦だな」と思っていたので、二つ返事で「はい」と答え、子犬を貰いに行った。

犬好きだった村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、こうして子犬をもらった事が切っ掛けで、坂野惇子・坂野通夫夫婦と知り合い、交流が始まった。

村井ミヨ子の生涯-結婚

学校を卒業後、村井ミヨ子(中井ミヨ子)がお稽古に励んでいるなか、大阪・船場の旧家・村井家の村井完一との縁談が持ち上がる。

まだまだ学びたい事があった村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、「まだ結婚はしたくない。ましてや、村井のおじさんだけは絶対に嫌」と結婚を拒否した。

しかし、父・中井栄三郎が「嫌なら、いつでも戻ってきてもいい」というので、昭和19年(1944年)に大阪・船場の旧家・井村家の村井完一と結婚した。

西洋式の生活を送っていた村井ミヨ子(中井ミヨ子)にとって、古い仕来りが残る旧家・村井家の生活は困惑と困難の連続であった。

結婚後に、村井ミヨ子(中井ミヨ子)が村井家で初めて迎えた誕生日は、赤飯に鯛の尾頭付きだったうえ、テーブルではなく、お膳だった。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、バースデーケーキの無い誕生日と足の痺れで泣きそうになったが、なとか離婚せずに結婚生活は続いた。

村井ミヨ子の生涯-終戦

陸軍中尉だった夫・村井完一は、内地勤務で、自宅も戦火を免れた。村井ミヨ子(中井ミヨ子)はファミリア創業メンバーの中で唯一、被災を免れて比較的良い状況で終戦を迎えた。

しかし、戦後、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は進駐軍に自宅を接収されたため、仮住まいでの共同生活を経て、山芦屋の実家の庭に小さな家を建てて夫・村井完一と姑の3人で住んだ。

村井ミヨ子の生涯-坂野光子と遊ぶ

昭和21年(1946年)4月に坂野惇子の夫・坂野通夫が帰国し、坂野惇子らは疎開先の岡山県勝山を引き払い、同年5月に兵庫県尼崎市の塚口へと移り住む。

子供の居ない村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、兵庫県尼崎市塚口の坂野家に通い、坂野惇子の長女・坂野光子(てるこ)と一緒に、坂野惇子を「おかあちゃま、おかあちゃま」と呼んで遊んだ。

そのようななか、坂野惇子の父・佐々木八十八が軽井沢の別荘を手放すことになったので、坂野惇子は別荘に置いていた荷物を引き取ってくる。

こうした荷物の中に、坂野惇子が昔から貯めていた外国製の毛糸や生地などがあった。

元々、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、まだ結婚せずに習い事がしたいと思っていたので、坂野惇子に手芸を教えて欲しいと頼み、坂野惇子に週1回、手芸教室を開いてもらい、坂野光子と遊びながら手芸を学んだ。

村井ミヨ子の生涯-ファミリアの設立へ

坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人がベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)を開業する事を決め、村井ミヨ子(中井ミヨ子)も坂野惇子から誘われた。

生まれた時から病弱だった村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、病弱な日々から脱却したいと考えていたので、父・中井栄三郎と夫・村井完一に「手伝いたい」と相談すると、2人とも「ご迷惑を掛けない程度なら」と賛成してくれた。

しかし、村井ミヨ子(中井ミヨ子)の主治医が反対したため、夫・村井完一がベビーショップ・モトヤで働くことに反対してしまう。

最終的に父・中井栄三郎が「無理をしないで、ご迷惑を掛けない程度なら仕事をもった方がいい。今後の世の中は女性も家の中に閉じこもるべきではない」と説得してくれたので、村井ミヨ子は家族の協力を得て、坂野惇子のベビーショップ・モトヤ(ファミリア)を手伝うことになった。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は体が弱かったため、週3~4回の勤務で、ベビーショップ・モトヤで、大好きな縫い物をしながら、坂野惇子と一緒に販売を担当した。開店準備で木の雨戸を外すなどの雑用もこなした。

店番も務めたが、計算が苦手だったので会計で何時も過不足があったうえ、月に1度は高熱を出していたので、本人は一生懸命に頑張っていた割には、みんなに迷惑をかけていた。

坂野惇子は子供が小さかったので、日曜日は休んだので、坂野惇子の休みの日は、子供の居ない村井ミヨ子(中井ミヨ子)や、子供が大きい田村光子が店番を務めた。

また、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は病弱だったため、勤務時間は午前10時から午後4時までで、夕方5時になると、夫・村井完一が迎えに来て、「ミヨ子はもう寝る時間なので」と言って村井ミヨ子(中井ミヨ子)を連れて帰った。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は病弱で月に1回は熱を出していたが、坂野惇子と一緒に働くようになってからは、次第次第に熱が出る間隔が長くなっていった。

ベビーショップ・モトヤが株式会社ファミリアへと発展する頃には、毎日、出勤できるようになっていたので、ファミリアの創業時には家族が、ファミリアの参加を応援してくれた。

後に村井ミヨ子(中井ミヨ子)が「ファミリアで働いてなかったら、どうしてかしら」と尋ねると、坂野惇子は「半分、病院生活よ」と答えた。

それを聞いた村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ファミリアを通じて健康を得たことに気づき、坂野惇子と出会ってファミリアで働けたことに、改めて感謝した。

村井ミヨ子の生涯-編み物で活躍

ファミリアで働き始めた村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、坂野惇子や田村枝津子(田村江つ子)から本格的なベビー用品の編み方を習い、販売の傍らで編み物をしながら、多木由枝らにも編み物を教え、多木由枝らにも編み物を手伝ってもらった。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)が作った編み物は柔らかくて風合いも良かったので、ファミリアの人気商品となり、次第次第に人手を増やしていき、編み手だけで100人ほどまで成長した。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)は2ヶ月間、入院することになったときに、編み手部門は後任に任せたようだが、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、ファミリアの手編み部門の基礎を築き、ファミリアの常務取締役を務めた。

マタニティ部門の責任者を務める

ファミリアは、外国人から教えてもらったマタニティドレスを日本の生活にあうようにアレンジして、昭和30年(1955年)頃から販売していた。

しかし、当時の日本では、ほんの一部の人たちしかマタニティドレスを着ることがなく、また、他のベビー用品が拡充して売り場が狭くなったため、マタニティドレスの販売から4~5年で中止された。

しかし、坂野惇子は常々、妊娠中のお母さんに明るくて機能的なドレスを提供したいと考えていたので、神戸元町本店を拡張したのを機に、昭和47年(1972年)に欧米8カ国からマタニティドレスを買い付け、昭和48年から販売を始めた。

これはマスコミにも取り上げられ、予想以上に好評だったので、ファミリアは、輸入品のノウハウを吸収し、昭和49年(1974年)2月に村井ミヨ子(中井ミヨ子)を責任者として、マタニティ部を発足させた。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)はフランスで技術を学んだ少数精鋭チームを率いてマタニティ商品を作り、「明るさと幸せがある」と好評のマタニティ部を築いた。

なお、小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物の一覧は「ファミリアの創業者・(坂野惇子)の生涯-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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